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価値なき者には生きている意味があるのかと問う

 倫理観・道徳観は人同士が関わる社会で付き纏う、当然のようにあって無視できない指針である。自覚の有無に限らず、だれかはだれかのために奉仕し、生み出された価値を享受する立場の他者が居る。この奉仕を時々、搾取と呼んでは自虐的に過ごすのは社会的弱者の悪い癖みたいなものだろう。  一方の私は一年余り、潤沢な収入を約束された労働に、腰を据えて尽力できるはずだったが、些細な綻びが波及していき、再び無一文に戻っている。こうして職を失うと、自分が無価値になった。それまでは、たとえ一日当たり一万円あるいは二万円稼いでいたとしても、退職してしまえば価値を生まないゴミ同然になる。これが最初ではない。死線を数々乗り越えてきたといえば聞こえは好いが、通常ならそのような試練に、だれも身を置きたくはなかろう。  思い返すと、前年は劣悪な搾取構造によってそこそこ気に入っていた賃貸を去り、一時の収入では賄えない額の負債だけが残り、明日をも知れぬ身だった。身体に支障がなくとも、収入がないというだけで、途方もない欠陥を抱えた存在みたいに自分を錯覚する。そのため、十年以上前に見限った実家に仕方なく戻った。  家族の事は基本的に好いていない。年上の集団だったが、大した事は私に教えなかったからだ。社会に出てから初めて多くを知った。だから、私が彼らに感じていた疑念は間違いではなかったと確信した。久しく会ったその人は、表面上は家族らしい態度で接してきて、宿泊を許してくれたが、援助はほとんどなく、干渉の度合いは拡がっていくようだった。庭に生えたままの緑色の植物だけでは終わらない、変わり果てた様々な現状を目の当たりにして改めて、そこが私の居るべき場所ではない、と再認識した。彼らには彼らなりの生活があり、そこには微かな懐古はあったが、受けてきた屈辱を赦すつもりはない。  帰郷の結果を端的に述べると、私は軽蔑した。たとえ、金銭を持っていようとも、あのような手段で得られた事に何の価値があるのだろう。家族よりはまともな付き合いをできている近場の親族は、行き場ない私にわずかな食事や風呂を提供した。かけがえのない恩義を持って接している。そんな人たちであっても、この私が将来的には遺産に喰い付くものだろうとこぼしていた。金銭そのものに価値なんてないのに、それが解らない時点で住む世界が違う。  かくして、実家を早々に出て行くことに成功...

人間の価値は決して均一ではないから層がある

   下請け、肉体労働、搾取……、資本主義の嫌なところに足を突っ込んで抜けなくなってしまっている。日をまたぐ毎に増えていくのは負債と自己嫌悪である。仕事とは言っても、雇用関係にはないから、後ろ楯や保証にも与れず、これが利害関係として駄目と決まれば切り捨てるか切り捨てられるかのにらみ合いをしているようだ。  さて、前文の通り、現在の私はとても楽観的に物事を捉える事が難しい状況に置かれている。「状況」というものは面白いもので、人間を右にも左にも突き動かす強制力あるいは、必然性を秘めている。あらゆる善行、悪行にも言い当てられることではあるが、人や生物が行う営みには、そうした状況が付きまとう。  養うべき家族が居れば、それらを守るために働くなり生きるなりを強いられねばならない。これも「状況」である。言い換えるなら、環境とも言う。当然、守られる側となり特段、行動しなくても過ごせる者ならば、家から出ずにいることも許されよう。これもまた環境が人をそのような姿にさせる。  ところが、私に至っては、自分が行動をし続けなければ、自分を守ることも生かすこともできず、みすみす死に向かうだけの存在となる。自らの人間性が災いして、社会を忌避し、疎まれ、度重なる搾取を受けて最早、生命を保つためのよすがが尽きようとしている。  雇われて働くのは性に合わない。自分自身の信念が雇い主と折り合いが着かないことの方が圧倒的に多いためだ。企業というのは、秩序や習わしに忠実であり、これは非常に安定的である反面、成長や革新から距離を置いた所に留まろうとする傾向がある。私は計り知れない数々のリスクを冒してでも、現状に留まったり思考を止めたりすることを本能的に嫌悪しているから、こうした企業のこだわりや停滞に寄り掛かって居られなかった。  むろん、私とて怠惰であるし労働や仕事をせずに居られるならそれに越したことはないと考える愚かさを抱えている。それが講じて、時に馬鹿であり、時に無知を付け入られ、搾取されるばかりの時間を過ごし、その仕組みや手口を知るに至る。  今更だが述べよう。知識や知恵を(持たないのではなく)持とうとしない者、これは社会において餌食になる。餌食とは、食われる側だ。ただひたすらにしゃぶりつくされ、味がなくなれば無残に捨てられる。利益を享受する賢き食う側にとって、何も知らない餌食の行く末等はゴミ...

使わない機能は、やがてなくなる

   英語圏での言い回しだ。"Use it or lose it" 「使わなければ失われる」というイディオム(慣用句)である。  何年も前に手に入れた物を大事に取っておいて、いざ最近になって取り出してみたら汚れていたり壊れていたりといった経験はないだろうか。私はバイクに乗るから、長いことエンジンをかけずにいると、アイドリングが弱々しくなったり始動が不安定になったりする経験がある。数日乗らなかっただけで、エンジンの挙動が微妙に変わるから敏感に察してしまうのだ。  こうした物に限らず、使われない何かは衰えていくことを“実感”できる。  学生時代に得意としていた長距離走の体力は、大人になってから確実に衰えた。やってやれないこともないが、今さらになって6,7kmも立て続けに走ることはなくなった。9~10分程度走って、これがおよそ2kmくらいとなることは何年か前に実践したことがある。最近になって、夜な夜なランニングをしている者を見掛けることがある。何を目的に、そんなことをしているのか想像に難くないが、年を食った人間がそういう事をしている様を見るに、体力の衰えを“実感”するからこそ、これを見過ごさないために努めているように映るわけだ。  他人の事はともかくとしても、使われない機能は日々、着実に失われていく。この頃になって、昔描いた自分の漫画を見て、今になって同じようなものが描ける自信がない。しかし、絶対にできないというわけではなく、しばらく取り組めば取り戻せるくらいの能力だが、この先ずっと放置したら二度とその能力は戻らなくなるかもしれない。  少年時代はゲームにばかり明け暮れたとは言っても、創作や読書は苦もなくできていた。このところ、得意としている一部の事以外はできなくなっているようだ。したがって、ここに至るまでに思い入れの有無に関わらず、愛着のあったゲームの多くは処分した。  すなわち、取捨選択をしたのである。ゲームを全否定するつもりはない。その一方で、私は優先順位を定めた時に、ゲームが低い位にあることを悟ったのである。そして、時々に思い出したようにまた買い戻してゲームに明け暮れるのである。しかし、本質を見つめた時に、本当に役立つ経験を与えるゲームは数少ないことが明らかなのだった。  人間の脳もこうした取捨選択を日々繰り返している。使う機能は保たれる中、使...

下品な人間に囲まれるということ

   品のない人間で溢れ返っている。ともいう私も品のある方の人間ではないのだから、わざわざだれが下品であるかを論じることは間違っていると思う。一つだけ確かなことは、品格とは心掛け次第で保たれるものであると確信している。  そして、私はその心掛けを察して自覚できる人間である(実践できるかはともかくとして)。この「察する」というのが重要なのであって、いかに不器用であっても心の片隅では感じたり思ったりしたことをどこかで呼び起こして、反省できるのが「下品ではない」ということの証なのである。  その反対に、そもそも何事にも鈍感で、心配りどころか日常の断片に「気付き」すら得られていないような人間が大勢居て、そうした人たちに配慮や反省の精神を説くことは、ただひたすらに時間の無駄であると断言してもよかろう。  私は自分の無知のせいで多くの失敗を経験してきたし、現在でもそれは続いている。不勉強であり、経験不足であり、至らぬが故の過ちがいつも我が身を襲うのである。そうして、事が起こった後に自らを省みて悔いたり憤ったりして心の平穏が損なわれる。  自分の欠陥に思い至った後、それらを直そうとして上の次元に到達できてから再び心には安寧が訪れる。そうした出来事の繰り返しが、わずかではあるが自身をよくしていっていることも解る。  しかし、過ちを踏んでもなお、それを繰り返して自覚してか知らずか、平気な顔で図々しく生きている者たちが眼前を過るのなら、私はこれを品格の劣る存在だと見えて不快になるのだ。これらに囲まれて過ごしている自分という存在はなおのこと、嫌で仕方なくなる。  やがて、もっと高尚な人間になっていくのなら、そうした下劣な者たちとは違った世界で生きていくことが許される。そう信じて生きていくことでしか、その不快感を拭う手だては見付かりそうにもない。話し合ったり理解を求めたりすることは疲れるのだ。まして、この過敏な精神を共感してくれるものならば、そもそも自分を省みるだけの能力が備わっていて当然なのだから。  私は下品な人間に囲まれて生きなければならない自分を呪うし、こうした世界に生きる現実を未然に防ぐことができなかったすべての人間に同情と慰めの言葉を送りたいのだ。  叶うことなら、今からでも始めた方がいい。決して自分を安売りすることのないように、やれることはやれ。あらゆる手を尽くして、...

利用しているのはどちらの方か

   利用し、利用されて生きる。それが人間の社会の真理だと思っている。そればかり考えていると、素直に人々の良さを見つけられなくなり、自分自身にさえ嫌悪感を抱いているものである。  私がこのような心境に立っているのは、ひとえに現在の収入源ともいえるバイト先の有り様に起因している。まず、この職場と呼んでよいものやら疑わしい環境についてだが、とにかく人に恵まれない。人員が足りていない。従業員の数もそうだが、それにも増して仕事の質も悪い。意欲が低く、仕事の出来映え・後始末が悪い。  この問題は人的な要因に加えて、労働環境に原因がある。  着眼点と勘が鋭く目ざとい私でさえ、取りこぼしが発生するくらいの、余裕のない状況が続いていることからも、状況が仕事を困難にさせていることは確かである。むろん、私でさえそうなるのだから、これよりも能力の低い人間が私以上の働きをできるわけがないし、現実にその人たちの仕事の出来映えは高が知れている。  しかし、それは能力的な不足のみならず、各々が十分な集中を発揮できない環境によるものが多く、相当に対応力の高い人間がどうにかして遂行できるものなのであって、そもそも並み程度の人間が果たせるような職務ともいえないのだ。  では、この職場の特徴を分析してみる。  人が不足している、というのが最大の欠点である。  人が居ない理由は主にこの二つ。 1,職務の参加に意欲が得られない。 2,従業員にかかる負担が重い。  不況だ高齢化だといえども、実際に労働者はまだまだ多く居る。能力の低い人間が隅で無駄口を利いたり手持ちぶさたに遊んだりするくらいには足りているといえる。しかし、私の居る職場に、これはあまり関係がない。  1における「意欲」は、労働契約における待遇が優れていないことが最初に挙げられる。分かりやすい部分でいうなら、賃金、時間給が低い。いわゆる最低賃金といわれる水準の額面であるから、ここに勤めようとする労働者は必然、能力が低いか意欲の低いか、という者の集まりになる。ともいう私はそうなのか実感がない。  2の「負担」というのは、単純な仕事量のことである。能力の低い人間が多いとなれば、それよりも優れた人間がその不足分を補って取り組むことが多い職種であり、介護とまではいわないが、それと似たような気遣いやら支えやらを余儀なくされる場面がある。たとえば、仕事...

止まっている

 目的から目を逸らして止まっている限り、何も前には進んでいかない。当たり前で当たり障りない退屈な日常に追われるようにして、凡人である自分を許している。それが居心地よく、最も楽で、何も考えなくて済むからだ。  何かを変えようとして生きていても、流されることを選びがちだ。流されたくないと願っていても、自分から行動していなければ、抗うことができない流れに捕らえられている。気持ちだけでは、到底逆らえていない。大部分の人たちは、これに該当している。  自分から動こうとまではせず、ただぼんやりと退屈な流れに身を任せているのに、自分自身が何かを求めているかのように錯覚する。今この瞬間も周囲からものを与えられているに過ぎない。何かを自分から手に入れようと動いているわけではない。だから、立ち止まっているのと変わりがない。  否応なしに過ぎる流れに従っていく。それを努力とは言わない。言うなれば、怠慢だ。これに打ち勝てないから、目的の尾にすらたどり着くことができない。そして、何もできない人間になっている。

変われる力は変える環境によって

 およそ三〇年ほど生きてきて、驚くほど何もない人生であったと振り返る。大病は患わなかったし、よそ見を許されないほど膨大な苦労もしなかった。出来事を列挙していけば、何かしらは年表にできる自分史を持っていようとも、現在の時点で私は自ずから誇れて自慢できるくらいの出来事を起こしていないのである。  好きなことを仕事にしたいとおぼろ気に思い描いていた二〇代ではあるものの、最近では好きだから仕事になるのではなくて、生きるためにこなしていく仕事だから好きになっていくのだと微かに気付き始めている。これは歴史に残る大きな発見だ。飽くまで自分史の範ちゅうでしかないが、仕事をすることに楽しみや名残惜しさを抱けるほど、献身的で健気な自分に感心している。勤勉な労働者となるための助けを実直に果たしていたのは、環境だった。  環境とは、我々を取り巻き、影響を及ぼし合う状況を指して使われる単語である。ずる賢い人間が多い土地で暮らせば、自然、自分もそのような卑しい部類に落ちるであろうし、高尚な人間が多い土地であれば、自分自身もそうであろうと努めるものである。郷に入っては郷に従え、という外国人の教えもあるが、あながち馬鹿にはできないのである。  そのくらい、自分が身を置いている場所は強い効力を持っている。これまで生きてきて、最も自分を高みへ導く可能性に満ちていた時期を挙げるとするなら、高等学校時代にまでさかのぼる。あの頃はよかった、と今でも思う。なんでもできたはずなのに、なんにもしなかった。免許を取れればもっと早くバイクに乗れただろうし、資格を取りさえすれば高収入の仕事にも就けただろう。  では、なぜなにもしなかったのかと聞かれたら、なにもできなかったと答えるのが正しいと考えている。なぜなら、自分をつき動かすための要素が不足していたためだった。共に競い合い、肩を並べる好敵手も居なかったし、使命感を抱かせるほどの深い喪失や重たい責務とも無縁に過ごしてしまった。かといって、ただなにかを失えば人間、否が応にも変われるとするのは、不確かで危険な思想だ。  最も力に満ち溢れた時期に、恵まれない環境で、潜在能力を眠らせたまま時を過ごし、そのまま老けて死んでいくことだってある。運命は思い通りに命を運んでくれない。まるで、我らを嘲笑うかのように、残酷だ。  私は運命を従わせるために必要なのは、踏んできた手順よりも、...