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数学的な思考ができるか

 

 カクヨムを辞め、小説を書かなくなっておよそ五か月が経過しようとしています。このところ、SNSに何かを書こうとも思わなくなりました。何を書いても、手応えがないという事が大きいです。認められたかったし、信じていたかった。思い返せば、闇雲な方針で、結果を出せない努力だったわけです。


 近々、よく考えていることは、人にはそれぞれ「“収まるべき”枠」があるということです。正しい努力をしていった人たちが相応の結果を残し、やがて自分の価値を確立していきます。弁護士になる人、医者になる人、社長になる人、選択は様々ですが、各人には目的意識がしっかりしているという共通点があります。だからこそ、そのような高い社会的地位が相応しいといえるのです。


 私は漠然と、他人よりも上に上に行きたいと願ってばかりいました。実際のところ、現在立っている場所はその逆です。見下ろされている気がして、周囲の視線に敵意を感じています。その発端が自分自身の弱さにあることが判るのですから、まだ統合失調症とは呼べないと思います。


 己の弱さを知っていますから、常にその姿勢を正す方向へ進みながら、これまでの自分が持っていなかったものを着実に取り入れて、堂々と、毅然とした態度で他人と向き合うようになってきました。しかし、成長の途上であって、万全ではありません。私に欠けていたのは、どうやら、“方法を知り”、“実際に則して図る”という実務的な動作です。


 その証拠に、職場の人間との会話や不動産会社への問い合わせ等で、他人と口論になると、高確率で私が敗北します。それは私に言葉を操る能力が欠けているわけではありません(言葉を使わせたら、おそらくこれまで会話をしてきたほとんどの人間よりもまさっている自信はあります)。問題なのはそうした“力そのもの”ではなく、“戦略”が未熟であり、乏しいのです。相手が言っている事の違和感に気付けても、それをどのように切り崩すべきかが解っていないので、いつも口車に乗せられて、言いたいことが言えず、相手に有利な流れで結論へ進んでいき、異物感が残ったまま話が終わるのです。


 後々考えてみたら、相手の言っていたことが全部、根本からおかしいことに気付いて、その場で言い返せなかった自分を自己嫌悪してしまいます。討論のような闘いには、数学的な論理の組み立てが、どれだけ速くこなせるかが試されている、と実感しました。私は話の全体像を予測し、見通す想像力は備わっているのですが、反論すべき要所を見事に外すことが多いのです(感覚は鋭いので、相手のボロを拾っての指摘はできています)。本当に言いたいのは、最適解は予測の先にあって、その過程で意見をぶつけても無意味だということなのです。


 つまり、こうした長い文で思索を究めていっても、多くの場合、理解されません。難しい数式を見て、脳がそれを拒否するかのように、だれもが思考停止してしまうのです。解に至るまでの事情を丁寧に説明していけば理解は得られるでしょうけれど、それすら惜しむ者が大半です。したがって、考える事を放棄した単純思考な人々に適応した心掛けを示さなければならなくなりました。一〇〇伝えても、結局は一〇伝わっているかどうかというのが彼らの体たらくなのです(聞き逃した解法は確認するという柔軟性もなく、考えなしに進んでしまう人がほとんどです)から、とても信用できません。


 世の中には、能力の低い人間も多く居ます。だれもが自分と同じように、洞察力や想像力を持ち合わせているわけではありません。各人は持ち得る能力の範囲内で社会に参加し、その限られた資源の活用法を周囲も工夫しなければならないのです。言ってしまえば、一+一が二になる論理を説いても、話が全く通用しない人間も居ます(その解が二であるのは明白なのに、認めようとしないのです)。


 正しい事だけをしていても、そうした困った人たちを動かすことは難しいのです。私はあらゆる出来事に対処する術を身に付けて、社会の横暴や理不尽に流されるだけの自分から脱却したいと常々感じています。


 端的に述べると、物分かりのよい人間が少なすぎるのです。普段、どのくらい頭を使って生きているのか解りませんが、先述したような具合で、とてもお話にならないのです。思考が追い付かなくても、最悪、二極化して、“はい”か“いいえ”で考えを表すこともできますが、それすらも決めかねている様子で、「とりあえず否定しておく」という姿勢を取る人間の多いことに、その人間の限界を垣間見ます。否定は最も簡単で、最も凡庸な反応だと受け取ることができます。逆の事を言うのは、革新的解決には必要な過程ですが、そこで止まっていては、その先の真理には到達できません。


 否定しかしない人間には、物事の側面としての概念すら理解しようという努力が見られません。そういう人々に言い負かされてしまうのですから、私は悔しい思いをしています。


 もっと有能かつ優れた能力を持った人間にならなければ、今の私には生きている価値があるとは考えられません。このまま生き続けていくくらいなら、死んだ方が増しです。どれだけそう思ったことでしょうか。文章(または論述)の最後の方だけしか頭に入っていない人の多いことか手に取るように解っていても、この文章の核心がどの部分かを一人でも多くの者に理解してもらえたなら、こんな私も少しは救われます。やはり、人はそこまで高い能力を持つ者ばかりではない。過ぎた期待です。