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頭のわるい人間

 

 結論から述べると、私は“頭のわるい人間”である。ただし、「自覚のある」頭のわるい人間とだけ補足しておく。


 さて、引越や転職の準備を進めている7月下旬の昨今、様々な場所、曜日、時間帯にあちらこちらを出入りしていて、目に入るのが“頭のわるい人間”だった。


 たとえば、寝泊まりのためにインターネット喫茶に立ち寄った時、個室を利用したとする。ついこの前なんか、放屁やおくびをやたら噛ます者が居た。それは自分の家ならともかく、壁一枚隔たれていても、他者にも聞こえるものだ。すぐ隣でそういう事が繰り返されるのだから、気分は良くなかった。


 しかし、その時ふと思った。「こうした人間は飽くまで、その領域から抜け出す事は稀だ」と。日頃の飲み物に炭酸飲料を採用している嗜好を始め、下品で見え透いた余裕の噛まし方からして、人物の底の浅さが垣間見える。


 そこで、いまだに私が“頭のわるい人間”を自称したのは、そういった部類の人間に一々文句を付けなければ気が済まないからである。元来、人間とは無益な事柄に言及したり関与したりする事はない、と私は思っていた。毎夜、居酒屋に長居する者が、朝4時から起床して朝食前の軽い運動をする習慣を理解できないように、あるいは計画性のない外出で休日をだらだら使う者が、綿密に打ち合わせた上で旅行に行って有意義な時間を過ごせないように。つまり、互いに結び付かない両者は、そもそも住んでいる世界が違うのだ。


 立ち振舞い一つ取っても、それらの違いは明白だ。


 一つの行動によって起こる作用と反作用を考えられないものだから、目の前の数式を解くことにしか頭がいかない。それが普通なのかもしれないし、何事にも先手を打って行動する者は、私の体感だと少数派に感じられる。すなわち、私が居る場所がその程度の巣窟に他ならぬという裏付けでもある。


 私は常に頭のわるい失敗ばかりを繰り返して、齢30程度になってようやく、頭のわるくない人間の入り口に立てた有り様だった。年を取っても、惨めな暮らしを続ける人間は大勢居るだろうし、過去の私も無論そうだった。


 では、今後の私はどうだというのだろうか。頭を使って、先を考えて生きていくのは難しいかもしれない。私の家系はお世辞にも頭の良い系統とは言いがたいためだ。父母もきょうだいも、大きな事を為し遂げる器ではないし、目先の事も持て余しているような場面が常日頃見受けられ、「準備」という言葉とはおよそ無縁なのである。育った環境というのは、その人間の完成形を予見させる呪いとなる。声のでかい家庭は総じて、うるさい子供を連れ歩いている。慎ましい家庭は総じて、子供もなりふりをわきまえている。親の性格から、子供の人生のすべてとは言わずとも、大部分は決定せしめられてしまうのだ。それを覆すには余程の実力と運、その片方だけではなく両方が揃っていなければならない。


 私は人生において、準備を事欠き過ぎたために、こうまで“頭がわるい”と痛感させられる。本質的に“頭がよい”という事は、行き先がしっかりと定まっていることだと考えている。そして、行動の一つ一つにも確実に意味が伴っていなければ、所詮はその場しのぎの生き方でしかない。


 幸いな事に、私は高い知能指数を持っている。テストをしたら、間違いなく他者より優れた数値が出る。だから、この自分の長所を生かさないのは死んでいる事に等しい。


 この死んだような生活から抜け出すために、今、私はもがいている。先がどうなるかは解らないけれど、それも次第に掴めそうな次元になってきている。


 私は私にできることをして、これまで侮られてきた自分に報いるためにも、更なる上の領域へ。進んでいく。進まなければならない。進む。


 ただ進むだけだ。