下請け、肉体労働、搾取……、資本主義の嫌なところに足を突っ込んで抜けなくなってしまっている。日をまたぐ毎に増えていくのは負債と自己嫌悪である。仕事とは言っても、雇用関係にはないから、後ろ楯や保証にも与れず、これが利害関係として駄目と決まれば切り捨てるか切り捨てられるかのにらみ合いをしているようだ。
さて、前文の通り、現在の私はとても楽観的に物事を捉える事が難しい状況に置かれている。「状況」というものは面白いもので、人間を右にも左にも突き動かす強制力あるいは、必然性を秘めている。あらゆる善行、悪行にも言い当てられることではあるが、人や生物が行う営みには、そうした状況が付きまとう。
養うべき家族が居れば、それらを守るために働くなり生きるなりを強いられねばならない。これも「状況」である。言い換えるなら、環境とも言う。当然、守られる側となり特段、行動しなくても過ごせる者ならば、家から出ずにいることも許されよう。これもまた環境が人をそのような姿にさせる。
ところが、私に至っては、自分が行動をし続けなければ、自分を守ることも生かすこともできず、みすみす死に向かうだけの存在となる。自らの人間性が災いして、社会を忌避し、疎まれ、度重なる搾取を受けて最早、生命を保つためのよすがが尽きようとしている。
雇われて働くのは性に合わない。自分自身の信念が雇い主と折り合いが着かないことの方が圧倒的に多いためだ。企業というのは、秩序や習わしに忠実であり、これは非常に安定的である反面、成長や革新から距離を置いた所に留まろうとする傾向がある。私は計り知れない数々のリスクを冒してでも、現状に留まったり思考を止めたりすることを本能的に嫌悪しているから、こうした企業のこだわりや停滞に寄り掛かって居られなかった。
むろん、私とて怠惰であるし労働や仕事をせずに居られるならそれに越したことはないと考える愚かさを抱えている。それが講じて、時に馬鹿であり、時に無知を付け入られ、搾取されるばかりの時間を過ごし、その仕組みや手口を知るに至る。
今更だが述べよう。知識や知恵を(持たないのではなく)持とうとしない者、これは社会において餌食になる。餌食とは、食われる側だ。ただひたすらにしゃぶりつくされ、味がなくなれば無残に捨てられる。利益を享受する賢き食う側にとって、何も知らない餌食の行く末等はゴミクズの集積くらいにしか思われないだろう。社会とはこういうものだ。他人の隙や迂闊を見逃さず、噛み付いて、放さないように引きずり込み、補食する。食われる側が間抜けだったのだと冷たくなじられる。
この状況下でなお、いまだ人間をやめずに、人らしい営みで闘い続ける同志たちに私がかけられる言葉はたった一つだ。
「自分が期待されないことを嘆かずに、他人を期待すらせず生きていく事でこの状況を『知る』ことに努めよ」
然れば、今の自分をそうあらしめている由縁に気付くことができる。そうして、食われるだけの人生を断ち切る機転をいつ働かすのかを想像せよ。それが、次の状況を作り出す重要な転機となる。