英語圏での言い回しだ。"Use it or lose it" 「使わなければ失われる」というイディオム(慣用句)である。
何年も前に手に入れた物を大事に取っておいて、いざ最近になって取り出してみたら汚れていたり壊れていたりといった経験はないだろうか。私はバイクに乗るから、長いことエンジンをかけずにいると、アイドリングが弱々しくなったり始動が不安定になったりする経験がある。数日乗らなかっただけで、エンジンの挙動が微妙に変わるから敏感に察してしまうのだ。
こうした物に限らず、使われない何かは衰えていくことを“実感”できる。
学生時代に得意としていた長距離走の体力は、大人になってから確実に衰えた。やってやれないこともないが、今さらになって6,7kmも立て続けに走ることはなくなった。9~10分程度走って、これがおよそ2kmくらいとなることは何年か前に実践したことがある。最近になって、夜な夜なランニングをしている者を見掛けることがある。何を目的に、そんなことをしているのか想像に難くないが、年を食った人間がそういう事をしている様を見るに、体力の衰えを“実感”するからこそ、これを見過ごさないために努めているように映るわけだ。
他人の事はともかくとしても、使われない機能は日々、着実に失われていく。この頃になって、昔描いた自分の漫画を見て、今になって同じようなものが描ける自信がない。しかし、絶対にできないというわけではなく、しばらく取り組めば取り戻せるくらいの能力だが、この先ずっと放置したら二度とその能力は戻らなくなるかもしれない。
少年時代はゲームにばかり明け暮れたとは言っても、創作や読書は苦もなくできていた。このところ、得意としている一部の事以外はできなくなっているようだ。したがって、ここに至るまでに思い入れの有無に関わらず、愛着のあったゲームの多くは処分した。
すなわち、取捨選択をしたのである。ゲームを全否定するつもりはない。その一方で、私は優先順位を定めた時に、ゲームが低い位にあることを悟ったのである。そして、時々に思い出したようにまた買い戻してゲームに明け暮れるのである。しかし、本質を見つめた時に、本当に役立つ経験を与えるゲームは数少ないことが明らかなのだった。
人間の脳もこうした取捨選択を日々繰り返している。使う機能は保たれる中、使われない機能は緩やかにだが確実に衰退していく。それでなくとも、大人の脳は子供の頃に比べて、脳の神経細胞が日毎に数万ずつ死に続けていく。
これにより、老化していく人間は目に見えて、脳の衰えを実感せざるを得ないのだ。特に、一部の老人が感情を抑えられずに周りにぶつけてしまうのは、理性を司る扁桃体の衰えが起因している。つまり、彼らは人間性を問われるべきではなく、身体的能力の「限界」を理解されるべきなのである。
現代の若者の多くは片時も離さず、スマートフォンを手にして方々を歩いている。これを見ると、私は人間の「限界」を垣間見るのだ。機械が多くの仕事を肩代わりすることで、脳を大して使わずに過ごすようになる。応用力の欠如を始めとして、人々から適応力が奪われていく。スマートフォンは単なる手段であり(移動という目的を侵害してまで使うような物ではなく)、これを主目的として生活することは脳死も同然の暮らしを受け入れるようなものだ。
とにかく、将来の自分が現在よりも有能でいられるかどうかは、最適な取捨選択を常に心掛けることが必要だ。自由や快楽に身をうずめている最中は愉しくとも、長い目で見ると、この現在は“特別な対策を講じない限り”無能に老い衰えた自分自身に繋がっている事実を知っていなければ、人生は既に脳死を待つのみだということを、ふと気付いた。