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明見M (2)

 

C,灰ノカスカナ野ノ花


1


 春の訪れが待ち遠しい、とか世の中の人たちは言うでしょうけれど、ぼくは一生来なくていいと思います。緑が少しずつ芽生えてくる頃に、入学式や入社式と、人々は新しい始まりを迎えるでしょう。


 ぼくは就職も進学もしませんでした。ずっとアルバイトをしてここまで過ごしてきました。勉強だとかスポーツだとか、自分には突出した能力があるわけでないから、生活できるくらいの稼ぎがあればそれでいいと楽観視していたのです。それに、だれか養ってくれる人を見つけて、その人の機嫌を取り続けていれば、幸せになれずとも死にはしないだろうと……前向きなんでしょうかね。詐欺や売春に手を染めなかっただけ、ぼくはその泥沼地帯よりは離れた場所に居ることが許されています。


 自慰行為を恥ずかしげもなく公言するユタカほどではありませんが、ぼくにも人並みに性欲はあります。胸がどきどきするような場面には、火がついたように気持ちが揺らめき、冷静な判断ができなくなるのです。しかし、それは夢のように覚めていき、また突如として再燃する。その繰り返しですから、一時的に満たしてみても、きっと満足へはたどり着かないと思います。


 この小賢しさがあるから、ぼくは男性が恋い焦がれる処女性を保ち続けてこられたのかもしれません。ぼく自身を含め、性の自由化が進んだ現代で、配偶者になっていない相手以外との性交渉は珍しくありません。あわよくば、性の経験値を誇らしげに感じる手合いすら居るでしょう。


 性の経験がないというのは、耐性も免疫もないのと同じですから、いざという時に判断を見誤る危険があります。ですが、しっかりと「性の意義」を意識していれば、安易な性交渉には挑まないはずです。


 性行為とは、不特定多数の人間とするべきことではありません。かつて、ぼくは多くの男性と、妊娠に関わらない行為ならば一通りこなしてきました。感染症のリスクもあったでしょう。こんなのが処女だとは、たちが悪く、お笑いぐさかもしれませんが、一線は越えずに自分の身は自分で守ってきました。


 リスカ塔の作品に触れる折り、ぼくは「性」がそう簡単なものではないことを感づいていました。しかし、どこか寂しそうな様子で小説を書き続ける彼を目の当たりにすると、弱い自分に負けて、一つになりたいと思ってしまったのです。


 もうそれは叶いませんが。こんなことなら、多少強引にも、彼をその気にさせる努力をもっとすれば良かったです。


 この先、ぼくはだれかと性行為をするとしたら、結婚すると誓い合った相手とだけでしょう。だれでもいいから、どうにでもしてほしいと、思ってしまうこともありますが、それは淫乱であり邪悪です。


 生きている限り、性はどこまでもまとわりついてきます。女として生まれた者が持つ苦しみと、男として生まれた者が持つ苦しみ。海外では、性別を超越した受容こそが新時代に必要な価値観だと、そしてそれがこの島国の中でも浸透しつつあります。世界全体を巻き込んだ戦争が終結したように、人類は次の段階へ進もうとしています。


 しかし、人間がそう簡単に変われるとは思っていません。ぼくは俗に言う、Z世代と呼ばれるくくりに居ます。IT技術の進歩が目覚ましい時代に生まれ、みんながSNSやメッセージアプリを利用し、情報を発信し、収集する。ぼくの生まれた家は、両親がそろったよその家庭ほど裕福ではありませんでしたから、スマホやパソコンは当然ないです。同性の友達を意図的に作らなかったこともあって、他人の家で借りたり使わせたりしてもらう機会も然りです。


 ぼくがスマホを持ち始めて本格的にインターネットを使い始めたのは、高校生になってからなので、そう昔の話ではありません。それが良くも悪くも、情報に依存した社会からわずかに距離を置くきっかけになったのかもしれません。世の中が「こう」だと認める潮流に対して、便乗すれば間違いがないように見えます。ですが、被る痛みも等しく分配されるべきで、だれもが目を背けることは許されません。


 動物への残虐行為によって成り立つ食文化があったとして、それを知る以前は平気な顔で食事を取っていたにも関わらず、真実を知った後にビーガンだかベジタリアンに改まるといった動きをしている人も居るようです。このように、情報は人を操るのに最適な発明です。


 ぼくはどちらかと言うと操られるより操る側の人間でしたけれど、無意識のうちに「こう」あるべきという流れに取り込まれていることも少なくはないです。


 その最たる主題として、「性」がありました。


 LGBTという性的少数を表す略語に始まり、クエスチョンやアセクシャル、パン、ノンバイナリーなどの立場も確立されました。人間は非常に知的であるがゆえに、性別という概念にも多様性を認められるようにできているみたいです。


 できの良し悪しではありませんが、ユタカはそうした潮流に対して最期まで懐疑的でした。新しいものが次々に幅を利かせて、みんながみんな、元の場所を立ち去ろうとする時代ですけれども、変えてはならないもの、変えるべきではないものもあるはずなのです。


 人が性別を二分されるのは、主に染色体の働きだとぼくたちは解釈していました。そこに精神性や教育環境が作用して、可逆的に性自認や性指向が決定されるとも。


 インターネットの記事には、クラインフェルターやターナーなどの病を包括的に考えている者も居ましたが、そうしたインターセックスの人たちを普通の性別を有する我々と同等に捉えるのは愚かです。


 情報が氾濫した現代において性の多様化は非常に速く、認知されています。だから、何が正しいのかもよく判らないまま、流される人が大勢居るのも確かです。


 結論から言えば、ぼくは自分自身の性を少しばかり否定的に見るきらいがありますが、自ら命を絶つほどの苦しみではありませんから、女としての性質をそれなりに受け入れて生きています。周期的に訪れる性器からの出血に始まり、胸部の発達に伴う性的な付加価値にも、一通りの理解はしています。むしろ、そうでなければぼくはぼくを営めませんでした。


 さて、前置きが長くなりましたが、春が来るまでに、ぼくはミミズ郡とレンに続く、三人目の仲間を見つけました。ぼくの心理的抵抗を鑑みるに、その人も男性でした。彼は本来ならばリスカ塔の創作活動とは関係なく、ぼくと個人的なやり取りをしていた人に過ぎません。


 いわゆる、ネット恋愛とかいうのと近い気がします。レンの一件で大変な恥をかいたぼくでしたが、あきらめきれなかったのでしょうね。自分の事ながら確信を持てないのは、認めたくないからです。「さびしい」という言葉は、一人で死んでいく人間にとっては非常に間抜けな響きで、ユタカはぼくの前で決して使いませんでした。わざわざ使わずとも、全身から溢れそうなほどに、孤独が定着していました。


 ぼくはそういうさびしさと闘うには若すぎました。今度会う男性の方と、何か進展があれば、ユタカの事はすっかり忘れて、あの化け物とも関わらず、そのまま新しい人生に足を踏み入れていいのかな、とぼんやり考えていました。


 冬の厳しい寒さは和らいで、それでも肌寒い乾いた空気が青い天井をより遠く感じさせます。またこの駅で、会ったことのない人と待ち合わせです。相変わらず緊張しますが、慣れたものです。ミミズ郡の事があって、(言葉の)危機管理には気を遣うようになりましたし、レンと出会ったから、女としてもっと考えて行動するように気を配りました。


 弱みを見せないように、平常心を装って。それでも、彼に抱き締めてもらいたいと願ったし、もっと深いところまでぼくを知ってもらいたいとさえ想いました。それくらいその人は、ぼくの傷ついた心を癒してくれました。


 サイト上での、彼の名前は「かずなり」でした。しばらくお話ししていて、教えてもらった名前はどういうわけかカズヤでした。その名前に、やや期待を持って、のこのことやってきました。


 まだ午前中なので、人通りはわずかにあります。「赤い帽子に、黒いジャケット」メッセージアプリで示された服装をしている男性を広場で探してみますが、それらしい人物は居ませんでした。再度連絡を取ってみると、「左耳にピアスをしている」と追加の情報をくれました。


 左耳に銀色のアクセサリーを着けていて、赤い帽子を被り、黒いジャケットをまとっているのはこの場所に一名しか居ません。ですが、彼女は男性らしい身なりをしていても、男性ではありませんでした。


 外出していると、時々そういう感じの人を見掛ける機会はあります。ぼくは外見と実際の性別が一致していないのを見ると、戸惑いと共に不快感をまったく抱かないとは言いきれません。ですから、ぼくは世間が言うような「差別をしないようにしよう」という詭弁がいかに頼りないものなのかを、自分の感覚から学んでいます。


 そして、それは悪ではなくて、人間に残された動物的な感性が抱かせる必然の気持ちだと思います。たとえば、相手にそんな意図がなくても結果的に自分を傷付けた人が居たとします。その人の事情や都合を深く考えたなら、あらゆる行いにも受容の余地があります。しかし、人間は決して寛容ではありません。不快に感じたものは悪であり、快楽こそを善とする。嫌いなものを嫌い、好きなものは好く。ぼくだって、そうです。


 表立った差別感情は悪だとみなされ、今後は決まり事としてぼくたちを縛り付けるでしょう。心では「気持ち悪い」と思っていても、法律や条約があれば従わざるを得ません。人間はどれだけ文明を進歩させても、その動物的な感性があるからこそ戦い、奪い合い、自分たちの地位を確立してきました。


 競争し、弱者は踏みにじられるのが資本主義の特徴です。感染症の蔓延に伴って、職を失った人もまさしくその理によって、自殺を余儀なくされたとも言えます。どんな詭弁よりも、力を持った人間こそが正義であり、自他の深層心理に混乱と不和を塗り広げる、性的少数は決してそちら側になることはありません。したがって、多数の立場として生きることが必然的に正しいと言えるのです。


 決して寛容でない一人の女として、ぼくは、カズヤと出合ってしまいました。


「思っていた以上にかわいいじゃん。まあ、座れよ」


 カズヤは広場のベンチに腰掛けていました。一度は見ない振りをして通りすぎたその席で、ぼくのすぐ近くに居続けていたのです。カズヤのことをてっきり男性だとばかり思っていたので、話し掛けてみてから気付きました。


 どう言い表したらいいか判りませんが、単なる男勝りな女性とは言えない、不思議な雰囲気のする人でした。万が一、この人と親しくなってその先があるとすれば、ぼくたちはレズビアンということになりそうですが、より厳密に言えば一方がトランスジェンダーの同性愛と言い表したらよいのでしょうか。


 想像だとしても、すでにおぞましい。


2


 文章でのかずなりはさばさばしていて、頼りになる聞き上手な人です。こうして実際に会うまでは異性だと信じ込んでいました。ネット恋愛では、性別を偽って同性を馬鹿にする遊びみたいなものがあるようですが、それをやられた側の気持ちが判ったような気がしました。ですから、第一印象としてはカズヤに対して肯定的な感情は抱きませんでした。


「カズヤ、くんでいいんでしょうか」


 その、怒りを隠しきらない口調に自分で嫌気が差しながらも、彼は平然と相づちを打ちました。物腰は穏やかで、容易には角が立たない、男らしい度量がそこにありました。長々とした理屈をするでもなく、ある種の思いきった態度がぼくには新鮮に映っていたのです。メッセージでのやり取りで見せた態度そのものと言っていいほど、この人には裏表がありません。


 ユタカは神経質で言葉に依存しがちな女々しい人でした。良い意味でもその面倒くささにいつも考えを絶やさない、言葉の壁を築き続ける強固な城の中に居心地の良さ(?)はありましたけれど、時には頭をからっぽにして感情をぶつけられる相手が居てもいいでしょう。


 普段、人に感情を表現しない冷静なぼくなのに、この人の前では油断してもいいように感じてしまうのは、少女漫画の主人公が幼馴染みに対して接する、親しみに近いと思います。


「呼び捨てでいいよ。リタちゃん」


 女同士で「ちゃん付け」をするのは幼少から嫌いな性分ではありましたが、カズヤの言い方なら、まだあどけない同級生の女子が口にした、あの頃に感じた抵抗がありません。なにより、もう成人していますから、ぼくでない同性どもがどれだけ仲良くても「~ちゃん」なんて呼び合うことはほとんどないでしょう。それは小さな子供に使っても、同世代の人には相応しくない。それだけぼくたちは着実に年を重ねているわけでもあるのです。


 顔合わせは滞りなく進んでいきました。待ち合わせを午前中にして、一日をたっぷり使おうとしたのは、ぼくなりにカズヤへの過度な期待がそうさせました。会ってから、それを激しく悔いたのが正直なところです。いくら、雰囲気が男性だとしても体は女だと服の上からでも判るのです。男性にあるものがなくて、ないものがある。態度は女らしくなくとも声の高さは思いきり女でしたし、体つきにいかつさや威圧感はありませんでした。


 いち女の心理として、自分より強くない人には今一つ惹かれません。腕っぷしがどうというより、人間としてどれくらい尊敬できるか、と言い表したらいいかもしれません。だから、ぼくはユタカの年長者らしい達観した見方を愛していましたし、自分にないもの一つ一つを提示される度に退屈しませんでした。


 時おり、ユタカとこの複雑な人を比べてしまうことに、買い物中に商品の吟味をしているみたいで心底嫌になるのですが、そうすることでカズヤに足りていないものを探して、納得したかったのです。


 ですが、待ち合わせをした駅前から喫茶店、ちょっとした買い物、公園での休息、それらの流れが滞りなく、ぼくはカズヤに導かれて充実した午前を過ごしていました。午後からはそうするのが当たり前のごとく、カラオケボックスへ行きました。


 あの怪物に迫られた時の事を思い出すと消極的ではありましたが、カズヤを仲間にしたいと思ったのは事実ですから、この一日を乗りきって、結果を残す必要があります。


 そう息巻いて、個室で二人きりになりました。


 ものの数分で、息が詰まりそうな沈黙に襲われました。彼は何を歌うでもなく、ソファーに腰掛けて、脚を広げって、両手を背もたれの上に乗せて、うつらうつらと船を漕いでいます。一方でぼくは何から話したものか、と緊張気味に思い悩んでいました。


 リスカ塔の事情について、ミミズ郡やレンにも作品以上の事は話していません。言わずとも、彼らなら作品から何かを感じ取って、察しが付いていると思います。これは買い被りではなく、確信しています。あの人たちは人を惹き付ける本物の何かを持っているから。


 カズヤが寝ているのは幸運でした。頭を整理する時間と、平静を取り戻すほんのちょっとの余裕ができました。


 カズヤとは一人分ほどの距離をおいて、ぼくが深々と背もたれに寄り掛かると、そのなけなしの休息は突如として切り裂かれることになりました。


「……どこ、ここ」


 先ほどまでとは、一際高くて弱々しい声色がしたのです。ぼくは静かなのに異様な空気に、背筋が凍る思いでした。まるで、幽霊を目の当たりにしたような心境ではないかと、予想してみます。カズヤの外見をした女の子が不安げな顔をして、話し掛けてきました。


「あの、今日って何日ですか」


 問われたので正直に答えました。自分の携帯電話の画面を見せながら。それで思い立ったのか、彼女も自身のスマートフォンを衣服をまさぐりながら探していますが、見つかるまでに泣きそうになっていました。


「私。私はどうしてここに居るのですか……」


 探し物への関心はすっかり失せて、うつむきがちにまた問い掛けられました。


「ぼくとSNSで打ち解けたのがあなたでした。覚えてないんですか」


 彼女ほどではないですが、ぼくも相当に焦っていました。何が起きたのか、と。


「私、いつまでここに居られるのでしょうか」


 それは問い掛けではありません。独り言でした。余命を宣告された病人が使う言い回しな上に、曇りきった顔と安定しない態度が、言葉を鮮明に彩っています。その様子に拍子抜けして、カズヤに抱いていた小賢しい警戒心がほどけて、ぼくは積極的に話し掛けました。彼女についての事を。それと、何をそんなに怯えているのかについてを。


「私は二か月ほど前から後の記憶がありません。たぶん、また『消えます』。これは私にもどうにもできないのです……」


 大まかに聞いた話だと、彼女は記憶障害を患っているようです。そして、その間の自分がどのように振る舞っているのかも判らない。二重人格、というものみたいです。多重人格障害、現代では解離性同一性障害と言われるものです。映画や小説の題材としてよく使われるので、身の回りに居なくても多くの人から認知されている症例でしょう。


 昨今では、当該の患者を出演させたドキュメンタリー番組なども放送されるみたいです。実家を離れてからぼくは長いことテレビを見ていませんが、SNSで取り沙汰されるので解ります。性的少数とは違いますが、自己の在り方に独自性が見られ、一般的大勢とは隔たりがあるのが共通点です。


「あなたが男性らしくしているのと何か関係あるのでしょうか」


 今度はぼくが質問すると、カズヤだった人はぼくの洋服にしがみついて、その勢いで温かい涙の粒を間近で飛ばしてきました。


「私、まだ生きていたいよ。ねえ、助けて。本当はここに居たいんだよ」


 切実な乞いでした。余命宣告どころではなく、今まさに訪れようとしている死を恐れている勢いでしたので、ぼくも共鳴して、怖くなってきました。年はそこまで離れていないけれど、怯える人の頭を心から大切になでてあげます。彼女は身を任せて、ぼくの胸に頬を寄せて居ましたが、ほんの数秒でぼくの手は払い除けられました。


「もういいよ。どうだった、あいつと会ってみた感想は」


 声が元の(?)感じに戻っていたので、カズヤの「方」だとすぐに分かりました。


 戸惑いは禁じ得ませんでしたが、あの子の切実さを見た後では、この人に抱く印象も大きく変わりました。この人は、トランスジェンダーではない。それよりももっと脆弱な同一性に支配されようとしている。そんなふうに思えたのです。


「あなたは何者なの」


 ぼくは人格の交代を間近に見て、こちらの人が少なくても主人格ではないと見抜いていました。しかし、その見立てを裏切るように、彼女は言いました。


「オレこそが持ち主だよ、こいつの。で、さっきのは消え残り。じきに居なくなる」


 怯えきっていたあの子は、ぼくに「えりな」と名乗りました。


 カラオケボックスでカズヤとはこれといって進展はありませんでした。見たところ、歌を唄うのは好きではなさそうです。女と言えば、大抵は唄うことが好きな印象があります。これは根拠のない偏見というには尚早で、ぼくの記憶や観察眼がそう言わしめています。むろん、こうした傾向に関わる話題は必ず「そうじゃない人も居る」と反論を受けるさだめにありますが、そうじゃない人の事なんて語り手は意識しません。肝心なのは、そういう人が実在しているという現実そのものにあるのですから。


 一人でも当てはまる人が居れば、人間って「みんなそうだろ」とあきらめの思考をしてしまうものです。そして、それは自覚の有無ではなく、自然体としてそう意志決定します。意識的に、そう思わないようにしても、感覚は自我ほど回りくどくありません。


 やや堅い表現になりましたが、心は偽りが効きますけれど、人がそう抱く本能は本人にもどうにもならないことです。こんにちの差別、犯罪、社会悪、あらゆる現実の敵は人類が滅亡するまで生き長らえることでしょう。ユタカになら理解してもらえそうですが、きっと大勢の人はこれを認めたがらないはずです。


 意識して何かをしている時点で、ぼくたちはみんな共犯です。差別をしないように、いじめないように、それらを知覚し、どちらのベクトルに舵を切っていても、そう考えた時点で、すでに偏見をうちに秘めているのであり、それを意図的にごまかしているに過ぎません。


 それならいっそ、ぼくは差別もいじめも、可能な範囲で納得しようと試みるわけです。行き過ぎた愛国心が異国の者を蔑むように、空気を読めないで集団行動を乱す変わり者を排除する一般生徒のように。


 ですが、ぼくだって弱い人間の一員ですから、差別やいじめを受けるのは本意ではありません。自分を守るために、それらに対する抵抗はしますし、行為の正当性に依らずともぼくは敵を敵として処理し、やり過ごすのです。相手が正論を言っているからどうとか、そういうことではないのです。これが「感覚」をも論じるということです。感じるすべてを度外視して道徳観だけを頼りにした討論は実際に役立ちません。


 さて、歌を好まない一般的ではない異分子としては、カズヤもぼくもそうらしいけれど、この青年を果たして女と見なしていいのでしょうか。大概の女なら、歌に秀でます。仕事柄、カラオケを利用する客を日常的に見ています。音痴に男は大勢いますが、女はそう見掛けません。その差は、すなわち感覚の優劣にあります。


 ユタカは男性にしては感覚が秀でている方でしたから、歌も上手にできていました。それに、相当努力したのだと思います。その面だけを見たら、彼は女性的な部分を持っていた……。過ぎるくらいに、神経質で、よく気がつく人でした。


3


 ぼくが同性を嫌う理由には、こうした神経質が過ぎるという点に集約されます。


 男性は基本的に大雑把で、細々したことを気にせずに居られる傾向にあります。むろん、これは全体の割合で示したものですから、そうでない人も半数より少ないですが、確実に居ます。すなわち男女に関わらず、神経質や無神経はそれぞれ居ますが、前者には女が多くて後者には男が多いです。


 この割合の差は、感覚と自我の相関によって説明できます。芸術家や少数者……つまり、一般的ではない人を指します。この方々はユタカもそうですが、性別や傾向に依存しない、強い「自我」を持って生きています。よく言えば、こだわるタイプ。わるく言えば、面倒くさいタイプ。


 自我は男女問わず、個人としての同一性を強める要素です。カズヤを例にして言えば、彼の男性的な振る舞いは「意図的」であり、まったくの自然体、感覚的とは考えにくいです。それだけ「作られた像」という認識は取り除けません。


 自我を深く考察するがゆえに、ユタカが男性らしくない姿を持っていたのは、近くに居たぼくだから気づけたことかもしれません。でなければ、あたしは彼の子を身ごもるまで積極的に溺れていたかもしれない。いや、今のは忘れてください。一方で、自慰行為の件が示す通り、本能的には性に積極的であるという男性を有していたのです。


 こうした「男性らしくない」「女性らしくない」傾向は、非常に危ういです。どうせなら、苦労しないで楽に生きた方がいい。そう考える人にとって、性別や傾向を超越する要因である「自我」は邪魔なのです。生きづらくなるだけですから。


 深く考え込んだりこだわりを大切にする人ほど、とても個性的で魅力的です。ぼくだって、自分をほどほどにそう評価していますし、その上で女性が女性らしさを捨てることの無理にも思い至っているのです。


 自分の性別に劣等感のある人が一人称をぼかして「自分」「当方」とか使っている人が居たら、教えてあげましょう。「あなたの自我はすでに自分自身を差別し、否定するものだ」と。自我なんか捨てて、同一性もなくしてしまえば、残るのは本能だけです。この本能だけを信じていれば、今より苦しむこともなかったでしょう。


 この段階まで思考が追い付くには、世間の認識が一巡する必要がありそうです。多様性が現代の流行となりつつありますが、大勢の人々はぼくたちほど深く物事を考えません。説明しても、途中で感情的になるでしょう。また、前時代の差別だと見なして敵視されるかもしれません。


 しかし、人間はどこまでいっても人間です。男女の見方を意識的に変えても、その状況を疑問視しなくなったら、今度はそれを上回る次の価値観が生まれます。しかし、それは非常に迷惑で、残酷な事です。


 女らしくない人の事をそのように考えながら、ぼくは残りの時間を彼と一緒に過ごしました。街のはずれを歩いたり、そこで雑談したり、休憩がてらに喫茶店に寄ったりしました。二人で過ごす時間は決して悪くなかったです。始めは反感が勝りましたけれども、相手を知るに連れて、変な意地も小さくなって、消えていきました


 日没を迎えた宵の口にカズヤは、ミミズ郡やレンがしたのと同じように、「駅まで送る」と申し出ました。その仕草や計らいはどこまでも男性的であり、同性であることを忘れさせる魔力があります。この人が本当に、あの涙を浮かべた女の子と同一人物とは信じられません。


 人間の持つ自我とは非常に強力です。個人差も果てしなく大きいし、砂粒程度しか持たない人も居れば、山ほどの規模になる人も居る。人間だれしもが何かを思い、考えて生きているのは共通です。それでも、芸術を解釈する感性を持っていない人は圧倒的に多いし、判っているようでいて単に流されているだけの人も多いですから、真に目的を持って生きている人は限りなく少ないと思います。


 数年前に、サングラスなんか着けて、人々に笑われるばかりの動画投稿者が居ました。彼はとても間抜けで、とても知性に乏しい人でしたけれど、普通の人より強い自我を持って活動していました。その姿勢をうまく活かせれば、一流の表現者にもなれたでしょう。ところが、彼は幸が薄いせいか、その機会にも人望にも恵まれなかったようです。


 ぼくはユタカに、その人以上のとても大きな自我を見いだしたけれど、共に過ごす時間が長く続かなくて悔しいです。他の男性と関わるほどに、彼の大きさに気付くのです。ユタカなら、リスカ塔として、必ず有名になる。世間は彼に畏敬の念を抱くようになる。彼は現代の文豪に相応しい。


 本人からは言いすぎだと笑われるかもしれませんが、ぼくはそう信じたかったのです。だって、そうすればユタカを捨てた、無音少女のモデルになっただれかさんに大きな打撃を与えられたから。それで、あたしが彼の恋人になれたら、これ以上にない敗北感をあいつに……いやなんでもありません。


「今日は楽しくなかった? ずっと浮かない顔してるね」


 普段のぼくは死のことを考えては塞ぎ込むことも少なくありません。仕事もどこか消極的になりました。急に泣きたくなります。仲間よりも心の支えが欲しいと思っていました。ところが、カズヤはぼくの女としてのすべてを引き出すには本質的なものが欠けています。


「放っておいてよ」


 そう答えると、彼はまっすぐにぼくの目を見つめてきました。ドラマでは、キスでもするような雰囲気です。もしも、そんなことになったら、蹴ってやります。


「あれ、リタちゃんの知り合いか?」


 顔を寄せてきたのかと思えば、彼の意識はぼくの背後、その先に向けられていました。知り合いと言われたら、完全に否定しきれない、二十代後半くらいの、男性の群れが歩いてくるではありませんか。それらと最後に会ったのは、レンと駅に向かっている最中でした。


 今度はどう切り抜けたものかと悩むも、どうせ今回も一緒に居る人がうまいことやってくれる。そう信じきっていた矢先です。


「…………」


 カズヤは突然、糸の切れた人形のように地面に膝を落として、だらりと崩れてしまいました。その時には、もう彼らがすぐそばまで来ていました。いつもの、口ゲンカが強そうな男が吹っ掛けてきました。


「おう、おう! また別の男とお楽しみか? でも、気絶しちまったみてぇだなあ。おい」


 ぼくは低い体勢になりながらカズヤの体を支えつつ、男たちを見上げなければなりませんでした。このような社会のゴミに見下ろされるのは非常に屈辱です。ぼくは普段通りに、無関心の目付きと気の抜けた返事をして流そうと思いましたが、それに先んじて雑魚は続けてこう言いました。


「あんないいヤツが、なんだっておめえみてえなのとつるんでたのかねえ。気に食わねえなあ?」


 おそらく、レンの事でしょう。彼らが、ぼくのつるんでいた相手として知っているのは、ミミズ郡かレンです。あのミミズ郡が好意的に見られているわけがないので、必然的にそうなります。


 そんなことよりも、今度の矛先は男を見境なく喰い漁る、女としてのあたしが標的に選ばれてしまいました。これまでの人生を振り返ってみて、別に否定する気も起きませんでしたが、罪悪感はあります。ユタカの寂しさを埋めてあげられないまま、のうのうと自分だけ楽しもうなどとは思えません。将来的にできたとしても、現状でまだ割りきれないあたしが居ます。


「ほんじゃ、ちょっと来てもらおうか。そんなに飢えてんなら俺等が交替でかわいがってやるよ」


 しゃべっているやつとは違う方の男性から強引に腕を引かれ、どうせ力では敵わないと知っているので仕方なくそちらに引っ張られてやります。下手に抵抗するとケガをするだけなので、あくまで冷静に隙をうかがうのです。しかし、相手は五名ほどおりましたので、一人をどうにかできても、次はありません。ここは大人しく、借りてきた猫作戦です。


「やめてよォ!」


 高く、響き渡る声がしました。ぼくではなく、すぐそばにうずくまっていた人が放ちました。ぼくを含め、一同がそちらを注目し、カズヤだった人の泣き顔を捉えたことでしょう。その視線を受けて、ますます勢いが増しました。


「あっち行ってよ……。消えろおおおおォ!!」


 襲撃者たちは強い声色に面喰らって、ぼくを解放し、そのまま部外者に成りすまして、横を通りすぎていきました。


「えりな?」


 すぐに理解はできませんでしたが、それまでのカズヤとは思えない様子でしたので呼び掛けてみます。すると、依然として腰の抜けた体勢でこちらを見上げていて、ぼくが手を差し伸べました。


「よかった」


 対等な高さの視線が交わり合うと、涙目を輝かせつつ口元が緩んでいるのが見えました。彼女なりに、ぼくを心配してくれていたようです。ぼくがやや他人行儀にお礼を述べると、えりなは公衆の面前でも構わず、抱擁をしてきました。


「ちょっとは役に立てたかな。……また会えてうれしい」


 えりなの方に会うのはこの日で二度目でした。えりなにとっては、初対面からこれに至るまでがどれだけ前の出来事に思えていたのでしょうか。


 束の間の抱擁を終え、彼女が落ち着きを取り戻すのを待ってから、ぼくたちは駅前の、待ち合わせに使った広場のベンチに再び向かいました。すっかり夜になっているので、我が身を大事にする女性としては互いに長居はできないようです。


 カズヤの時に比べて距離感の近いえりなに、ぼくは若干の戸惑いと親心を同時に感じて、油断してしまいます。この子は心から自己の淘汰に怯えていて、その温度や握力には一切の邪念がないことを漂わせているからです。取り分け、女同士の恋愛を目的としたレズビアンというわけではなく、あどけない少女が何の打算も色欲も介さずに有している、無邪気な愛の形です。


「私、自分の意志でここに戻って来られたみたい。でも、どうしてだか解らない」


 ぼくは相づちを打ちつつ、聞くに徹しています。彼女の事情はわずかですが、把握しているつもりです。多重人格によって自分と自分が拮抗している、喰うか喰われるか分からない状態にある、と。人格の消滅はすなわち、その自我の死を意味していますから、とても恐ろしいことでしょう。常に、こめかみに銃口を突きつけられていて、それを自分で認識すらできないのに、なぜだかその先の結果だけがぼんやり解っているような、状況と言い表せばよいでしょうか。


 友達同士がするみたいに、一頻りたわいない会話をしてから、えりなは立ち上がりました。それに合わせて、ぼくも立ちました。


「リタ、私たち、また会おうね。約束だよ」


 ぼくが返事をすると、満足そうに微笑んでえりなは消えてしまいました。それすなわち、カズヤに戻ったことを意味しています。彼は人格の交替が起きたことを驚いていましたが、余裕の表情でぼくを送り出しました。


 同性の友達や約束なんて、柄ではありませんが、ぼくはカズヤたちに会えて良かったと思えました。


 自我の導きに従って生きる意味を、彼らなら知っている。そう確信したから。



ABC,ムダノ無イ無


1


 いよいよ四月になりました。疑う余地もなく、言い逃れようもなく、春の最中に囚われたぼくたちです。ぼくがユタカに初めて会ったのは、ここからひと月ほどした時期でした。あれからもう二年が経とうとしています。


 思い出すのが癖になってしまったので、ここでユタカの第一印象を思い出してみます。


 彼を一言で表すなら、「志願者」でした。何かに向かって進もうとしているものの、一向に先へ進めていない、燃えきらない廃材のような方でした。誉めるつもりも貶すつもりもありません。ただ、よく解らないのです。一目見た時から惹かれるものがあり、いつか声をかけてみようと思っていました。


 無条件に、その人が気になる事って少なからずあるのを実感しました。一目惚れとはまた違いますが、自分自身と似た雰囲気がしたと言いますか。血縁者でもないのに、それに近しい人と接する時のような心地になるのです。と、言ってもぼくにはあの母方の親戚しか居ないので、親しいも何もないのですが。


 ともあれ、ぼくのこの性格がほどほどにぞんざいな家庭環境で作られたものだとしたら、ユタカもまたそこそこ課題の残る場所で育てられたと見ることができます。だからこそ、ぼくは彼に接触して、親睦を深められたのです。


 彼がぼくを同居人として、どの程度気を許していたのかまではもう確かめようがありません。ぼくは過剰に求められるのを疎ましく感じますが、程よい距離感を持って接してくれるユタカを悪くは思いませんでした。安易に一線を越えない隔たりがあるからこそ、互いに巷の動物じみた男女みたいな安っぽい繋がりにはならなかったのだと思います。


 さて、そんな彼がぼくと出合った時期に長編小説「無音少女」は制作されました。これはユタカの半生を事細かに記した遺書みたいな作品となっています。リスカ塔は元々、学校を舞台にした小説しか書けない、とても限定的な作家でしたから、これは前期リスカ塔の原点にして終点と言える作品です。


 彼はこの頃から自殺を考えていたことをほのめかしています。


 ぼくは二十年余り生きてきて、これまで散々な屈辱を受けてきましたけれど、自分から退場しようなどと思うほど謙虚になったことはありません。どうせ、みんなズルをして生きているのだから、少々悪いことをしたって抵抗はないのです。ただ、頭の悪い行いで自らを不利に立たせるのは望ましくないので、そこだけはわずかな良心を残していました。


 ぼくがリスカ塔としてあの長編小説を推敲したのは、自分なりのけじめだったのかもしれません。生きている限り、自分が死ぬか他人が死ぬか。たまたま、彼の方が先に亡くなった。だから、ぼくはぼくにできることをした。


 無音少女の第二稿の完成を祝して、ぼくたちは会合を開くこととなりました。


 ですが、あの怪物女は呼ばないで、仲間たちだけで集まる予定を立てました。これは飽くまで事前の顔合わせであり、本式の祝い事はこの日呼ばれなかったその者も参加し、後日執り行われます。


 どこか物寂しい春先の孤独を埋めるように、ぼくは待ち合わせ場所に一時間早く来ていました。顔見知りに対してわざと遅れる必要もない上、主催者の務めです。


 青々とした空は、小学校の門を思い出させ、今もあの中学校のくたびれた体育館を見下ろしているかもしれないし、ぼくが高校生の頃から何も変わりないようでした。まるで、ぼくだけが余計に年を取って、世界は白黒のままかもしれない、感傷に胸を刺されます。一人、また一人と居なくなっていくこの場所で、ぼくは生きていく。


 時間の経過すら意識せずに、駅前の広場にあるベンチでうつむいていると、一人目が到着しました。ある意味、この人が一番最初で良かったと思いました。あとの二人が複雑な性格をしているから、身構えないで接してもいい彼の存在がありがたいです。


「こんにちは。いろいろお疲れ様。今日はみんなで集まる日だよね。……ハハ、あんまりでしゃばらないように気を付けます。お手柔らかに」


 警戒心を装ったぼくの眼差しを察してか、からかいぎみに笑みをこぼし、ぼくのかたわらにやって来て、背の高い男性はベンチのふちに片方の脚を預けながらたたずんでいます。


 レンの、人をまるめこむような柔らかい物腰に注意が必要です。軽薄な態度も、緊張した態度も、自在に適応できる彼は、とても魅力的に映ります。はっきり言えば、変わり者で陰気だったユタカよりも断然、人に好かれ求められる好青年です。わざわざ比べたくはありませんが、人としての価値はこの人の方が数段上だと、だれもが思うでしょう。


 あの時のぼくは、どうかしていたのです。レンは悪い人ではありませんが、とてもタチが悪いです。油断を招く性格をしているというか、それなのに自分の欲を持っていないというか、どこかユタカに似ているのに、基礎がまったく違うのです。これが、ぼくがユタカと彼を比べてしまうきっかけとも言えます。


 活動に際して、レンは主に宣伝をしてくれました。あの女が毎月の活動方針に関する動画を制作するのと同じように、彼はSNSでリスカ塔の小説の感想を書いて、判りやすく解説してくれました。小説の内容よりも、彼の話の方がおもしろいというのがささやかれているくらいです。……迅速かつ丁寧で、仕事ができすぎるので、ぼくたちの集いには不釣り合いかと考えさせられている次第です。


 他の人が座れるようベンチに座らず立っているレンですが、ぼくに気を遣っているのでしょう。思い出したくもありません。彼の過保護で出過ぎた優しさが、ぼくにとってはお節介であり、居心地悪かったのです。約束の時間よりも早く来ているのも、なんか恩着せがましくて、彼より遅く来ていたらぼくは一日中、優しい男性を待たせた罪悪感と闘っていたことでしょう。


 二人目はそれから程なく来ました。ところが、会ったことのない人だったので、戸惑いました。三人居るうちに、こんな女の子は居ないはずです。ですが、彼女はスマホを取って、メッセージアプリのやり取りをぼくに見せてくれました。


「えりな?」


 ピアスを着けていないけれど、左耳には確かにその名残が見て取れました。例の人格は出てきていないようです。三人目の仲間、カズヤと会ってからそこまで日が経っていませんが、彼はぼくの精神的な支柱として貢献してくれました。小説を書きたくなくなった時、合間に彼と世間話をしていると、また気力が戻っていくようで、最後の追い込みができ、とても助かりました。


 一方で、えりなとしての姿は新鮮で、あのカズヤと同一人物とは思えないです。少女趣味なパステルカラーのシャツと明色のスカートを合わせて、フェミニンな印象です。いや、大人っぽくないのでガーリーと言うべきでしょうか。


「今日はパス、だって。だから、私が来た」


 近くに居るレンを意図的に視界から逸らしつつ、ぼくとのやり取りが映っているスマホを自身の鞄に仕舞いました。メッセージ上では、えりなとも幾度かやり取りをしていました。ですが、頻度はとても少なくて、返事が突然来なくなるのがほとんどでした。それを互いに判っているので、自然と長文になっていました。


 ぼくと出合ってから、どういうわけかえりなが表に出てくる機会が増えたようで、彼女はその必要もないのに、頻りに礼を言ってきます。解離性同一性障害をはっきりと自覚できたのもぼくのおかげだそうです。


 二人ともを知るぼくとしては、えりなとしての人格が元の一人に戻るのを良いか悪いか判断に苦しみました。どちらかが主人格で、もう一方は淘汰されるべき交替人格。それらがこれからも共存していくのかと考えたら、えりなの立場としては喜べない。でも、ぼくとしてはカズヤが居なくなるのは寂しい気がします。


 えりなはレンの居ない方の、ぼくのすぐ隣に腰掛けて、ソーシャルディスタンスをことごとく無視しました。滅多に会うこともなく、こうやって接することもできないのだから、目をつぶるほかありません。彼女は他の同性とは事情が違います。土足で蹴り上げるような心境にはならないです。


 えりなは人懐こいネコのように、ぼくの横で体を擦り付けてきました。レンもそうですが、彼女も人を待たせるのを避ける方の人のようです。他方、最後の一人は用心深くも、メッセージを送ってきてから姿を現しました。スマートフォンの時計を見ると、時間丁度でした。


「やあ。重里ちん」


 黒い髪で色白の、不思議な雰囲気のする男性がまっすぐとぼくに向かってきました。


 そう言われて気付いたのですが、彼とはまだ現実の名前でのやり取りはしていませんでした。クリエイター同士でありうることですが、他の二人がぼくを本名で呼ぶ手前、名乗るべきなのか迷いました。いずれにしても、知られることだろうし。


 ぼくが悩んでいるわずかの間に、ミミズ郡は持参していたスケッチブックの上に何かを描いているようです。鉛筆でさらさらと音を立てては、ものの数分で、手を止めてそのページを切り離し、ぼくではなくて、隣の女の子に手渡しました。


「これ、私と……」


 彼がぼくをハンドルネームで呼んでいたのをそばで聞いていたためか、本名で呼ぶのをためらっているのでしょう。紙面には、ベンチに座る女性が二人居ました。ところが、ただの模写ではありませんでした。えりなの姿がどこか薄いのです。同じ鉛筆を使って描かれているはずなのに、線が弱々しく、透明感があります。


 そんな奇妙な一枚ですが、えりなは大事そうに持っています。自前の鞄に入れようにも作品の方が大きいせいか、折り曲げるかどうか悩んでいるようです。


「あー、僕が何か買ってくるよ。待ってて」


 黙ってぼくたちの様子を観察していたレンはどこかへ走り去っていきました。


 ミミズ郡は、自分の作品を折り曲げられたとしてもそこまで気にしないような人だと、ぼくは思います。その彼は、えりなの言動を察してか、唐突に自己紹介をしました。


「アオイユタカ。僕の名前。きみは?」


 その名前にやや不意をつかれつつも、ぼくも名乗りました。木村利他なんて、あまり好きになれない公然の名称を。ぼく自身は利他とは縁のない、自分勝手な人間ですから。


「いい名前だね。リタ。完結、おめでとう。小説、おもしろかった」


 ミミズ郡は、主に挿し絵を担当しました。各章の主題となる絵を描いてもらい、それから、その章で際立って意味の深い場面の描写も表してもらいました。当初、その小説投稿サイトは挿し絵を投稿する機能がなかったのですが、制作途中に実装されたので、まとめて掲載したら、閲覧数・読者数が劇的に伸びました。ぼくの見込んだ通り、彼の表現は絵の腕前共々、本物でした。


2


 買い物に出掛けたレンが無地の紙袋を持ってぼくたちの元に帰ってくると、ぼくに目で語りかけてきました。特に何もなかったので、普通に視線を送り返します。本当に心配性でお節介な人です。


 レンは紙袋をあえてぼくに手渡して、ぼくからえりなにそれが贈られました。


「あ、ありがとう」


 彼の方を見ずによそよそしく礼を言い、鞄の中を探っている女の子を見ると、レンは「あげるよ。お金は要らない」と取り引きをはっきりと辞退しました。本当に恩着せがましい。


 えりなは作品の意図も、彼の善意も深くは捉えていないようで、ただただ流されるまま雰囲気に従っています。自己主張をしたりだれかに逆らったりするのが得意ではない子のようです。そう考えると、ぼくを守ってくれたあの夜の彼女はまさに、尋常ではなかったと記憶が告げています。


 ひとまず、顔合わせは済みました。四人が集った後は、どこか適当な場所を確保して今回の創作についての反省と、今後の目標について話し合う予定でした。


 カラオケボックスは開いていない時間帯ですので、必然的に喫茶店でこの日の方針を定めることと相成りました。長居はしないので、決まり次第早々にお店を出るつもりです。


「リスカ塔って、違う女の人が動画を投稿しているみたいだけど、あの人はだれ?」


 席に着いてから、開口一番はぼくの正面に座ったミミズ郡でした。彼は店の中でも身近にある物の絵を描き続けていて、描き終えたらその作品をくしゃくしゃに丸めて愛用のレッスンバッグに放り、また次の制作に移ります。手を動かしながら、話を切り出したわけです。


 ぼくはあの化け物を彼らにどう説明すべきか思い悩んだ末、一言伝えました。


「あの人は後任のリスカ塔です。深い意味はありません」


「嘘だね。『無音少女』って、あの人の事だろう?」


 ミミズ郡はそれきり言いたいことは言い終えたようで、この場では口を開きませんでした。ぼくは肯定も否定もせず、もやもやした気持ちになりました。リスカ塔の小説を読み、書いていたからぼく自身もう気付いていました。あいつが無音少女であり、ユタカの最期を待ち構えていた悪魔なのだと。


「……今回あなた方に集まっていただいたのは、そのリスカ塔を迎えるための準備みたいなものです。そして、今後の予定を共有するためでもあります。次に何を制作するか。ですが、それはまた次の場所で話し合いましょう。他に、何か質問があれば遠慮なくどうぞ」


「リスカ塔はあの子より、君の方が向いてるんじゃないのかな。文体も前の人と似ているし。決定権もあるんだろう?」


 レンはミミズ郡の作った流れを汲んで、核心に迫りました。


 ぼくの真の目的は三人の協力を以て、あの化け物をリスカ塔から引きずり下ろすことです。あいつは、ユタカの仇ですから。


近隣ノ煤


「あの小説、完結したんだ。どういう結末にしたの」


 時はさかのぼり、ぼくが仲間を招集する以前の時間軸に戻ります。えりな、カズヤと会った次の週辺りです。思い返してみれば、ぼくの日常は創作活動によって大半を占めていました。ユタカもそうでしたが、小説を書き続けるには他の趣味娯楽を残らず排除する必要に迫られました。単純に、多くを一度に行う余裕がないのです。


 執筆に専念すると、心がおかしくなりそうで時々、正気を失いそうになります。今、自分がどこに生きていて、本の外が現実なのか、本の中が虚構なのか、それらの区別が曖昧になって、気が付けば登場人物としてのぼくが居て、気が付けば神の視点で制作に取り組むぼくが居ました。


 制作が一段落して現実に引き戻されると、途端に虚構がまるごとぼくの周りから消えてなくなり、急に寂しい気持ちになります。ユウシュンもクジョウも、マクラギワダチも、ここには居ない。でも、居るかのように想定して、ぼくはそれを書いていた。


 そんな作者の気すら知れずに、内容を口頭でのやり取りで済ませようとは、とても無礼で、受け答えにも困りました。女同士のやり取りでは、感情的になった方が実質の負けなので、ぼくは決して顔色を変えずに、その化け物に言ってやりました。「ぜひ、読んでみて」と。


 その後、彼女は小説を読んだかどうか、自分から申し出ることはありませんでした。ですが、度々待ち合わせをして会うまた別の日に、ミノリは生前のユタカとどういう経緯をたどって、「あの」繋がりを作っていたのか教えてくれました。


「はははは。彼、『ほんとうに』死んじゃったね」


 リスカ塔のSNSの会員ページには書かれていました。「もう生きていくのは難しいかもしれない。あとのことはよろしく頼む」彼のページの所有者はこの女に成り代わったため、その記述はすでに削除されています。その書き込みの意図はとても解りにくいですが、遺書も用意されていて、だれよりも先にそれを見つけられたぼくからすれば、すべて解っていました。


 井上裕は前年の夏に死にました。自殺でした。


 体を炎で焼いて、死にました。それが彼なりの最期の形だったのかもしれません。決して楽な死に方ではありませんし、その苦痛は一生の痛覚や精神的な負担でも代替不可能なまでに続いたと想像できます。


 彼の全身と、その存在が灰へ変わっていく最中、ぼくは寝ていました。知らないうちにユタカはどこかで燃え上がって、翌朝にはこの世から消えてしまっていたのでした。現場の状況から見て、残っていた骨の一部は二十代後半の男性だと明らかだったそうで、ユタカはお墓の壺の中に眠っています。


 彼が自分から、むごい死に方を選んだのには理由がありました。彼は「無音少女」を死ぬつもりで書いたとほのめかしています。本文の最後には、わけのわからない外国語やめちゃくちゃな文字の集合で締め括られています。それが執筆をする者、リスカ塔としての最大の山場でした。


 彼の創作はだれにも評価されぬまま過ぎてゆきました。何週間、何か月が経っても、その心はだれにも届きませんでした。


 届かないのが正しい反応なのであり、届いてしまったらいけないのです。


 文豪とは、多くの人間に鮮烈な影響を与え続ける小説家ですが、それすなわち偉人ではありません。小説家なんて大概が心に問題を抱えていて、何かしら過剰すぎるきらいがあります。世人には持て囃されても、実際に関わるには相当の気構えが必要となります。つまるところ、そこらにうじゃうじゃしている、頭からっぽな人間たちと関わるのとは全然わけが違う。


 ユタカは他人に対して非常に過敏でした。「あれはどうしてああなのか」「ここはもっとこうならないか」とぼくとの日常会話でこぼしていました。すごく子供っぽいところもありますが、それが彼を表現者として存続させていました。そんな彼が大人になるとしたら、書こうとしていたすべてが途端に無価値に思える瞬間だったと、ぼくは推測します。


 段落を三つほど前に戻って再開しますが、リスカ塔の作品が与える影響とは、世の人にはとても否定的でおそろしいものでした。彼は年齢を重ねるに連れて、輝かしい夢だと見なされるものは、各人に都合よく、意図的に作られた偶像だと見抜き、決してそんなものにすがるなと警鐘を鳴らすに至ります。代表的なのはプロゲーマーとか配信者とか、そういう、娯楽のために娯楽を極めた一握りの類いです。


 我々の社会に真に必要なのは、他人の利害のために自分を犠牲にする「利他」の覚悟であり、「利己」を完全に放棄することなのです。そのために、自分という存在を必要以上に評価するなと。多様性をどこまでも疑っていた彼の理由がそこに集約されます。


 毎日くたびれるまで勤めぼろぼろになって死んでいく無名の人間が居て、小説家のように書きたいことを書くだけで他人の心を惑わして生きていく有名な人間が居る。


 言ってしまえば、売れた後の小説家の仕事は世の人を欺き、あるべき道から放り出すことです。彼は他ならぬだれよりも自身の小説に影響され、その末に死に至ったのだとぼくは思います。


 直接の要因が、あの化け物にあったとしても。


 真実を聞かされたぼくは感情をむき出しにして、そいつの首を絞めようとしていました。両手に余力を残して、すぐに殺そうとしなかったのは、まだ聞きたいことが残っていたからです。


 ユタカは一通のメールを受け取ったそうです。彼がまだガラケー(※)を使っていた時期からやり取りしていたこの女だからこそ、できたことのようです。最後にやり取りをした当時から、彼のメールアドレスは変わっていなかったのです。

※ 折り畳み式携帯電話のこと。語源は、独自の生態系で発展したガラパゴス諸島から。日本ではしばしば、時代遅れを始めとする否定的な意味で使われる。


「あたし、そろそろ死のうと思っていたの。死ぬ前に、メールを送った。そしたら彼、なんて返してきたと思う」


「生きて欲しい、とでも言ったんだろ」


「そう。当たり。あとね、こうも書いてあったの。『僕が死ぬから(君は生きろ)』って。おかしいでしょう。そしたら死ぬ気が失せたんだ。もう少し生きてみようかなって」


 ユタカの様子が変だったのに納得がいきました。死の間際、家での彼は何もせず座っているだけでした。バイトに出掛けて帰ってきても、他に何かをしようとすらしませんでした。


 ついには、「クビになった」と言って笑ってました。彼が居なくなる前日です。同居していたぼくはそれからしばらく、ネットカフェを歩いてホームレスの生活をしていましたが、すぐに次の住居は見つかりました。他の人も住んでいるアパートなので、さすがに彼の借りていた家ほど居心地はよくありません。


 小説を一日も絶やすことなく書き続けてきて、どこまでも孤独に生きていた彼には、もう人並みの暮らしや幸せなんてなかったのかもしれません。だれとも愛し合うこともできず、虚構の中ですら希望を掴めなくなった。


 書けば書くほどに、普通の生き方ができなくなった彼にとって、こいつは、こいつはとても厄介で、おそろしくて、決して近づけてはならない存在だった。


「あたしは彼の代わりに『リスカ塔』を続ける。ここであたしを殺して、あの人は喜ぶ?」


 ユタカはリスカ塔を消さずに、この女に譲った。もう小説を書く必要もなくなった彼にとって、リスカ塔とは単なる記号に過ぎなかった。だれにでも一つはあるだろう、手放しがたくて、残していたかったもの。


 そして、ぼくはリスカ塔の影として、呪われた「無音少女」の推敲を果たした。


 これからも、この女は飽くまで飾り。では、呪いに触れてすっかり正気を欠いたぼくは一体どうだというのでしょうか。



4,お焚き上げ

自他脳漿極マレリ

3


「だから、あなた方の力を借りたい。ぼくはこの手でリスカ塔を『終わらせる』」


 喫茶店に集まった四人が居ます。そのうちのぼくは三人に事の経緯を包み隠さずに話しました。ユタカという存在がぼくに与えた影響は小さくない。けれど、時が経つに連れて、雨垂れに削り取られていく岩のように、着実に原型を失っていくこの記憶に、明確で鮮明な区切りを自ら用意したい。その決意と、今後の活動についてを。


 えりなは他人事にも関わらず、目に涙を浮かべながら隣でぼくの手を握ってました。いつ消えるとも判らない境遇に居る彼女だからこそ、死に対する恐怖にだれよりも感応して、自分の事のように受け取ったのでしょう。用事が片付いたら、ぼくはえりなが長くここに居られるにはどうするべきか、一緒に考えてあげたいと思いました。


 レンは相づちを打つことなく、ぼくの視線を真剣な眼差しで受け止めてくれました。普段の彼よりも近寄りがたい緊張がほとばしり、表現しにくい空気が彼の全身を包み込んでいるようです。言葉ではなく、態度で何かを伝えようとしているのが分かって、ぼくは一層に彼の、油断ならない奇妙な雰囲気に注意を向けました。


 ミミズ郡はぼくが話している最中も絵を書き続けていましたが、何度も紙を丸めながらその回数だけ新しく書き直していました。ぼくが話を終えると、完成した、ぐしゃぐしゃの作品を無言でこちらに押し付けてきました。紙には、黒い炎が描かれており、その形があの化け物のようです。中で燃えているのは言うまでもなく、彼でしょう。


 目的を共有した後、四人は喫茶店を出て、街中を移動していました。それぞれ仲間と言えるほど強い絆にはまだ及んでいないかもしれませんが、一人で過ごしている時より気が紛れました。


 道中で見掛けた、二十代後半の男性で構成された集団はぼくたちを素通りしていきましたし、見事にぼくの当初の意図は果たされたのを実感しています。「仲間は利用するものであり、自分を守るための手駒に過ぎない」教室での障害を除くために培ってきたその考えを改めるつもりはありません。


 ですが、ぼくは利己のために利他を実行してきたのがここに来て判りました。一人では敵わないから、二人、三人と仲間を増やして可能性を拡げた。その前から、ぼくはユタカの仲間として一緒に暮らしていましたし、そのおかげで大変助かってました。


 自分のためにあることは、他人のためにあるということでもある。ぼくの存在はぼくだけのものではなく、関わる人すべてに関与し、それぞれの脳内で生きている。ユタカの寂しさを取り除くには弱い理屈かもしれないけれど、それがこの時のぼくにはどれだけ救いになったか。


4


 四人での行動は長くはありませんでしたが、その間に起きた興味深い行動を帰宅してから振り返ってみると、三人の個性が見えてきました。


 喫茶店を出た後、えりなはぼくのそばから離れずにくっついていました。いくら同性と言えども、このような浮わついた絵面はぼく自身、快くないものでしたけれど、第一に強敵を倒すために出合った仲間であること、第二に彼女の存在が消えてしまうかもしれないこと、それらを総合した結果、彼らの前でも特別に親しげにしなければならないのが、若干というか、かなり心苦しくなりました。


 レンは一番後ろで見守っていて、振り向くと愛想笑いにも似た微笑みで迎えてくれます。あらゆる欲を感じさせない控えめな目尻を直視するのは気恥ずかしいものがあり、一秒と持たずに逸らしてしまうのでした。ぼく自身が恥ずかしい思い出を作ったせいもありますが、とにかく具体的に何とは言えない魅力があるのです。魔性の女が居るとしたら、その男版だと考えてみると解りやすい。


 ミミズ郡は片手で親指を立てて鉛筆をぎゅっと握りしめて対象物を片目で見つめ、何やら絵の研究をしているようです。歩きながらではさすがに制作をしませんでしたが、信号待ちに差し掛かると、通りすぎた店先の景観をスケッチブックに書き取っていました。絵の才能には目を見張るものがありますが、「(一つの分野について)器用すぎる」彼が普段一人でどうやって過ごしているのか疑問です。


 四人とは言っても、創作活動に直接関与しているのはぼくとミミズ郡ことアオイ氏だったため、必ずしも全員が揃っている必要はないはずでした。それでも、レンとカズヤはぼくが陰鬱な執筆をこなすための動機付けになってくれましたし、頼み込めば息抜きと称したデートに付き合ってもらうくらいわけなかったです。


 ですが、ぼくが真っ先に果たすべきは女としての自分を再認識することよりも、亡くなった彼の無念を晴らすこと。その上に持ってくるほどの雑事はあり得ません。来るべき日に向けて、四人が力を合わせることで「リスカ塔」は永遠の眠りに就くのです。




 自宅アパートの居間で、自筆の「無音少女(二稿)」をユタカの遺品であるタブレット端末を使い、読み返していると、お風呂場から一人が出てきました。だれかと同居するなんて、しばらくはそんな気持ちになれるはずもありませんでしたが、この子に限り別問題でした。


 多重人格は自我との対話を助長する。その危険性の裏側に、一種の期待を抱き、えりな「たち」を自宅へと招き入れたのです。レンとアオイ氏とは、駅で別れましたが、彼女にはぼくの方からお誘いしました。


「ああ~、いいお湯だった」


 そう言うと、下着姿のままタオルで髪を拭いていました。上は中に着ていたと思われるタンクトップです。膨らんだ胸に似つかわしくない粗野な振る舞いをする彼自身には、ここに来た経緯は説明していませんでした。


 カズヤを前にすると、ぼくは身構えてしまいます。体が女である事を除けば、懐が広く、気配りもできて、すごくいいやつなのです。メッセージでやり取りをしていただけの時、この子が本当の男だったら、一夜くらい共にしてもいいとさえ思えるくらいでした。


「リタちゃーん」


 居間で寝そべるぼくの横に飛び込んできたので、すぐさま立ち上がりました。


 体から漂う熱気や匂いには男性のそれはなく、どこをどう見ても年頃の女の子でした。えりながこの体を自分の物にしたとして、カズヤはどこへいくのだろう。ふと、そんな疑問が過りました。


「カズヤ。あなたって、いつ頃からあなたなの?」


 構わずパンツのまま座り込む彼女に、引き出しから取り出してきたぼくの地味なパジャマを投げ渡します。その意図を察して、彼は柔らかい生地のズボンに足を通しています。体毛のないつやつやした太ももが隠れて、ひと安心です。


 カズヤは髪を包み込むようにタオルをバンダナのように被って、その後ろで腕を組みます。ちゃんと乾かさずにそんなことをしたら、後で変な癖がつきそうです。細かいことを気にするでもなく、ズボンを穿いた脚を大胆に放り出して、足の指先を折ったり伸ばしたり動かしています。


「オレは生まれた時から、ずっとオレだ。今まで気にしたことはなかったな」


「じゃあ、幼い頃から男っぽい女の子だったの?」


 そう口走った直後、ぼくは「またやってしまった」と思い、顔が青ざめていく感じがしました。この子の前で、女の子という単語がどんな事件をもたらすのかを深く考えずに言ってしまったのです。


「クハッ、オレが男っぽいだってさ。女だった覚えもないのにな」


 その言葉は気にしていない風でも、確かに傷つけてしまったような気がして、ぼくは素直に言いました。


「ごめん」


「なんで謝る?」


「ぼく、あなたのことを、女の子としか思えない」


 火に油とは、この事でした。


 自尊心とは大変に厄介なものでして、自らを男であると考えている者に、否定的な現実を突きつけてしまえば、どういった形であれ抗わなければ、彼の存在は保たれないのです。そして、ぼくはたちまちに彼の腕に囚われてしまいました。


「オレがその気なら、今すぐにでもアンタを大人の女にしてやってもいいんだぞ?」


「やめてよ。あたし、レズの趣味なんかない。おなべにやられるくらいなら、男にやられた方がマシ」


 男女の争いというより、女同士の闘いが始まる予感でした。相手が男なら、力でどうにかできるはずはありませんが、同性に対して一方的に負けるはずがありません。何より、女の弱点なら女が一番解っているのです。男も知らないような弱点です。


「はあ。笑えない冗談だな」


 溜め息混じりにそう言うと、彼はぼくから離れて、元の位置に座りました。その仕草を見て、同性ならば大人しく引き下がってはいない、と思いました。つまり、暴言を吐いたぼくに対して、言い返すでもなく、男らしく大目にみたのです。なおも、寡黙に座っている彼を見ていると、ぼくは再び言いました。


「ごめん」


「なんで謝るんだい?」


「あなたの尊厳を踏みにじったから」


「まあ、その気持ちだけでいいよ。すぐに考えを変えろったって無茶だし。気にすんな」


 相手を深く知らないがゆえに傷つけてしまうことは多いのです。仲の良い相手になれば、知りすぎることで傷つけてしまうのは皮肉な話ですが、先入観という誤解は往年の既視感とは違って、簡単には解けません。


「女が女として生きられないのって、病気なのかな……」


「なーんだ。リタちゃんはオレが女らしくないことがよっぽどお気に召さないんだ。じゃあ」


 そう言うと、カズヤはタンクトップのすそを豪快に持ち上げると、女性らしい膨らみを二つほど露にしました。胸当てに収まってはいますが、谷間がくっきりと創造されています。これこそがぼくの疑問の正体なのでした。


「こんなのぶら下げておけば、どっからどう見ても女だわな。メス入れて切り取ったって、所詮は女だわな」


 ぼくの言わんとしている事を、カズヤは「女性なりに」敏く理解しているみたいでした。どんなに意気がってみせても、ぼくから見た彼は女の皮に包まれていて、その魂がどれだけ男前だとしても、男と同一視はできないのです。この女の皮は、乳房だけを指しているのではなくて、性染色体XXを含んで拡がった細胞の一つ一つが、紛れもなく女性であるという呪縛なのです。大量のホルモンを注射しても、どれだけ手術を施しても、決して消せません。これを苦に自殺するトランスジェンダーが居るのも事実です。


「オレはリタちゃんがオレを女扱いしても、それはそれで仕方ないと思う。実際、女なわけだし。でもさ、オレはオレを女だって思って生きた瞬間は一度だってない。それがオレだし、オレそのものだから」


 彼の一人称があってか、ぼくは思わず失笑してしまいました。


「おいおい、何がおかしい? 今のは真剣な話だったんだぞ」


「だって、オレオレって言い過ぎて『オレオレ詐欺』よりオレって言ってたなあと思って」


 それまでしびれそうなまでに研ぎ澄まされた緊張の空気は徐々に和らいでいきました。


「オレも内心そう思ってたけどさ。言いたいこと、ちゃんと伝わっただろうか」


 柄にもなく弱々しい口調だったので、ぼくもまた元の位置に戻り、そのまま彼の隣に留まるなり、なんとぼくの方から抱擁をしました。


「おおっ。あったけえな。ほんとに、あったけえ」


 女に抱きつくなんて、絶対に考えられないけれど、この子に対してはまったく抵抗がないのは、単なる同性とも違っていることを象徴していました。その理由には行き当たりませんが、もうすぐそこまで来ているのだと分かりました。




 その夜、ぼくはカズヤから一人の少女の話を聞きました。


 女の体をしているという理由から、身内から大人のおもちゃにされたという薄気味悪いお話です。生まれながらに父が居なかったぼくからすれば共感してあげられない内容ではありますが、もしもぼくがその女の子の立場なら、今頃ぼくはもっと酷い女に成り下がっていたかもしれません。


 人はなるべくして自我を獲得するのであって、それが社会に適応できないからと言って、否定してしまうようでは、感覚だけの善悪を持つ動物と同じ次元なのかもしれません。その代わり、生き延びるも死に絶えるもまた、自我の適者生存が為せる業なのだと気付かされました。


 そして、えりなはカズヤにとって……。


5


 翌日、目を覚ますと、カズヤはすでに居ませんでした。ぼくが不用意な発言をしたために、変な気を起こしたのではないかと、不安で不安で居ても立っても居られず、電話をかけていました。


「もしもし。リタちゃん? ごめんね。これから仕事があるからさ。何も言わずに出てきちゃった」


 声変わりで低くなってくる声とは対照的な響きの、それでいて思いきりのよい清々しさの声色が受け答えしました。電話口には、朝の賑わいたる人々のざわめきの環境音が伴っています。


 ぼくは何度も謝って、それから涙声になってしまいました。


「ハハハ、大げさだって。オレって、そんなに弱く見られちゃってた? だとしたらオレの落ち度だし。仕事終わったら、顔見せに行くから、余計な心配するなよ~。じゃ、そろそろ電車来たから。またな」


 実際に会ってみたら男には見えないのに、どんな男よりも男前なのがすごく格好よくて、半端な誰々よりも余程男らしいのです。カズヤのこういうところ、すごくずるいと思います。


 彼の忘れていった紙袋の中には、先日の絵が入れられたままでした。




 このところ、ぼくは執筆のためにカラオケのアルバイトを休みがちにしていました。


 店長からは人手が足りないからそろそろ戻ってきて欲しいと依頼されています。新型ウィルスのせいで閉店したチェーン店はいくつかありましたが、ぼくが働いているそこは無事に生き残りました。緊急事態宣言がどうとかで、営業停止のために売り上げがなくなった時期もあったので、全然無事ではないのですが。当時のぼくにとっては、丁度よかったのかもしれません。市の補助金で生活はできていたし、バイトなんてしている精神状態ではありませんでしたから。


 この頃、新たに加入したバイトが辞めてしまったそうです。勤続年数で言えば、ぼくは一通りこなせるベテランに入るので、新人になめられるような立場ではありませんでしたが、人手が減ると負担が増すので、仕事のできない年上になめられてやるのは必要な忍耐でした。特別、難しい事をするでもないのに辞めてしまうのは、客をあしらうのが下手なのか、職場内の派閥争いでドジを踏んだかのいずれかでしょう。


 そういうわけなので、アルバイト先に顔くらい見せておこうと支度をしていました。その間にも新作の構成を頭の中で組み立ててしまうのは、癖みたいなものです。急ぐわけではありませんが、新しい話が(頭の中で一通り)できたら、書いてみたい気持ちはあります。


 一人でカラオケに行くのはどうも物寂しいので、こんな時こそ仲間を集めます。カズヤは仕事なので、アオイ氏とレンに急きょメッセージを送りました。レンには事実をありのままに告げましたが、対してアオイ氏には創作の相談があると婉曲に伝えます。


 すると、レンからの返事は三十分くらい経ってから一言、「海神の三叉槍。その輝きが示す先にはメイルストロム」と届きました。アオイ氏からは数秒で返事が届いて、それは一枚の画像のみでした。黒い炎を書いた紙が床一面に転がっていました。きっと、創作で忙しいのでしょう。


 レンとは、お昼前にぼくの最寄り駅前で待ち合わせました。メイルストロムとはクラーケンという海の怪物が起こす渦潮のことで、すなわち「了解」の意です。この法則性はうまく説明できません。彼とメッセージのやり取りをしているうちに、肯定か否定かを見分けられるようになることだけは明らかです。否定を意味する場合、より難解な語句が含まれます。「凍てついた地表のタイタンには巨大なクラーケンが居る」といった具合です。こうは言わないと思いますが、こんな感じです。メイルストロムはノルウェーまで行けば実際に見に行けますが、タイタンのクラーケン湖に行くのは無理です。彼が自然や地理について語る時は総じて前向きであり、天文学や図形について語る時は要注意です。


 カズヤには散々な事を言ったぼくではありますが、男性と改まって出掛ける場くらいはきちんと着飾って、女らしく振る舞おうというものです。そうすることで、彼はぼくを所有したい欲にかき立てられ、なんだかんだぼくの思い通りになります。レンに至っては決して、邪な行いにはならないと思いますが、衆人の目を意識したら男女は恋人として見られるのが一般的なのですから、その誤解を逆手に取って過ごすのも結構気持ちいいです。


 せっかくなので、彼と軽く食事をしてから、バイト先のカラオケへ向かう予定です。


 待ち合わせ場所に、レンが時間より二十分も早く訪れました。取って置きのドレスでばっちり決め込んだぼくはそれよりもさらに十分は早かったわけですが、お互い心配性なきらいがあるようです。


「待たせてごめん。今日はカラオケ、行くんだよね」


 文面でのやり取りだと電波系なのに、目の当たりにすると何の変哲もない常識人なのがますます油断ならない人です。いつもの清潔感のある、今時の若者の装いで、ぼくを特別に意識している様子はありません。


「うん。その前にお昼を済ませておきたいんだけど」


 こういう時、行きたい所を自分から言ってしまっては男性を立てることはできない。したがって、暗に「どこかに連れてって欲しい」と示すことが重要なのです。男性は主導権を与えてもらうことに絶対の優越感と快感を見いだし、同伴者への支配欲が促されることでしょう。ぼく自身、男性に導いてもらいたい気持ちがないわけではないのですが、いつしか打算的に生きる術が身に付いてしまっているので、自分から行きたい所を言うことはほとんどありません。


 それにレンは支配欲とは無縁の優しい人なので、こうした計略が効かないことくらいぼくも判っています。


「わかった。じゃあ、行こうか」


 やはり、男性のこういう所にドキドキしてしまう自分が居るのが少し情けないです。利用されていると知ってか知らずか、甲斐甲斐しく働いてくれる様はぼくに優越感と快感を与えます。実のところ、真の主導権がぼくにあるというのが気持ちいい。


 レンは時おり、日常のちょっとした会話を挟みつつ、雑談をしてくれました。歯ブラシが開いてくるタイミングが体感で解るのだとか、布団を干した次の日には雨が降るだとか、意味があるのかないのか微妙な話題でした。とにかく、普段のメッセージとの落差が激しくて、彼が何を考えているのかますます解らなくなります。


 導かれるまま入店していくと、有名な名称のコーヒーショップでした。こういった店は個人的にはあまり好きではありません。俗にいう「ミーハー」な感じがして、店内に居る人たちが軽薄な気取り屋に見えてしまうのです。おしゃれな場所に居る自分が、実際より偉くなるわけはないのに、その気になっているふうでばからしく思えてしまう。


 でも、彼なりに気を遣ってくれて選んだ店ということもあって、気にしないようにします。店には先客が居て、女同士の客がぺちゃくちゃしゃべっていました。年増にはならない年頃だけれど、ぼくたちよりは上みたいです。ぼくたちがテーブル席へ着席すると、一度だけこちらを見て、ひそひそ何かをしゃべってはちらちらこちらを観察し始めています。さしずめ、レンとぼくが夜中にどういった体位で事に及ぶのかを考えているような目付きです。体の相性は試してないのでどうか判りませんが、付き合えないほど水と油ってわけでもないと思います。もっとも、彼にはその気がないようですけど。


「んー、お店変えようか?」


 状況を目ざとく察して、席から立とうとしている。そんな彼の手を取って、ぼくは甘い声で言います。


「やーだ。ここで食べるぅー」


「そう。わかった」


 この店にこだわる理由は特にないけれど、真っ昼間から寂しく集っている連中に負けたみたいで癪だから、目一杯あざとく振る舞ってやりました。その意図が伝わってか、むこうの視線に敵意がこもったのをぼくは見逃しませんでした。ああ、たのしい。ああいう自意識過剰なブスたちをおちょくるのがたのしい。便所の鏡でも見てろって言いたくなる。


 やがて、その先客は居心地の悪さに耐え兼ねて店を去りました。注文したサンドイッチを食べ終えてからの一幕です。時間帯からして、人が増えてくる少し前の時間でした。カラオケが開く頃合いなので、そろそろ出掛けてもいい。


「君って、負けず嫌いなところがあるね……」


「えっ。そうかなぁ」


 彼は心底あきれたような口調で先程のやり取りについて、少し説教っぽく言いました。周囲の視線や言動に、もっと遠慮しろという事なのかもしれませんが、女から売られたケンカにはどんな手を使ってでも勝ちにいくのがぼくのやり方であり、これからもっと強大な敵を倒さなければなりません。


「敵を作らずに済む時は、なるべく争わないで切り抜けなきゃ。敵が増えると後で困っちゃうよ」


 レンは間違っていません。ぼくの生き方が少しばかり間違っているようです。今さらそれを悔い改める気にもなれません。いずれにしても、男性と一緒に過ごすのが好きなぼくは嫌でも同性の敵を増やすのですから。だれとでもうまくいくわけがないと割り切っています。




 お昼時の客で賑わうコーヒーショップを出て、ぼくのバイト先のカラオケに行くまでの間、ちょっとだけ散歩をしていました。人の少ないところの方が心が休まります。視線とか思惑とかを気にせず、ゆったりと呼吸できる。この世から自分以外の女が消えてなくなれば、さぞ住み心地がいいのに。それは少し大げさか。でも、少しそう思う。


「ねえ、レンはどうして詩人みたいなメッセージを送ってくるの? 普通に話せばいいのに」


 あの後、彼は怒っているでも笑っているでもなく、その中間の顔をしていて、特にしゃべりませんでした。ぼくの問い掛けについても苦笑いをしただけで、本当のところは教えてくれません。追及する雰囲気ではないので、ぼくもそれきり言葉を交わさずに、彼の前を歩きました。


6


 カラオケに着くと、早速店長が居ました。こちらを見るなり、駆け寄ってきて、肩を叩かれました。頼りにされてるのだと思います。カウンターの方を見ると、やけに鮮やかな黒髪が目に入って、二度見してしまいました。髪を結んでいますが、あれはぼくがこの世で最も嫌いな女でした。どういうわけか、ここでバイトをしています。


「何やらおもしろそうなことをしているみたいね。あたしも仲間に入れてくれないかしら」


 仕事中に放った私語はそれだけで、ぼくは完全に無視を決め込みました。代わりにレンが受け付けを済ませてくれます。いくら意地悪なぼくでも、あの女の前では平静を保てる自信がありません。


 伝票とカラオケ用のデンモクを持って、指定の部屋に向かいます。途中でドリンクバーの飲み物を取ってから入室します。ぼくは氷で冷やしたお茶(温かい)を取りました。レンはただの水です。


 個室に入ると、妙な気分です。ユタカが唄っている情景が思い出されて、無性に恐ろしくなりました。ソファーの片隅で身震いしていると、一緒に来たレンが隣に腰掛けてきます。


「受け付けのあの子、リスカ塔の女の子だったね」


 ふと関心を示したから、ぼくは不安になりました。


「あいつだけには負けるわけにいかない」


 言い聞かす言葉に反して、体の震えは止まる気配がありません。こんな姿を見られたら、と思うと悔しくて堪りません。だから、ぼくは無理にでも彼に無礼な事をしてしまうのでした。


「今だけは放さないでください。お願いです」


「…………」


 そうして十分以上は抱き合っていたと思います。あたしの震えが落ち着いてくると、彼の方からぼくの両肩をそっと掴んで尋ねてきました。


「あの子が君にとっての大事な人の仇だったとして、君はあの子をどうしたい?」


 とても真剣な顔をしていました。心の逃げ場を塞がれたあたしは涙ぐんで、無力にも言葉が出ません。女の武器として泣き落としを使ったことは過去に数えきれませんが、こうやって自分の意志とは関係ない、せっぱ詰まった泣き落としは生まれて始めてだったかもしれません。小さな子供がわけも判らず、親にすがる眼差しとでも表しましょうか。この場では、どんな男性にも敵う気がしませんでした。


「……わかった。無理に聞こうとは思わない。君にとって、亡くなった男の人が大事だったんだね」


「ユタカ、です。彼の、名前」


 しばらく向かい合っていると、不意に彼の方から強い力が込められて、びっくりしました。レンは自分からそういうことをする人ではない。そう思っていたから、いよいよ本能に目覚めてしまったのかと身構えてしまいます。ところが、彼は最後の最後まで、あと数ミリでも動けば触れてしまうところで、その唇を止めていました。


 あたしはヘビに睨まれたカエルみたいにすっかり固まった状態でしたので、唇を奪われたなら奪われたで、彼の勝ちでもよいと思いました。弱った姿を見られた挙げ句、どんな策謀もレンの前では効かない。この人には、出会った時から不思議な強さが備わっていたのです。


「僕は……。僕は、生まれてから一度だって人を愛したことはないんだ。ただの一度も」


 ユタカに似ている、と感じたのはこれだったんだ。この、例えようもないまでの痛々しさが彼を愛情から遠ざけていたのです。これまで彼が見せてくれた思いやりや気配りの正体もはっきりします。嫌われたくないがために行われる独善とでも言えばいいのか。レンの行いそのものは模範的で美しいはずなのに、彼がそれを前向きに捉えているようには感じられなかったのです。


「それなら、あたしだってそうです。ユタカを本気で愛していたかはわかりません」


「君はユタカって人のことを心から愛していたんだと思う。彼の遺作を完成させ、そのモデルとなったあの女性を打ち負かして、彼の死に納得しようとしている。そういう愛の形もある」


 しっかりとあたしを捕らえていた手はゆっくりと引き剥がされていきました。今度はあたしが彼の男性らしい硬い質感のする背中を捕らえました。沈黙が二人を包み込みましたが、彼はおもむろにデンモクへ手を伸ばしました。


 それからしばらく、あたしたちはカラオケをしました。レンは素人とは思えないほど的確な歌唱をしていて、まるで経験者のようでした。歌の素質が後から備わってようやく上達した人がユタカだとして、レンは遥かに恵まれた基礎から始まって育まれたであろう洗練が聞き取れました。


 歌の上手な男性は女性と比較したら明らかに少ないので、彼ほどの能力を披露されたらファンが一定数できてもおかしくありません。歌が上手だからといって、人として徳が高いとは一概に言いきれませんが、不思議な魅力があるのは確かです。


 それから、あたしは歌声に聞き入っていました。両者を比べたら、思っていた通り、レンの方が何事もユタカよりまさっていたのです。女というのは余程の馬鹿でない限り、より優れた遺伝子を持つ男を欲します。具体的に述べると、(社会的な権力のある)稼げる男性を選びますし、どうせなら顔の良い(自分好みの)男性を選びます。特に打算的なあたしがそれらを無視できるはずはありません。


 それなのに、あたしは「愛してる」という言葉を目の前の彼に向かって口にできませんでした。心では、この人の遺伝子を無理やり注がれても構わないと思っているはずなのに、どこか別のところで本心は抗っているのでした。


 唄い終えると、レンはすべてを見透かしたように、あたしの頭をなでてから、突然髪の毛をわしづかみにしてきました。長らく感じることのなかったひりつく痛みに、悲鳴が出てしまいます。


「きゃあ。何、するんですか……」


「痛いかい? 僕は元々、こういう事をするのが好きなんだよ」


 髪を放すと、今度は顔を思い切りはたいてきました。理不尽な暴力が襲ってきて、たたかれたことによる衝撃のみならず、精神的な打撃で頭が真っ白になっていくようです。ああ、あたしは女として終わったのだと思いました。髪を引き抜かれ、顔を傷つけられ、見るも無惨な姿が女を終わらせたのです。


 しかし、暴力というのは髪を引っ張ったのと、顔をはたいたきりで、それ以上の侵害はありませんでした。真に女の心を折るなら、もっと手っ取り早い非道があるのですが、彼はそこまではしませんでした。余程の潔癖症か、あたしの体にその価値がなかっただけか。いずれにしても、彼は最後の止めは刺さずに居たのです。


 普通の女なら、髪や顔の段階で十分に痛め付けられたでしょうけれど、あたしは次第にその痛みが特定の痛みに比べて小さいことに気が付きました。それに、打ち負かそうと思えば、もっと深傷を追わせられたのに追わせなかった。勝ち負けを考えたら、それが引っ掛かります。


「……見えている部分だけを見て好きだとほざくのは簡単かもしれません。でも、見えていなかった部分を見ても好きだと言える方が立派だと、あたしは考えます」


 精一杯の勇気を振り絞って言いました。すると、彼の手は再びあたしの髪を掴んで引っ張ってきましたが、弱い力になって、止まりました。おそれの余り目をつぶってしまったので、その時どんな顔をしていたのかは知りません。


「だから、僕の乱暴も正当化できるって……。慰めてくれたつもりなのかい。それとも最低な男に対して、最後の抵抗を図ったつもりか」


「あなたがあたしにしたことは酷いことです。それでも、もっと酷いことをする人間は居ます。複数名で体を犯した後、殺して、捨てる。いまだに戦争をしている国では珍しくもない話です。その点、命までは奪われない分、強姦なんて優しいものです。だったら、あなたのした暴力なんてそれらの不幸に比べて大したことではない」


「そうか……」


「でも、そうは思えないほど幸せに慣れてしまっているのがあたしたち。幸せは、人を弱くするんです。現実を美化して、目に見えるものだけを信じてしまうんです。人間の汚さから目を逸らして」


 半分はあたしの考えで、もう半分はリスカ塔から得られた考えでした。性悪説も性善説も当てにはなりませんが、一つだけ言えるとしたら、善悪の基準はそもそもないのです。何が有罪で、何が無罪であるかは、人間が勝手に決めたことです。


 とても危険な思想なので、ユタカもこれを追究した作品を遺しませんでしたが、罪は(少なくとも)自覚しなければ罪にならないのです。罰は自分以外の他者が与えますから、それを知る他者が居なくなれば罪にならないのです。だから、殺人は究極の免罪符です。死刑が、正当化された殺人である所以がこれです。やがて自らが被る殺人行為に不服な死刑囚とて死んでしまえば、身に受けるであろう罪(=死刑に伴う殺人行為)を罰しようがありません。殺人が、禁止するための理由を持たない罪にもかかわらずです。


「では、僕が君にしたことは正しかったのか?」


「いいえ。レンがあたしにしたことは、女の人に嫌われてしまう行いでしょうから、正しいとは言えません」


「そんなのは知っている。僕が聞きたいのはそういうことじゃない」


 すっかりうなだれて、彼の手は膝と膝の間で組まれていました。もう暴力の兆しは見えません。しかし、万が一ということもありますから、あたしはソファーから離れ、部屋の角に避難して身を丸めました。


7


「見たままで言うなら、あなたはとても酷い……と思います。でも、さっきの行動の背景に何があるかまでを知らずに非難するなら、正しいも正しくないも無いに等しいです」


 半端な回答で機嫌を損ねたら、とびくびくしながら頑張って理屈を並べ立てて、彼の暴力を擁護しました。女にとって、男の暴力ほど卑怯なものはありません。押さえつけられて敵わない、身体の自由のみならず、顔や体を傷つけられて、精神の自由すら奪われるのです。彼らを上手に制御して使いこなせてこそ、一人前の女というものですが、あの人の面影に囚われるうちにすっかり腕がなまってしまったようです。


 座って聞いていた彼はおもむろにマイクを手に取りました。デンモクで曲の番号を入力すると、なんだか懐かしいような心が寂しくなる音楽が部屋中に響き始めます。息を吸うと、それはそれは優しい声で軽快な旋律を奏でています。屈託のない、晴れ晴れとした歌声を耳にしていると、あたしの視界のそばで勝手に涙が落ちていきました。


 こんなに純粋に歌の世界を造り上げているレンが暴力なんかする人ではなかった。それなのに、どうしてあたしは怯えきって、部屋の隅に居るのでしょう。そうといって、彼の隣に座るほどの度胸は失われてしまった後でした。


 ものの数分間の出来事でしたが、それ以上の時間が部屋を巡っていたように思えます。


 音楽が終わると、部屋の出入り口の扉付近で廊下が騒がしくなっているようでした。部分的に曇りガラスが張られているのですが、他の客が彼の歌唱を聞き入っていました。あたしが思ったのは、この人はプロ顔負けの歌い手か何かなのだと直感しました。


「僕が作った曲。僕が唄った曲。みんなが喜んでくれたから、それがうれしかった。だけど、本当は全部自分のためだった。歌では夢や希望を散々唄っておきながら、腹の底では勝ち誇っていた。僕を崇めるファンは全員、チケット代を運んできてくれる働きアリのようだと思った」


 力に溺れた哀れな人。彼が帯びている哀しみの源が、罪悪感や後悔に依るものだとあたしは察していますが、それを心から責めてやろうとは思いませんでした。むしろ、そういう汚くて狡い人間らしさを知れてからが、この人を理解する上で避けて通れない点だと考え、前向きになれそうです。


「……軽蔑したろう?」


 自白をじっと聞いていると、嫌みのない声がそう問い掛けてきました。並みの視聴者なら、裏切られたと思ったでしょう。貢いだ金を返せと怒ったでしょう。CDもグッズも残らず捨て去ったでしょう。それでも、あたしはレンの歌が本物であることに疑念は抱きません。


 人々に生きる力を与える聖人ばかりではなくて、自分の事ばかり考えている音楽家だって居てもおかしくありません。第一、自己犠牲や献身では、自分が真に表したい作品とは巡り合えません。自分の生活と社会貢献を旨としなければ、生きていくのも難しい世の中なのですから、歌の中にある程度の虚飾や美化が伴っていても仕方ありません。


「軽蔑、しませんよ。聞き手にとって都合の良い偶像を演じるのが歌手の常でしょうから。理想を求められ続けたとしても、私生活まで縛られる義理はないはずです」


「ハハ……」


 真剣に述べたはずなのに、彼は密かに笑い始めました。その声が不気味な性格を宿していたので、背筋が凍りつく勢いで、こめかみの方で先ほどの涙が一気に乾いたみたいです。


 レンは立ち上がると、あたしが居る方まで忍び寄ってきました。部屋の角なので逃げ場はありません。今度は何をされるのか、息を止めて身構えていました。


 一歩、また一歩と迫ってきた彼を前にして、目をつむります。そのままじっと待っていても、髪の毛が引っ張られるでも頬をぶたれるでもなく、指先が肩に触れました。反射的に体が震えましたが、伸ばされた手がやがて腕を伴って、ふわりと抱き締められました。


「あいつも、君と似たような事を、言っていた。『幻想を唄う。それが歌手の仕事なんだから気にすることない』ってさ」


 この時、初めて本当のレンに出合えた気がしました。それまではやさしげな好青年でしかなかった男の人が、あたしと共通の痛みを知る仲間になった気がしたのです。




 カラオケを出る頃、すっかり日が暮れてしまいました。しかし、時間を無駄にしたとは思いません。帰り際、店長とはシフトの話ができましたし、またアルバイトとして復帰する日も遠くありません。


 彼のおかげで、新しい一歩を踏み出す勇気をもらえた気がします。それはぼくだけじゃなくて、レンもそうであると思います。お互いに、傷をなめ合うような軽々しい男女の関係にはなりませんでしたし、何よりも思い切りぶつかり合えて、心が一段と強くなれました。


 ですが、もうあんな暴力はごめんです。死ぬかと思った。


 レンとは駅で別れて、あたしは寄り道をせずに高架下の道を歩いて、自宅へ帰るところです。バイト先にあの女が居たことを思い返していると、背後に人の気配がしました。まさかと思って、すぐに振り向きます。


「リータちゃん」


 髪を短くまとめ、ジャケットにパンツルックで、爽やかな笑顔が似合うキャリアウーマンの着こなしをした女性が立っていました。その姿を見てほっとしました。ですが、依然として残る違和感を見逃しませんでした。


 ぼくの視線の先に気が付いたカズヤも、自身の背後に目を向けます。


「うふふ。あたしも仲間に入れて欲しいの」


 全体が黒い色合いの服装をした、一際白い肌の女が立っていました。化物じみているのは、薄暗く照らす街灯の加減もあるかもしれません。それとも、本当に生きた心地のしない人形のようでもありました。


 そいつがか細い手を伸ばしてくるのに対し、カズヤはぼくをかばって、その手を掴んで遮りました。仲間に守ってもらう安心感は三者三様に目の当たりにしていたぼくではありましたが、やつは簡単ではありません。


「ふふ。あたし、あなたみたいな人、好きよ」


 嘘か実(まこと)か判断できない告白を浴びせると、もう片方の手はすごい速さで彼の胸元をえぐるように突き立てられ、揉みしだかれました。カズヤが抵抗するかどうかのところで女は怯んだ彼に唇を強引に重ねたのです。


 ものの数秒で、カズヤはカズヤでなくなってしまいました。


 無抵抗になって、犯されているのは自信と生命力のみなぎる男勝りな人ではなくて、力なく気力を吸い取られている女の子のようでした。ぼくが止めに入った時には彼女は解放され、そいつはひらりと回って飛びしさります。


「怖がることないわ。女でよかったって、思えるようにしてあげる。ねえ、それがどういうことか、興味ない?」


 ぼくはおそろしくなりました。生命が脅かされる恐怖というより、何か大切な物や存在が抜き取られてしまう、そんな危機感でした。それを言葉に置き換えると「寂しい」となるようです。


「い、いや……。リタ、いこう」


 腕を引かれて、走り出してから、その寂しさは取り越し苦労だったのだと我に返りました。苦労して得た物が突然奪われた後のような、わびしい気持ちは何気ない行動で消えてなくなるのでした。


 あの女は追い掛けては来なかったようです。


 ぼくの自宅までまっすぐ帰るのを避けたのは、えりななりの気遣いから来ているのでしょう。その流れで、今度はえりなが家にぼくを招待してくれることになりました。


 男の子ばかり選んで関わってきたぼくが女友達なんて作る柄ではありませんが、えりなだけは特別です。普段から男らしい姿をしているこの子に、同性の陰湿な争いなんか無縁なのです。奇しくも本人の与り知らないもう一つの人格が、ぼくたちの友情を支えているのです。


 じつのところ、この人はカズヤで居る時よりもえりなの時の方がずっと強いのかもしれません。あの時、ぼくの腕を取って走り出した彼女の凛々しさは、男らしさなんかとは違う、もっと別の何かが光り輝いていました。


8


 同性の人の家に泊まるのは初めてです。異性なら数えきれないほど経験しましたが、このところそんな気分にもなれません。


 生活に困ってるということにして、少しけしかけてあげたら、すんなりと泊めてくれる男性に対して、女性に同じ手は通用しないのが残念なところです。彼女たちにぼくを泊めるメリットがないどころか、家の持ち物を盗られるリスクの方が大きいわけです。若い男性は冷静にそれを勘定できない未熟者が多いので、泊まってってくれと勧めてくれます。ぼくとて馬鹿ではありませんから、相手を選んで転がり込みます。寝込みを襲われないようにするには、一つだけコツがあります。まずは、避妊具の用意から始まります。それを実際に使うわけではなくて……。


 そんなことよりも、えりなの家はぼくの住んでいる市町村よりも少しばかり離れた場所にありました。朝、ぼくの部屋から帰宅してきて、出勤するには相当急いだことと思います。


 オートロックのマンションであり、年数は古くも新しくも見えない絶妙な景観です。部屋は最上階でした。一人で暮らすにはそこそこゆとりがあって、つまり裕福な印象です。同居人が住んでいる、わけでもなく、解錠されて入った時は電気が点いていませんでした。


「おじゃまします」


「どうぞお上がりください」


 変によそよそしいのが自分でおかしく感じられて、玄関で見つめ合っているとほぼ同時に笑い出しました。不思議な感じです。ぼくは同性を敵視するのが不断ですが、控えめなえりなはどうにもそんな緊張を解きほぐしてくれます。


 部屋に上がらせてもらうと、2LDKといった間取りでした。お風呂場とお手洗いが別にあり、奥が台所や食卓を兼ねた居間になっています。ベランダからの眺めが良さそうです。居間に隣り合う部屋と、廊下の途中でもう一つ個室がありました。


 ぼくは廊下の方の個室を借りられることになりました。案内されると、一目で女の子の部屋だと判りました。きっと、「えりなが」使っている部屋なのでしょう。すると、居間の方に続いている部屋はもう一人の寝室であると想像しました。


 仕事の支度から着替えたえりなは男性みたいな雰囲気のする普段着になりました。上が半そでシャツで、下が半ズボンです。中学や高校のジャージを着るなんて貧乏臭い事はせずに、どれもお店に売られているような、ちゃんとした普段着です。意図的に男性っぽく見せたいのではなく、それが一番楽、といった着こなしなのでしょう。


 ぼくはレンと会った後なので、そこそこ女らしい装いでした。この前、ぼくが貸していた寝巻きを渡されました。しっかり畳まれている様から、洗濯してあるようです。お風呂が沸いたら、それに着替えてよいとのことでした。元々ぼくの服ですけど。


 早速、夕飯をごちそうになりました。一人暮らしと言うと、自炊より買って済ます方が楽なのは否めません。人数が居るなら、まとめて料理を用意した方が合理的ではありますが、一人分の食事にそれほどの手間をかけるのは、余程の料理好きか健康志向の方だと思います。


 料理のできる女が家庭的だと慕われるのは古い考え方かもしれませんが、できて損はありません。交際相手の母君からのウケも良くなるでしょうし。ともいうぼくは、必要最低限の事はできます。得意料理は目玉焼き(半熟と固焼きの中間にできる)ですが、自慢するほどの事でもないですし、洗い物が面倒なのでもう何年も作った例がありません。


 そんなぼくとは違って、えりなは鶏肉が入ったチキンライスおよびミネストローネなるものを作ってくれました。米といいスープといい、全体的に赤い献立です。野菜スープには、ぐるぐるしたマカロニがいくつも入っています。こういうねじの形状の物を見ると、なんだか楽しくなります。


 味付けは濃くも薄くもなく、正直なところ、微妙でした。それでも彼女なりのもてなしに不満はなくて、心温まる夕食を取れました。どうやら食事は毎回、自分で作っているそうです。材料が家にあることから考えるに、それはえりなに限った話ではないのでしょう。


 夜になると、えりなは机に向かって、書き物を始めました。帳面をのぞこうとは思いませんでしたが、たぶん仕事や学習といったかしこまった用事ではなさそうでした。


 それからは二人で漫画を読んだり動画サイトを見たりしました。枕を投げ合ったり恋ばなをしたりするわけはありませんが、それに近い雰囲気です。二人で過ごしている間に控えめだったのはどちらかと言えばカズヤの方でした。


 お風呂にも一緒に入るという流れになりまして、修学旅行の時みたいに、裸を見られる抵抗はあったのですが、変に意識されているふうでもなく、自然と慣れました。ぼくたち、似たような体型をしていると思っていたのに、実際はかなり違うことを知りました。とほほ。


 どういうわけか、カズヤと過ごした前日よりも親睦は深まりました。


 同性愛に傾くほどぼくは女を高く評価していませんが、ほんのちょっと気を緩めると、少しなら大丈夫ではないかと思ってしまいます。こんなことでは男女の区別が意味を為しません。多様性や新たな自由は、選択のパラドックスを生み出します。


 ユタカがいつだったか教えてくれました。「多すぎる選択肢は、良くない結果を招く」と。いくつもの見方や個性があることは、じつはとても不幸なことなのです。与えられている分類から自分にとって最適な物を選び進んでいく方が、苦しんだり悩んだりする機会も格段に減ります。意固地な自由は、もとをただせば不自由と同じなのです。だから、ぼくは異性愛と比べて利点がほとんどない同性愛を、始めから選択肢に用意しません。


 こうした自我の問題はいくら突き詰めても果てがありません。ありだと思えばなんでもありですし、自分と異なる個性を持った人間とも折り合いをつけて、SDGs(※)に則って理想とする社会を営んでいく柔軟さが求められています。


※ エスディージーズ。Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標。おおまかに17のゴール(目標)から成り、それらゴールに付随するターゲット(達成基準)が合計169項目設けられている。ぼくとしては、意識の高い恵まれた人たちが人類の幸福を信じるがゆえの欲張りに過ぎず、それらを達成する以前に何か大きな前提を見落としているような気がしてならない。


 とはいえ、こうした目標を幻想するくらいの余裕を持てる人の数にも限りがあるわけです。だれもが幸福に成れたら、それはそれで結構です。現実はそうじゃない。うまくいかなければ自殺だってするし、場合によっては人殺しだってする。人間はどう頑張ってもきれいな生き方ができない(できると思うことこそ間違い)。そういうものだって割り切ってしまった方が気が楽な時だってある。


 退廃的かつ無気力に生きているぼくは、ぼくのひと時の幸福を守るためなら、他人の不幸を笑うくらいわけがないと思っています。そうじゃないと、とても生きられる世の中ではないでしょう。居場所がなければ、だれかから奪い取らないといけない。そして、それを強いるのはいつだって、他ならぬ、居場所を奪ってくるだれかなのでした。


 夜が深まり、えりなの部屋で眠らせてもらいました。彼女は翌日も仕事だそうです。「二人とも」職場の認識は共通しているようです。周囲の人はそんな彼らをどう思っているのか気になりました。


 考え込んでいると、扉からこんこんと、音がしました。「はい」と返事をすると、扉が開かれました。この部屋も廊下も消灯していたので、入ってきた人が、ドア横の壁にあるスイッチを数回押して、カバーで覆われた円形の蛍光灯の中心部に備わる、小さな電球の灯りを点けました。ぼくはこの小さな灯りがなんとなく好きではありません。あと、部屋は真っ暗にしないと眠れません。


「まだ起きててくれてよかった。布団に入って、いい?」


 しおらしい問い掛け。なのに、その声はすでにえりなではありませんでした。幽霊ってわけでもなく、もう一人の方の、彼です。これは元々この家の布団なのですから断るでもなく、ぼくを覆っている掛け布団をめくって、了解の意を示しました。


9


 女性より男性とくっついて寝る方が落ち着くのですが、肌や肉の質感からしてカズヤにはごつごつした筋肉の当たる気持ち良さがありません。もっとも、それだけが男性のすべてではありませんが、惹かれてしまうのはぼくが性について普遍的な女である証でしょう。


 さて、並大抵の男よりも頼りがいのある彼がやけに大人しいのにはわけがありそうです。気にしていない振りをしても、やはり彼の方から話し掛けてきました。


「ごめんな。あの時、守ってあげられなかった」


 そんなことか。あの女が常識から外れた手段で襲い掛かってきてもおかしくありません。こう考えていると、今にもそのドアを開けて姿を現しそうで怖いのですが、深く考えないようにします。


 それが功を奏して、最悪の事態は免れました。


 ぼく自身、小説を書いている時間が長くて、時々現実と空想が混ざってしまう時があります。「無音少女」がどの程度創作だったのかすら曖昧になるのです。ユタカもきっとこんな気持ちを抱えたまま生きているのがつらかったのでしょう。胸の奥が痛くなります。


「カズヤはぼくをかばってくれたよ。うれしかった。ありがとう」


 とりあえず、彼の面目は保たれるようにします。女性の体をしているとしても、カズヤは男性であり、ぼくを守るために費やした努力は確かなものです。男同士だったら、叱責もありかもしれませんが、ぼくはそこまで気にしていません。守ろうとしてくれたことが素直にうれしいのです。


「……だめなんだよな。オレ、まだ弱いかも知れねえ」


 強さへの執着は男らしさの一部です。そのひたむきさを否定してはいけなくて、応援してこそ喜ばれます。そうすることで、次はよりよい結果になるよう大きな転換を見せてくれるはずです。彼が心からの男性なら、ぼくから言えることは決まっています。


「その調子。頼りにしてる」


 そして、腕を伸ばして胸元に誘います。もふもふさせてあげられるほど立派な大きさではありませんが、母性くらいはあるつもりです。時には、こういうのもいいでしょう。


「ごめん。ほんとに、ごめん」


 胸元で繰り返し謝られていると、うずいていた痛みが突然に強くなりました。張り裂けそうなくらいに、胸が、痛い。


「もうわかったから。謝らないで(苦しい)」


 言い方が荒かったのか、カズヤは言葉を失って、そっとぼくの胸から離れました。


 ユタカが居なくなってからもう九か月は経とうというのに、忘れられそうにありません。死んでしまったら、その後、どんな感じがするのかな。ねえ、教えてよ。


 あたしがそばに居ても、あの人にとっては何の支えにもなっていなかった。いつまでもあの女の存在が邪魔をしていて、一つになることすらできなかった。あの作品を書いていて、解ったんだ。あの人が愛していたのはあたしじゃなくて……。


 どうやらカズヤは先に寝てしまったみたいです。それを確かめてから、声を殺して、いっぱい、いっぱい、泣いてしまいました。つらい。彼が居なくてもこうやって生きていけることが、とてもつらい。




 翌朝、スーツ姿のカズヤに起こされて、また食事をごちそうになりました。どうやら時間に追われるであろうこの時間はパン派らしく、トースターで手早く焼き上げて、二枚ほどを譲ってくれました。おかずは目玉焼きのようですが、そこで彼が固焼き派だと知りました。


 この日の新聞を読んでいるカズヤは用意した飲み物のコーヒーに砂糖や牛乳を入れていました。ぼくもユタカもコーヒーは無糖で飲む方なので、些細な価値観の違いがよそとの隔たりを拡げるようです。何もそれ一つを取って、付き合いがうまくいかないほど別々の人間なわけではありませんが、似ているところや同じ部分に親しみや安心感を抱いていた頃が懐かしくなります。特に、あの人とは気が合う点が多かったので、二人の時の居心地が良かったです。


 ぼくもまた出掛けられる支度を整えて、彼の出方をうかがいました。


「また何かあれば、ここに来てもいいからな。その時は、夕方までに連絡してくれるとありがたい。休み時間中に確認できるから」


 仲間らしい事を言ってもらえるのが頼りになります。しかしながら、そう気軽に出入りするわけにもいかないと思いました。先日みたいに、ぼくの後をだれかに見られていないとも限らないですし、彼が一人の時に何かがあったら、心配で仕方ありません。


 リスカ塔と決着し、その時になったらもう彼らは「用済み」の予定でしたけれど、関わり続けていてもいいでしょう。我ながら甘い見立てです。でも、仲間と過ごしていると、気が紛れるのです。人生の苦悩や行き場のない想いから解放されて、新しい未来を見渡せそうになる。


 そうなったら、ぼくはリスカ塔とは違った、自分の場所を作って、そこで創作をしたいと考えています。




 マンションを出たら、人混みで溢れる最寄り駅まで一緒に向かいました。夜、寝る前に彼には少しかわいそうなことをしてしまった気がして、ぎこちなさが残っています。


 違う方面に向かうため、改札口を通ってプラットホームで別れると、いよいよぼくは一人になりました。辺りには通勤の人々が居ますが、ぼくを知っている人が居ないのであれば、一人であることと大きな違いはありませんでした。そうして、ここに居る、互いの事情を知り合わない人々が、等しく孤独を抱えて乗車していく様に見えるのです。


 この人はどんな死に際を迎えるのだろう、と無粋な想像をして、乗車率のそれほど高くない所々座席の空いている車両へ乗り込みました。行き先からして、サラリーマンが通うような会社が多くない地域ですから、この列車に乗ったのはビジネスマンらしくない装いの老若男女です。


 人間を一か所に集めて違う所に運ぶ乗り物。どこへ行きたいわけでもないのに、どこかへ行くことを宿命付けられている。


 考え事が頭を埋め尽くすと、創作がしたい気持ちになりました。「何かを作りたい」を左右する初期衝動を一旦逃すと、次に芽生えるのはだいぶ先になることもあります。これを常に高く維持できる作家や表現者の人たちを尊敬します。義務感で何かを書こうとしても、それは苦痛にしかならなくて、できあがる作品もつまらないです。やはり、何かを作りたい時に、望まれて作った作品ほど、自他ともに認められる出来映えになるはずです。


 ぼくは自分の携帯電話を手に取ると、バッテリー残量が残り一割くらいしかないことに気付きました。こんなことなら、カズヤの所で充電させてもらえばよかった。あいにく、その時はスマホなんか気にも留めていませんでしたから、今さら新しい通知に目を通しました。


 受信した時刻は前日の夜、ぼくがえりなとお風呂に入っていた頃。差出人は、ミミズ郡でした。携帯電話の電話帳には、レン(泡沫)やカズヤとえりな(かずなり)を含めて、みんなハンドルネームのまま変更していません。自分で判ればいいやということです。


 そのメッセージには、何枚も画像が添付されていました。炎ではなくて、骨や煙のようなものが何枚かに分かれて描かれており、最後の画像には目を背けたくなるほど写実的に書き取られたアケミミノリの胸像がありました。今にも動き出しそうな迫力のある陰影が刻み込まれ、瞳の奥の魔力まで表しています。


 家に帰ってからあれこれ準備していたのでは、まどろっこしいので、これからぼくはミミズ郡……アオイ氏に会いに行こうとしました。放っておくと電池が切れるので、メッセージには手短に用件を打ち込んでおき、それから電源を切りました。


 返事は電車を降りた後で確認する予定でしたが、相手が来る来ないに関わらず、待ち合わせ場所へ向かうのでした。次に作る作品の構想を、忘れてしまう前に話しておきたかったのです。