スキップしてメイン コンテンツに移動

木村L (1)


木村L

複雑で奇怪な自分に釣り合う人物像を逆算し、実在を問うた。

 これは小説でもなければ、日記でもありません。言うなれば、ある人物に宛てた遺書でしょう。その人はきっとどこかに存在していて、私が違う道筋を選んだ際に出合う予定の人物でした。

しかし、これを書いている私からすれば、出合うことのない人物です。彼女から得られるものが、私にとって、大事な、失わせたくないことでありますように。

1ページおよそ1,000字。更新頻度は未定です。
(制作:2021年3月5日~)



0,最後の話

 これを読んでいるということは、もう私がこの世に居なくなったということなのだろう。私という一人称を使う理由もないから普段通り、「おれ」でいかせてもらう。

 おれはどこにでも居る人類の一人であり、どこにでも居ない「私」の一人でもあった。そんなおれを、おれと認識してくれたのは後にも先にもあなただけだった。あなたという二人称はよそよそしいから少し偉そうに、「きみ」でいかせてもらう。

 命を持たない存在に時間という概念が流れていないように、もはや後も先もないわけだが、きみが生きていれば、きみの記憶の中のおれは左右上下前後、X軸Y軸Z軸とあちこちの座標に点在しているようである。あるいは4次元を超えた位置から、おれがのぞきこんでいるかもしれない。

 すまない、よいたとえが浮かばないのだ。

 とにかく、死というのは逃れられない極致にあって、とても怖いものであった。だが、おれが恐れるかどうかに関わらず、死はおれの目の前に現れて、「こんにちは」と顔を出して、通り過ぎておれの全身をすり抜けていくのだろう。その結果、おれは動かない、考えない、感じない塊と化した。動いているのは、おれの文章が握っている心ばかりの意図に始まり、これを読むきみの脳内を駆け巡る血流に、紛れ込んだ酸素か、眼球を突き抜けた文字列が成した具象が催した、前頭前野に念写された思想か。いずれにせよ、座標に点在するおれはきみの頭の中で生きていて、動いている最中なのだろう。

 それが紛れもなく、おれを矮小な存在であることを示している。無様にくたばったと笑ってくれることも、大粒の涙を溜めて水分に哀しみをにじませることも、きみらしい姿とは言いがたい。だが、きみはおれの死から何を得ただろう。それには興味があるし、できることなら超次元のおれに伝えてやってほしい。飽くまで、きみの記憶の中で、ね。

 尽きない話は人間を予定より早く老けさせる。きみはきみの死に向かいつつも生の途上を歩いていく。つまり、こういう事が言いたかったのだ。まだきみは生きているし、どこかに存在している。

 おれはすでに居ないけれど、きみはおれを覚えていて、こんな遺書に目を通している。

 これから語るのはきみのことについて。おれの、とても大切な、きみについて。



1,であい

1-1

 木村という人間は癖の強い女だった。

 自分の思っていることを整然と、言葉で表し、嫌いなものを嫌いと言えるような性格をしていた。単に、先入観や一時の感情で意思を決定する方ではなく、世間一般の考えと照らし合わせた上で、好きだの嫌いだのを慎重に見極めている。

 そんな彼女から嫌われているでも好かれているでもなかっただろうおれは頻りに、ある場所で彼女の顔を見掛けた。そこは俗に言うカラオケボックスで、正式な名称は知らない。それが正式な名称であることを、おれは知らない。

「お一人様、一時間で。はい、かしこまりました」

 この女もどうせ監視カメラ越しにおれのことを嗤っているのだろう。なんて卑屈な想像をしていたのは過去の事である。彼女はとにかく、だれかのことを嘲笑ったり、反対に、もてはやしたりすることもしない堅い面があった。そこに足の小指でもぶつけようものなら、とたとえ話をしようと思ったが、スベるのが予測できたのでやめておく。もう手遅れなどと言ってくれるな。

 つまるところ、木村はカラオケ店員と呼ばれる地位に居た。おれは、彼女の勤めている店を頻りに利用する物好きな客だったろう事は想像に難くない。どころか、柔らかい。でもなく、容易い。もとい、おれがそこまでカラオケボックスにこだわる理由はこの際、放っておいて、彼女との邂逅をより詳細に思い返してみる。



 おれは一人暮らしをしているフリーアルバイターであり、一か所に留まることなく、職も住所も転々とする、社会的な変人だった。それがわざわいして、職にありつけない貧乏を度々味わってきたし、自殺を考えさせられるくらい八方塞がりになることもしばしばあった。こんなのは自慢ではなく、おれの特徴の一つである。

 おれという人間は「他人と同じ」を嫌う「冒険家」なのであり「旅人」なのだと自負している。何を格好つけているのだと嘲笑されるのが関の山ではあるが、普通の暮らしをしている限りだれにもできない生き方を実践しているのだから、その点においておれは格好つけていい。

 度重なる引っ越しを繰り返し、親しくなった人や険悪だった人、それぞれとの繋がりを一挙に手放すのが、おれの人生の有り様だった。出会いの分だけ別れを繰り返す。まさに冒険であり、旅だった。その周期的な間隔の中で、いかに多くの事を経験し、そこから学び、自分を鍛えていけるのかが人生の本題だ。

 そんな儚いおれの旅路に突如として現れたのが木村だった。彼女が現れたというより、おれが彼女の前に行き当たったと言った方がより自然である。


1-2

 木村もまた一人暮らしをしている若者であり、後で知ったことだが、初対面の頃の彼女は丁度、二〇才だった。おれはてっきり、アルバイトをする高校生を連想していたが、思いのほか成熟した年頃だったわけだ。同期には、専門学校や短期大学、大学などを通っている者が居たことだろう。その時分、おれは実家暮らしをしており、堕落した毎日を送っていた。

 成人して間もない彼女は、おれが頻繁に店を利用している姿を、数ある来客の一つとしか捉えていなかっただろう。店員と客の関係だったなら、おれたちは何の接点もなく別々に暮らしていたはずだ。

 おれは人並みの男程度には、女に憧れを抱いていたし、できることなら若さを惜しみなくつぎ込みたいなんて野暮を企てていた時期があった。その劣情が明確に潰え去ったのは、おれが二四だった頃だから、割と最近だ。おれが異性への幻想を捨てなければならなかった背景には、生活の困窮が根幹を成していた。

 だれかとお付き合いをし、将来を共にするという資格を得るためには、安定した生活と収入が必要不可欠だった。二四才のおれはアルバイトを掛け持ちして、死に物狂いに働いた。それでも手に入る給料は月々十万を超えればいいくらいで、先立つ貯蓄もなければ、積もった借金の返済に溶けていくのだった。

 つまり、女の子と一緒になりたいなら、その子を養って余りあるくらいの稼ぎが前提条件にあった。しかも、付き合うだけなら遊びと変わらないから、結婚を前提としたまじめな付き合いができないのであれば、そもそも女の子と結ばれる道理も甲斐性も有り得なかった。

 それを悟ったおれはついぞ、女をどうにかしたいなんて浅ましい感情をすっかり失い、なにもおれごときが小細工しなくとも、どんな女性にも相応しい相手がじきに現れることを悟った。

 以上が、おれの、男としての限界であり、現実だった。それ以前に、おれの容姿も性格も、現代の女性の好みには著しくかけ離れているようだったから、それも諦めに大きく貢献した。

 しかし、木村は違った。

 普通の女性は男性に比べ、積極的に異性を求める傾向にはない。その根拠は、出会い系サイトやマッチングサイトで、男性会員が有料で女性会員が無料であることが示している。分かりやすく言うと、強い欲求を持つのはいつも男の方である場合が多い。性犯罪の発生件数しかり、女性専用車両の存在しかり。男性が性に積極的なのは、世間一般の事実で、安直な差別でも偏見でもなく、一つの結論なのである。

 女にとって危険な存在ともなり得る男に、なぜ関わろうとするのかおれには理解できなかった。おれは単に唄うのが好きな、自惚れの強いだめ男であり、木村は前途ある善良な、社会貢献を欠かさないカラオケ店員のはずだった。


1-3

「今度、一緒にカラオケをしませんか」

 突然の誘いだった。世間では、コロナカだかジシュクだかうるさくなっているその時期にあって、カラオケボックスだっていつ潰れるか解らないご時世だった。それどころか、従業員に万が一でもあれば営業停止からの閉店という悲しい末路だって考えられた。

 もちろん、勇気を出して、断った。彼女もまた提案する時に相当の勇気を要したように。社会的な目で見れば、おれは二十代の男にも関わらず正社員でもなく、家族を持てるだけの経済力を持たない、普通以下の役立たずだった。こんなおれにとって、女と関わることは、将来を左右する重大な事だと、半ば履き違えていた節があるから、友情ゆえの男女の清い関係なんて、とても信用していなかった。万が一、(自分の意志に依らず)何かの間違いで子供ができてしまったとしても、確実に責任が取れるだけの立場にない限りは、女と一切の関わりを持たない覚悟だった。世の中でいう不倫や浮気なんてものが、所詮は自分勝手な遊興に過ぎないのだと、すでに悟っている。そうした遊びに興じるくらいなら、そもそも異性交際なんて無駄以外の何物でもない。むしろ邪魔だった。

「自信がないんですか」

 そう言われて、おれの内情は激しく燃え盛った。このおれに限って、隣に小娘が居るだけで唄えなくなるなんて事はない。昔のおれとは違うのだから。男とか女とか関係なく、おれはこの癖の強いカラオケ店員をどうにか驚かせてみたくなった。

 こういう抜けきらない負けず嫌いの、子供っぽさがおれらしかった。自分を見下すことがあっても他人から見下されることには強い反抗心が働き、決してその言いなりとなることを許さなかった(バイト中、営業用にこしらえた自分はこの限りではない)。そして、そのおれらしさを見透かしたように口元を緩めた木村が、史実で語られた孔明に類する抜け目なさを有しているように思え、おれはこの出合いがまさしく運命的の中の運命の仕業だったと覚えている。この世に運命が介在しない出会いなどないのだが、特に木村はおれの過去に一度か二度あったかと、数える程度にしかなかった機会を担った一人に加わった。

 では、彼女がなぜおれに興味を持ったのか。始め、おれはそれが自分の、甲乙つけがたい歌唱力から引き起こされたものだと思い込んでいた。歌が上手であるか下手であるかなんて、聞き手からすれば重要じゃない。馴染みある人の歌声なら許容するだろうし、知らない人が唄う声はときに不快というものだ。カラオケでは、そうした敵対心が芽生えると、他人の作った音楽を使ってぶつけ合い、投げ合って、小さな戦場と化している。



2,からおけ

2-1

 おれは春であろうと夏であろうと、秋であろうと冬であろうとカラオケを欠かした事がない。さかのぼると五年以上前から、カラオケボックスがおれのidentityとなりつつあった。いわゆる、こいつといえばこれ、というお決まりの場所がそこだったのである。住む地域が変わっても、身近なカラオケボックスの所在地を突き止めては、営業時間と料金体系を吟味して、費用対効果の高い所を利用する。すべては通い続けるための下準備だ。最も重要なのは、どの時期に混雑するのかを把握しておくことで、なるべく、よその客とかち合わない時間帯を見切っている。

 長い時間唄いたくなる時もあるが、原則一日一時間にしている。それを過ぎて唄っていても遊んだ感じがするだけで、課題となる事が全然解決できていない場合がほとんどだ。歌が下手だった頃は、一回毎に、歌唱力が立ち上がるまでに数十分くらい要していたが、取り組みの微調整を繰り返した末に、もう最初から実力を発揮できるくらいになった。長々と唄っていると、声の通りがよくなるから、体感では上手に唄えている気になるものの、実際は自分が思うほど上手な歌声ではない。単に声が出ていることと、ちゃんと唄えているということは、まったく違う。前者は特別な技量を要さないのに対し、後者は歌の技法を緻密に理解していることが必須だ。

 おれは専門家に教わるでもなく、腹式呼吸や裏声、デスボイスなどを、見よう見まねというか、聴いたままを真似る事を繰り返して、どうにか習得していった。各々の技法の具体的な方法は説明できるくらいに分析してあるが、所詮は我流なので効率度外視の遠回りを何度繰り返したことか。独学なんて言葉を使えば澄ました風で面白くないのだが、一応おれもそういう部類に含まれる。教わらずに伸びた長所に希少価値なんてなかった。余計に時間が掛かるだけで、賢いやり方じゃない。音楽教室やらボイストレーニングやらを活用していれば、一年も掛からずに歌は上手になるだろう。おれは実際、一年以上かかってようやく聴ける水準になった。

 唄った動画をネットに上げようだとか、人前で唄えることを啓発しようとか、そういう承認欲求みたいなものは、おれにはなかった。ただ、自分の歌が下手であることが許せなかった。おれが実家に居た頃、上のきょうだいがよく家で唄う人で、その酷い自惚れた歌唱に辟易としたものだ。

 歌が下手だと格好わるい。おれは学生時代からそう思っていて、合唱の練習や発表にせよ、音楽の授業にせよ、校歌や国歌、式の歌など、どれ一つとして手を抜いたことが一切なかった。アカペラは得意だったのに、校外学習の帰りのバスの中で唄ったカラオケはどうにも慣れなかった。ちなみに、その時唄ったのは高橋洋子の「残酷な天使のテーゼ」という曲だった。


2-2

 おれがカラオケに没頭するきっかけは、実家でも学校生活でもなく、もっと別のところにあったのだが、話を木村の居る時間軸まで戻そう。

 五年以上鍛え上げた技能が普通より下なんてことはなく、間違いなく素人が真似できないくらいの歌唱力を手に入れ、その上、まだ先を目指そうとしている。時々、自分の歌が周りで唄っている誰々よりも劣っていて、下手なのではないかと不安になる時があるが、いざ唄ってみたら思っているよりちゃんと唄えていて、自惚れなんかじゃなくて、素直に自信がついてくるようだった。

 カラオケで大事なのは、音楽の一定の速さ(拍)を無視せず、確実に合わせること。それさえできれば、声が出なくてもまあまあ形にはなる。

 木村と例のカラオケボックスで初めて出会ったのは、おれが彼女の生活していた近辺に引っ越してきたばかりの五月の半ばだった。それまで無期限の営業停止に追い込まれていて、どうにか再開したばかりのそのお店自体は、何の変哲もない、カラオケをするための部屋がいくつもある二階建ての屋敷だった。感染予防として、レジ前のビニールカーテンの使用やアルコールによる手の消毒、団体客も数人に別れて少人数で部屋を使用させるなど、徹底した対策を行っていた。

 クラスターやエアロゾルとはいくら願っても居合わせない、いつだって「お一人様」と復唱されるおれは、そのお店の様々な部屋を使わされる度に、どの部屋が機械の演奏と自分の声の音響を聞き取りやすいかを耳で探った。響きすぎず、こもりすぎず、最も条件の良かった一室を、やがて指定するようになった。過去に利用した店では、左のスピーカーだけ故障していたり、音の入出力に遅延があったりで、ソロの演奏が中途半端に途切れるので、まともに唄えたものじゃなかった。

 幸いにも、そのお店は機器がしっかり作動している部屋がほとんどだったので、不満はない。そこの従業員はおれが常連になると、マスク越しでもさすがに顔を覚えてくれたみたいで、この客はどの部屋に通せばいいのか、と暗黙の了解を示すようにもなった。特に、木村は午後の開店時間から夕暮れ時まで勤務しているみたいで、夕方にカラオケボックスを利用するおれとは顔見知りになっていた。

 おれがいつも指定する部屋は他の客もたまに利用していることがあり、混雑していたり気が乗らなかったりした時は、利用せずに帰ることもある。戦争状態のカラオケボックスに潜入するのは、おれの本意ではないし、張り合ってやれないこともないが、最終的には機械の音を上げるしか能がなくなる兵士ばかりなのが痛々しいので、おれは持ち前のでかい声を易々と披露しない。ちなみに、おれはマイク音量を常に0にしているため、アカペラでも十分な声量で唄える。


2-3

 行動原理の根幹は明かしていないものの、おれは自他共に認めるカラオケマニアなのであった。しかし、特段に歌が上手というわけでもなく、かろうじて下手じゃない水準を保っているのであり、専門家のもとについて、しっかりlessonしている若者たちに比べたら、まだまだ下手なのである。

 おれが最も得意としている音域は女性ボーカル曲で、ミドルボイスよりも高くならない、ぎりぎり仮声になるかならないかというところ。元々が音痴なので、声が低いくせに、男声の曲をやろうとすると音がまるで取れなくて、念入りにやり込んだ、高めの曲だけ極端に音程が取りやすいのである。ハイトーンは十分なブレスと舌の付け根を微妙に調節して、ムラなく息を出し続ければいいので難しくない。しかし、低音の曲は完全に感覚を頼りにしている。強いていうなら、息を吸い込んでから思いきりよく出す。これでは感覚なので理論とは言えないか。

 能書きはこのくらいにして、来る十月におれは友達でも知り合いでもない、店員の木村からカラオケに誘われたので、約束の日までこっそりと歌の練習に励んだのだった。もちろん、一人で行く時のような危ない挑戦はしないつもりだ。選曲は、往年の十八番から現在のそれに限定して、情けない有り様を見せないように取り組むのである。

 カラオケを始めたばかりの頃の、おれの得意な曲はsupercellの「君の知らない物語」(一番最初に唄う)やAKINOの「Go Tight!」(この曲の時は大体めちゃくちゃ踊っている)が筆頭に挙がる。そこから数年置きに十八番は変遷を辿っていき、UNISON SQUARE GARDENの「harmonized finale」やUruの「フリージア」が加わった。この年、つまり二〇二〇年の段階で得意だったのはGARNET CROWの「今宵エデンの片隅で」やDECO*27(feat.初音ミク)の「僕みたいな君、君みたいな僕。」などがある。おれにとって得意な歌の定義は、音程が85%を超えていてかつ声域が高音低音共に、すべてが出ていることが前提である。

 最新の曲を追うというよりは、記憶の片隅にあった曲を振り返りつつ、当時の時代背景を考察することが一つの楽しみになっている。知っている曲が過去に増えた分、おれも老けたのだ。

 時が経ち、以前には上手に唄えなかった曲を自分の声で再現可能な領域に到達しているのは個人的に喜ばしい。低い声が細かく操れるようになったり、高い音でも息を長く伸ばすことができるようになったり、と地道に向上している。その成果が採点にも影響してくるのも、なかなか面白い。

 ここまで来ても不安要素はあって、いまだに仮声がきれいに頭の上まで響かないことと、速い拍に適応する音感が未熟なことだ。それらが改善されれば、ゆくゆくは唄えない曲がなくなる。



3,こしつ -性別-

3-1

 十月は、おれがカラオケに通い始まるきっかけとなった月であり、毎年この時期になると或面影を思い出しては、歌をもっと上手になってやると決心をする。八割五分くらいはおれ自身の名誉のためだが、あとの一割ちょっとは当時の不甲斐ないおれへの当て付けなのだ。おれがたとえ、どんなに歌が上手になったとしても、その決心はおそらく死ぬまで緩まないだろう。それだけ歌唱という行為には独自のこだわりがある。

 木村との待ち合わせは、いつものカラオケ店だった。互いのアルバイトの休みが重なる日に予定を組み、わざわざ昼間から夕暮れ時まで、つまり木村が一日の仕事を始めてから終えるまでの時間を利用してやろうというのだ。数時間を一つの会計にまとめた料金体系があり、お得なパック料金と呼ばれるものがある。それを使えば、二人合わせてもおよそ三〇〇〇円もかからないだろう。

 昼下がりに、自宅を出たおれは、カラオケボックスでいつも使っているマイマイクやお役立ち道具が入った、ショルダーバッグを肩から提げて、自転車で目的地まで向かうのだった。

 一八才の時に取得した第一種普通自動車運転免許証は、一年に一回程度は活用しているが、車を所有できるほどの稼ぎがないため、いつもこれだ。最悪、出勤も買い物も徒歩で活動していた時期がある。こうして自転車を購入したのは、まあまあ成長した証だ。いたずらや劣化による磨耗・減りを毛嫌いして、とても購入までこぎ着けなかった。それで、購入したのは、じつに三万円以上する、いい自転車である。当然、ガソリンを食わないので家計にやさしい。運動になるかどうかは、走行距離と相談して決めたいところ。おれが乗り回す活動範囲では、とても運動の一環とは言い難い。下手すれば、カラオケで消費するカロリーの方が多いかもしれない。

 こぎ出してからものの数分で、通い慣れた店に到着する。もうこの街に来て、そろそろ半年になろうか。

 住み処と仕事さえあれば、おれはどんな地域にも行くだろうし、ここに留まる特別な理由はない。人を長く一か所に縛り付けたがる社会は、世間一般の安定した普通の生き方を避けるおれを軽蔑し、役立たずで問題ありな人物だと烙印を押してきた。すべてはおれの無力が招いた自己責任であり、それに抗うように、だれもできないような特別な力、才能を探して歩いている。もう二六になる。こんなおれをだれも若者なんて思わない。企業に就職した同期は、あと数年で中堅に位置する社会的地位を与えられ、家族に、持ち家に、欲しいものは大体を手に入れるだろう。一方でおれはどうだろう。

 お店の出入口付近に、もう待ち人は来ていた。


3-2

「こんにちは」

 まだ女子高校生の風貌が抜けきらない、自称成人の木村は後ろ髪を首元まで垂らした、長髪ではないが短髪とも言えない伸び具合の髪型をしており、俗にいうロングボブという髪型らしかった。前髪は適度な長さに保たれていて、目尻の下がった柔和な眼差しが下方からこちらをのぞき込んでいる。中学時代におれが片思いしていた子も、こんなたれ目をしてたのを思い出した。

「よく逃げずにきましたね。いきましょう」

 その穏やかな顔で、その澄みきった声で言われるから、おれはなんとなく聞き逃してやっているが、一歩間違えばかなり無礼なことを息を吐くように言ってのけるのが木村の悪い癖だった。

 先導されるように、店へ入っていく。この日は思いのほか混雑していなかった。不要不急の外出をしないのが常識かと思えば、おれたちみたいに出掛けているやつらが居る、よく分からない世の中だ。そもそも世の中とは、よく分からない。だれが正しいのかすら分かりはしない。きっと、大抵は自分こそが正しいと思っているけれど、それを上手に隠せる者が協調性を獲得し、隠すこともせずに勝手気ままな振る舞いをしている人が他人に迷惑を掛けるのだろう。

 カウンター越しに、別の店員が受付を開始する。この男性店員とも顔見知りだ。週に五回も来ていたら、ここでおれを知らない店員はもはや、新人を除いて、居ない。そして、その多くが監視カメラ越しにおれを嘲笑っているのだろう。そうだろう。これもきっと、木村というやつが仕組んだ罠だったのだ。

 などという被害妄想は、いつもおれが指定している部屋に入室した直後に消え失せた。

 部屋に入るや否や、木村は壁についている照明の電源を切ったのだ。おれが電気を点けようと、スイッチの近くでわずかに立ち止まっていると、ふいに声を掛けられた。命令された。

「座ってください」

 暗い部屋のまま、言われるがまま、二人が座るには広々したソファーに腰掛ける。こんなことが昔もあった。思い出すと苦しくなる。階段を乗り降りしたわけでもないのに、呼吸が不安定になる。カラオケボックスでの苦い思い出にやられる。

 木村はどこからどう見ても、普通の女だった。それもいい具合の年齢の、最高に美しい時期の女だった。そんな彼女が一体なぜ、画面の明かりが照らす暗い個室にわざわざ、こんな尋常ならざる男を招いて、向かい合わなければならないのか。

 痩せているでも太っているでもない、中間の体型の子は暗がりから問い掛けてきた。

「どうですか」


3-3

「目が悪くなりそうだ」

 おれはわざと、この場の意図に反した答えを返した。むろん、それで彼女が許すわけでもなく、ソファーの上を手のひらで叩きながらもっと近くに来るよう促された。ソーシャルディスタンスが主流のこの時代に3密は感心できない。密閉、密集、密接がある場所は集団感染が起こると、みんなが怒っている。自粛警察は強行手段を取って、感染予防に向けて懸命に働いている。おれの知ったことではないが。

 そういうことなので、おれは四の五の言わずに、男らしい思いきりで木村の真横に座り直した。そのまま何の気なしに部屋の、曲を探してカラオケの機械に送信するための道具、電子目録をタッチペンで操作し始める。

「ぼくのこと、女だって意識してないの?」

 唄うために予定していた曲が送信できることを確認しつつ、話し相手の顔を見ずに、適当に受け答えをする。

「だれがどう見ても、きみは女だ。きみが自分自身をどう捉えるかを無視すれば」

「あはっ。自分がどう思っていようと、ぼくは女に見えるし、女以外の何かになろうとしたって、やっぱり女であり続けるよね。喉の作りや、皮膚・爪の厚さ、靴の大きさ、骨格、エトセトラ」

 やけに楽しそうに話す小娘だった。話し好きな人間は過去に何人も見てきたが、この子は特別、そのだれよりもまっすぐな声色と抑揚で、性別の真実を語った。昨今では、女性を主体にした議論で、女のみならず男までもがごちゃごちゃ言い始まる奇妙な世の中だ。だが、これだけは言える。

「人間の性別を決めているのは染色体であり、心じゃない。社会が目を向けているのはきみの心の性別ではなく、染色体が示したデータにおける性別そのものだ。だから、おれはきみを女として認識することに一切の抵抗がないし、これが不服なら、心から抵抗すればいい。自分勝手で頭のおかしいやつだと思われてもいいなら、な」

 おれにとっては、個人の性自認はどうでも良かった。たとえ、おれがどんな理屈を並べたって、世間は男を男と認識するし、女は女と認識する。時々、それに逆行する、いわゆるトランスジェンダーが度々、インターネットでの話題を賑わしてくれるが、受け入れるも受け入れないも、社会にとっては「らしさ」を欠如した珍しい個人、という評価は免れない。この「らしさ」を過剰に嫌う性質を有する人間全員に共通しているのは、自分自身を実際以上に特別視しているきらいがあるということ。

 自分が自分を認識する上では、あらゆる「らしさ」は無価値である。しかし、団体に属し、集団生活を営む上では、そうした「らしさ」が有力であり、逸脱した個人には過酷な試練が待っている。和を乱す人間とは、常に疎まれ、避けられ、無視され、いじめられる。実際、おれがそうだし、自分自身のこだわりなんて、社会生活は何一つ求めちゃくれない。


3-4

 話し相手に恵まれない人生を歩いてきたにも関わらず、くだらないおしゃべりが得意なおれは、性自認を大事にしている人間が聞いたら幻滅するだろう講釈を述べたわけだが、木村は激怒するでも号哭するでもなく、お腹を抱えていた。世間一般でいうところの「大笑い」である。おれはボケを噛ましたつもりもなく、社会を渡り歩いていく中で培った経験則に基づくありのままの本心を語ったに過ぎない。

 染色体が性を決定付けるとする持論は、おれ自身の思想というより、社会の「自然な」反応を注意深く観察してのことだった。「差別しないようにしよう」という考えそのものが誤っている。他者の働きかけによって気負いした承認に、真実の理解は存在しない。また、次世代を担う幼子に「個人の心が性別を決める」と刷り込んだ多様性もまた、不自然な洗脳である。それに伴った性自認は、さながら心理操作と区別が着かない。

 厳然とした「らしさ」が社会には染み込んでいるし、男らしさや女らしさを否定したって、先天的にせよ後天的にせよ逆らう個人は圧倒的少数であり、逆らわない多数にとっては奇異な存在であることに変わりない。これが、個人の感情を踏まえない絶対的な「自然」の見地であり、外部から何の干渉も加わっていない、素の状態の、最も「無理をしていない」ものの見方だ。

 多数として生きている人間は、差別をするつもりがなくても「らしさ」を欠いている人に対して無意識に抱いている違和感があるだろうし、そう受け取ることに反感を持たれてしまっては、洞察力にも感受性にも鎖を巻かれたも同然で窮屈になる。

「そういう、おかしいと思ったことを表現すると差別になるから、おかしいと思っていても表現しないようにしましょう。っていうのが定式ですね。どうあっても大勢に、嘘つきであることを強要する、おもしろい世界」

 思いやりとは、大体やさしい嘘の集合だ。違いを認めて過ごそうなんて無理をしていれば、あれも、これも、それも、一様に認めてあげようなんてなりかねない。少しは周りに合わせることも知ってもらわなくちゃ、今度は周りの大勢が迷惑をするというもの。自分自身の存在意義がどう見積もられようと、甘んじて受け入れるしかない。

「嘘をつく行為、それ自体は倫理に反するが、個人の尊厳を守るために、嘘は便利な道具だ。差別をしていないと豪語しているあほうが、実際は差別的な行動を、それも無意識にしてしまっている。だが、それでいい。それが自然体であり、他人をいたわる言論は後付けにすぎない。これこそ理想と現実の違いだ」


3-5

「へえ。あなたって、こっち寄りの考え方をしているんですね。おもしろい」

 たかが性別なんかのことで、すっかりと話し込んでいた。特に仲良くなったわけでもないのに、この女と話すことに慣れ始めてきた。ここまで自分の言語に比類した水準で話せる相手が久しぶりだったので、ついつい饒舌になる。

 会話で、おれの意図を受け取り、まともに返答できるのは、バイト先でも本当に地頭のいい人くらいなもので、そうでない人には若干、言葉選びに気を遣う。難しい言い回しをすると「えっ?」と聞き返されるので会話すること自体あきらめている。

 木村の示す「こっち」とは、おそらくおれの想定しているあれの方だろう。だが、あえてとぼけた振りをする。

「こっちとは、どっちのことだ」

「すごく、いけない方向のこと、ですよ」

 耳元で、吐息混じりにささやかれた。間違いなく、女の声だった。少し下品な表現を使うなら、雌の声だった。社会的な目で見ずとも、この場に居合わせたほとんどの男性は本能的に、その声の響きにいささかの女性的要素、いわゆる女らしさを感じ取っては興奮するのではなかろうか。

 しないのであれば、先述した圧倒的少数に該当するだろう。おれの感性はそういう少数よりか多数の方に準拠しており、ことさらそれを修正・改ざんしようなどとは思わない。外部の心理操作に寄らず、自分の本能が感じる自然体を大事にしたいのだ。

 つまりは、自分の思うがままを信じる。多数の人が信じる感性も、細分化すれば個人の集合であり、少数の価値観を虐げるのは多数の価値観などではなくて、共通の意志を持った途方もない個人であると知ってもらいたい。

 木村が言いたいのはおれが、善悪で表すところの「悪」の考え方をしているということ。そして、彼女もまた、それに理解を示しているのである。

「勘違いするな。おれは女を陵辱して平気な顔で居られるほどのバカじゃない。見付からなければいい、なんて考えるケダモノとも断じて違う」

「はい。それで?」

 小娘は真剣な面持ちで次を促した。おれはマスクをしたまましゃべり続けた。

「人並みに罪悪感を抱くし、自分の不利になる行動は取らないということだ。それがおれの後天的な価値観だ」

「ほお。つまり、あなたはそれを獲得するまでは不利になることもいとわなかったと」

 木村はおれの過去に興味を持ったようだ。

 すると、隣り合う部屋の片方から音楽が鳴り始めたようだった。使用中なのに、カラオケをしていないとなると、変な誤解をされかねないから、そろそろ狙いを定めていた曲を送信する。おれの往年の十八番、ステレオポニーの「泪のムコウ」。大抵は本人映像で唄うが、この日はアニメ映像の方だった。その理由は単に、動き回るガンダムが観たかったから。



こしつ2 -愛-

4-1

 おれは木村が女性であるか、男性であるかはさして重要な問題だと捉えていなかった。だが、関わるとしたら同性より異性の方が、気持ち、幾分か慰めになる気がした。男同士では感じられないこと。男女だから感じられること。下心があるわけじゃない。あったところで何の役にも立たない。

 男性的なおれが求めるのは、女性から向けられる好意やそれに附随する癒しや特別な待遇だった。ところが、すでに男性としてのおれはほとんど死んでいるので、そこで木村が突然裸になったとしても、おれは微動だにせず、服を着るように注意するに留まるだろう。内心ではうれしがっていそうだが。

 男性的なおれを完全に亡き者に至らしめた理由は「やめて」という一言だった。ただその一言がおれを一生解放しない呪いとなって、消えないでいる。これまで、おれはだれのことも愛したことはない。したがって、愛されたこともない。愛なんてものが存在したのかどうかも疑わしい。あるとするなら、一時の勘違いから、その人のことを実際以上に高く評価してしまっていたこと。俗にいう、片想いというやつだ。報われないと判れば、さっさと手を引くし、結局は自分の気持ちが大事で、勝手に信じ込んでいた偶像を夢見て、好きだの嫌いだのをころころ、行ったり来たりしている。

 この広い地球上に、言うなれば七十五億以上、あるいはもっとたくさんの人間が居るというのに、あれも違う、これも違う、と偉そうに夢見る権利が、このおれにあるというのか。「隣り合った男女で一組を作って付き合ってみてください」だとしても、そうでないにしても、くだらないわがままによっていつか別れる。どうせ同じことだ。

 選ぶ権利なんか行使しなくても、どこかしらなにかしらのきっかけが二人を結びつける。わざわざ外国まで探しに行かずとも、手近なところで一緒になれる。それでもうまくいく。長い時間、お互いを認め合えるのなら。

 だが、そこまで辛抱強く一人のことを愛せる人間なんて、そうそう居ない。おれの親だってそうだった。気に食わないことがあれば出ていく。助け合わない。自分の気持ちを大事にした結果、それが生活を苦しくするとしても別れる。愛なんて、そもそもありもしないものに期待している、子供っぽい両親にはうんざりだった。

 おれは両親の普遍的な性的欲求によって生まれた人間でしかない。そこに愛はない。したがって、おれはだれかを愛する資格はない。女に性的欲求を向けるだけが能の、大ばかやろうだ。それを自覚してから、おれは男性である自分に、男性としての価値が欠片もないことに思い至った。

 トランスジェンダーとかマイノリティとか、そんなことで悩んでいる人たちがいささかうらやましい。いずれにしたって愛し、愛される希望を持ち続けているのだから。あらゆる困難や障害は愛を盛り上げてくれさえする。

 だが、叶わない恋だってある。そのことに性別や多少は関係ない。この先、一生、おれはだれのことも愛せない。愛する資格もない。愛してはならない。そんな人間だ。



4-2

「泣いているの?」

 カラオケをする時、歌詞を意識して唄うことがあるだろうか。おれは十八番の一つである、supercell (歌:nagi)の「君の知らない物語」という曲で「泣かないで」という文句がある。その部分に限らず、唄っている最中に涙ぐんでしまうことがあった。そうした怪奇現象が最近では、めっきりなくなっていた。この日は女が隣に座っていることで、なぜかとても悲しい気持ちを呼び起こした。

「君の知らない物語」は、突然星を見に行こうと言い出した少年に片想いする少女の初恋の思い出を唄っている。内容から推察するに、言えずじまいで終えてしまった片想いを綴っているみたいだ。演奏中、「化物語」のアニメ映像が流れていた。

 その曲はカラオケでも定番と言われるくらいの名曲で、おれ以外にも、他の客が唄っているのが聴こえてくる時がある。おれの感覚では、男声でも唄えるキー(調)の曲なので、歌が上手でない人でも、男女に関わらずそれなりに唄えてしまえたりする。決めのフレーズである「(夜空は……)星が降るようで」がきれいに響くと、どや顔をしてもいい。

 歌唱中の顔芸を欠かさない性分ではあるが、泣いてしまうとは不甲斐なかった。そして、わずかな点差で高得点を逃す。この曲では90点より低い点数を出してはならないという個人的なこだわりがある(それでも甘め)。音程の正確率は86~88以上を目安とする。

「みっともない点数だ。きっと、ろくに唄えていなかったに違いない。もう一回やる」

 自分で唄っていて、どの程度できて、できなかったのかは解る。そういう時は2回目以降の方が確実に高い点数を取る。採点の、音程を示すグラフには85%と出ていて、多少できが悪くても音痴という程ではなかった。単純に、音感の働きが未熟なのだ。

 電子目録の操作を遮るように、小脇から女の手が伸びてきた。

「他の曲を唄っているのが聴きたいです」

 さっきから聴いてばかりで唄おうとしない彼女は、決しておれの歌声を評価しようともしなかった。おれ自身も評価されるほどの歌唱力とは思っていなかったから無理はないと納得していた。聞き手が居てもしっかり唄えることに自信を持ったおれは、いささか踏み込んだ選曲をする。

 L'Arc~en~Cielの「finale」という曲だった。テンポがゆっくりしていて、ささやきの連鎖からなだらかな高音が続く、子守唄のようだった。何かの映画の主題歌で、おれはそれを観ているはずだったが、いつの事だったか覚えていない。


4-3

 おれがその曲を唄い終える頃には、木村は目を閉じて、ソファーに腰掛けてじっとしていた。自分の声を録音して、後で聞き返してみると、おれもそうやって寝てしまうことがある。

 脚を伸ばして少し休憩する。部屋の照明は依然、消えたままであり、画面の光がテーブルを照らしてくる。カラオケボックスの個室の扉に小窓がついているのは防犯上の都合があると見聞きしたことがある。こういった個室では、そういう系統の犯罪が起こりやすく、現在でも行われているような気がする。特に、幼い恋愛観しか持っていない男女なら簡単に間違いを犯してしまいそうに思う。

 どんなに長い口付けも、命を懸けた抱擁も、運命的な交わりも、回数を重ねたらなんてことない日常に溶けていく。物事を知らないうちは、互いが一対となって経験するあらゆる行為も、特別で幸福な出来事のように感じる。しかし、人間は飽きを知る生き物だ。保証された安定を優先する割には、変化を欲して違いを楽しむ。男女が別れる理由として挙がる「性格の不一致」とは、最初から一致するわけがないものに対して、不一致と言っているのだ。じつに愚かしい。

 互いの限界を決めるのは性格じゃない。幸せという観念を高く見据えている強欲な人間たちの譲れない闘争心のためだ。相手を知らないがゆえに燃えて、相手を知りすぎたがゆえに燃え尽きる。嫌なところばかりが目につくようで、既知の好きだったところで満足しきれなくなる。その結果、別れる。与えられた愛に不満を持ち、次を探してもまた足りなくなる。やがて繰り返す。どんな愛に対しても嫌、嫌ばかりで一向に満足しない。妥協できないからその上を探して余計に泥沼にはまる。そうしている間に年齢を重ね、まともな恋愛ができないくらい、人として狡猾になり磨耗していく。そういう醜さを、人は持っている。遠慮できない、引き際を知らない、依存症のような渇望に囚われて。

 おれは愛を綱引きだと思っている。どちらかがより多くを求めようと強い力で引っ張れば、もう一方は引きずられ敵わなくなる。力の均衡を推し量り、相手に多くを求めすぎなければ、綱を引き合って、終わらなかった関係だってあったはずだ。そこが調節できないから、性格の不一致などという言葉に落ち着く。

 それを悟っているおれは愛というものがいかに頼りなく、壊れやすいものかを理解している。どちらかが多くを求めようとすれば、簡単に潰える。与えられる愛の量には限りがある。おれの所有していた愛は、もう人を満足させられるほどの潤沢さを保っていない。


4-4

 おれが電子目録を操作して次の選曲を考えていると、突如としてシャツのすそに力が加わって、驚かされた。思わず、反射的な動きで隣を向く。木村が細めを開けて、「あたし、眠っちゃっていたみたい」と独り言をつぶやいた。取り繕った態度ではなく、ごく自然な声の音に、癖のないまっさらな少女の面影を見た。

 だれもがそうした純真な年頃を経て、大人になっていく。年長者は年下から無条件に畏怖される特権が与えられるが、そのじつ年齢だけを重ねた小人物と、しっかりと人生を噛み締めて生きてきた大人物では、追い越せないほどの差がついている。マラソンで言えば、周回遅れどころか大会の開催の日取りを根こそぎ逃して寝過ごしている走者と、立ち止まることなく「明日」へ走り続ける走者くらいの差がそこにある。

「あなたは、ぼくが無防備にしていても、なにもしてこないんですね。かすりもしない」

 まじまじとこちらを見つめている。その視線を目で追い掛けると、暗がりでもらんらんと光っている眼差しがきれいに瞬く。

「きみに魅力がないというわけではない。おれが女を過大評価しないだけだ。きみは年頃としては、十分に男性を惑わす魔力を秘めているよ。これからが楽しい年頃だ」

「老けたことを言いますね。二十代じゃないみたい」

 おれはおれをすでに、二十代の若僧だとは思っていない。精神的には三十代の最初辺りの心境だ。それでも足りていないところは多いし、まだまだ人生経験が必要な部分は目立つ。二六才。学校の新人教師だって、最初に受け持った年度の生徒たちを卒業に導くくらいになっている。人にものを教えるのは、おれの得意分野だが、全体の奉仕者足る公務員になるには寄り道をしすぎてしまった。勉学の知識は簡単に備わったとて、生徒たちから信頼される人格は、高校生の時にもう残らず失ってしまった。先輩、後輩、先生方から学ぶべきことを欠いて、一人きりの享楽に没入した。時間も、友も、自分の存在意義もなげうって。最高に下らないteen-agerであり、死んでいたも同然のimmatureを野放しにした思春期である。

「きみはおれに何を期待しているんだ。おれが男で、きみが女。個室に身を寄せ合えば何か起こると思ったのか」

 木村は「ふっ」と鼻を鳴らし、右側を左側の上に乗せて脚を組んだ。両手を首の後ろの方で絡めて、深々とソファに背中を預ける。挑戦的な体勢が胴体の輪郭を主張してきて、いかにも抱き心地の良さそうな腹部が、わずかに天井を向く。

「何かって、何ですか。具体的に言ってくれないと、分かりません」

 口許を緩めつつ顔をあまり動かさずに、目の端の瞳だけで、こちらを見下ろすような視線を送ってくる。


4-5

「それは性交渉だったり、性暴力だったり、きみの受け取り方によっては意味合いが大きく違ってくるだろう。そうなった時、男性の方が絶対的な悪にされるものなんだよ。被害者女性にはまったく落ち度がなかった。防犯意識をとがめるのは外道だとかなんとか」

「性暴力って話題になると、なんだかわくわくしないですか? この人、何されたんだろうって。そういう下品な興味って、みんなどこかで持っているはずなのに、正義漢ぶって犯罪者をののしって、自分自身の下衆さを上手にごまかしていますよね。あなたもそういうことありませんか」

 ソファーに浅く腰かけて反っていた背中をまっすぐに戻して、顔ごとおれの方を向く。笑い話でもするような表情で、悪魔の笑みとでも形容すれば丁度いいか。

「女としての不幸は、同じ女が同情してやるべきじゃないのか。それに楽しい話題じゃないだろう。明日は我が身、とも言うぞ。他人事ではない」

「ぼくは女が嫌いですし。それよりあなたが、性暴力を受けた女性をどう思うのかが聞きたいです。哀れむべき対象ですか? それとも、興味深い話題の登場人物ですか?」

 どういうわけか、この女はおれの考え方にこだわる。おれがどう思おうとも、それが正解じゃないことくらい少し考えれば解ることなのに。おれは極力、普通の人が考え付かない着眼点を探して、物事を解剖する。

 性暴力に当たっては、被害者が女性であり加害者が男性である仮定で論述を開始する。これにいちいち文句を付けられたら、性犯罪の発生傾向の大半を占める、男性から女性への加害(男性→女性)という状況に先立たなくなるから、ご遠慮願おう。

 同性愛者の性暴力(男性→男性、女性→女性)については、同性愛者たちだけで議論して、どうにかすればいい。異性愛者のおれにはほとんど関係がない。また、異性愛者が大半を占める社会において、同性愛者を基準にした議論を持ち込むことは親切ではない。

 とかく、性暴力においては時間と場所、場合(TPO)によって、発生予測を立てられる。たとえば時間で挙げるなら、通行人の多い昼よりは、人が少なくてかつ見通しが制限される夜間の方が発生しやすい。場所なら、開けた場所より密閉もしくは密集した、乗り物や室内で起こりやすい。時間や場所を問わず、女性が「孤立している」場合に性暴力は起こりやすい。これを防ぐ手段は、場所と時間を常に意識し、なるべく一人にならないことを徹底することに尽きる。だが、一人暮らしをしている女性にとって、そうした防犯行動を実践するのは容易ではない。そうなると、女性は一人暮らしをするべきではない、という考えに至る。

「男性を深く理解していなかった、と同時に、男性を深く理解させられた女性だと思っている。男性がいかに性に積極的な特徴を持っているのかを知らされた、女性だと」


4-6

「ふふっ、確かにその通りです。男性から、知らなかったことを教わったというのは嘘じゃないですからね。でも、それだけではなんだか足りない気がします。続きがありますよね?」

 性暴力が行われた時に、被害者の立場になって考えられることは二つある。暴行してきた相手を憎むのか、暴行された自分自身を憎むのか。

「性暴力の被害を受けた女性には、加害者の卑劣さを憎む女性と、被害者である自分の不甲斐なさを憎む女性の二通りが考えられる。だが、きっと大半は加害者を憎んだ末、男性嫌悪に陥る女性が一般的であると推察する」

 この二者択一は、自己肯定感の度合いにより選択される。たとえば、自分が汚されることで何かを失う値打ちがあったと自己評価している女性は、ためらいなく加害者の男性に憎悪を向ける。しかし、自分の価値に見切りをつけている女性に限っては、加害者への嫌悪もあるかもしれないが、自分自身への責めをより強く意識してしまい、ますます自分を嫌いになっていく。

「両者の違いは、性暴力の経験において、何を問題視しているのか。性的欲求に負けた加害者か。性的欲求を受けた自分自身か。ここが特に重要で、自分を責める女性は潜在能力において、加害者を憎んだ女性よりも高いものを有していると考える。まあ、加害者を憎むことは正しい防衛本能だし、自分を責めるなんて普通だったら有り得ない。絶対にしない」

「そうですね」

 木村は先ほどまでの軽薄さが嘘だったみたいに、淡々とした口調で返事をした。おれの言ったことのどこかに、気に障ったのか。途端に、おれは話すのをちゅうちょして口を閉ざす。

「ぼくには分かりますよ。男の人が性的欲求に苦しむ姿を見てきたから」

 真摯で、厳かな言葉だった。まるで、男性を一通り知った後のような口振りだったから、目の前の小娘が相当に男遊びを極めた、嫌な女なのではないかと邪推が頭をよぎった。そうだったとしても、おれは幻滅しないし、この女の個性だと納得しさえする。

「あれ。軽蔑しないんですか」

「軽蔑してどうなる。おれとの『これ』も所詮はその一環なのだろう。男は愚かで弱い人間だ。そこに偽りはない。そして、性的欲求にひれ伏した男性の苦悩を理解できる女性は居ない。被害者は加害者を憎むのが正しい。加害者はいつだって自分本意で、思いやりの欠けたクズだ」

「自分のことを、そう責めなくてもいいじゃないですか」

 おれはすっかり感情的になって、立ち上がっていた。とても唄えるような気分じゃない。木村に背を向けて、窓付きの扉を見つめる。カラオケボックスという孤島は、おれにとって流刑地だ。だれにも許されることなく、だれにも知られることなく、過去の自分を上書きする。

 強がったシャウトでいくら塗り重ねても、自分がクズだという真実は消えてくれない。

5,しょうじょ

5-1

 幼少期の木村は普通じゃない女の子だったそうだ。

 まず、両親が早くに離婚したせいで、男女の愛の在り方に一つの悟りの域に達していたという。そこはおれとよく似ている。愛の所在を疑い、とことんまで真実の形を探そうと試みたところまで、そっくりと。

 彼女の母はシングルマザー、いわゆるシンママという立場をとことんまで利用し尽くしたらしい。親権の優先される母親とはいえ、娘を引き取ることに最初は消極的な態度で、育児放棄ぎみなことも多かったとも。しかし、片親の世帯は、助成金や手当てをもらう権利があることを知ってから如実に生活態度は変化していったという。

 その事を受けて、木村は小学校で酷いいじめに遭う。母子家庭の子供というだけで、ズルをしているとか余計なお金を受け取っているとか、合っているのかどうか定かではない言い掛かりを付けられていたのだ。木村のどこか悪役ぶった態度の根幹は、自身が受けた数々のいじめに起因している。だが、それも長くは続かなかった。

 女子は一足先に体の発育が始まる、小学校高学年から中学校に進むまでの間に、木村は異性を仲間にするという魔性を獲得したという。その具体的な内容はここでは詳しく記述できないが、お察しの通り、男子を上手に操るなんらかの策を講じたのだ。それが効果を発揮すると、単なる女好きの男子のみならず、熱狂的な信者を獲得するに至り、クラスの男子のほとんどは木村の味方をするようになったのだという。ここまできたら、何かの台本のようにも思えるが、良くも悪くも抜け目がなくて、ずる賢いところは実母から遺伝していたようだ。

 中学時代の木村は男性によくモテたという。外見は一般的な女子とさほど隔たりがあるわけではなく、違いがあるとすれば、男性の特質をよく理解しているという不思議な魅力を、全身から放っていることだった。

 一例を挙げると、高い所にある物を取ってもらったり重い物を代わりに運んでもらったりした後に、とびきりの笑顔で労をねぎらう(体を何気なく触れると更に効果的なのだと。がっつりと触れたらダメなのだとも)。男子からすれば、頼りにされて感謝もされて(スキンシップもされて)、決して悪い気はしない。女子のためだからこそ男子は喜んで仕事をこなすし、互いが得をするという利害関係が成立する。

 しかし、高校に進学すると新たな問題が発生した。高校デビューをしたがる、十五才の若人たちは異性交際に興味を示すものだ。校則でそれを禁止している学校もあるが、決まりなど未熟な若者たちにとっては確固たる拘束力にはならない。木村は「本気」の男子たちに付きまとわれることが増えて、困っていたという。高校生の本気なんてどのくらいのものか程度は知れるが、性に関心を持ち始める分、面倒事も多い。


5-2

 女子高生の木村は偽彼氏を設定することで、付きまとってくる男子を上手くたしなめることに成功した。その一方で、偽彼氏をしていた男子が、木村に惚れ込んでしまうこともしばしばあったそうな。この時、男性を適度にしつけるのも課題だと気が付いた、と話していた。その男子から見たら酷い女ではあるが、すごく合理的で無駄がない。

 しつけというのは、週に一度は必ずデートをし、恋人らしい接触もする、と。手を繋いだり抱き合ったり、軽い口付けをしたり。それ以上は決して許さなかったという。リスク管理の徹底は抜かりなかったようだ。

 もしも、口付けより先の行為をしようものなら、告発すると脅しをかけたらしい。それもすぐにではなく、将来的に相手が社会人として生活する時になってから、学生時代の汚点が人知れず広まっていく様を、語って聞かせたのだと。末恐ろしい。それだけの不安を与えてもなお性暴力を完全に抑止できるわけがないと踏んでか、さらに彼女は偽彼氏とのデートの際、彼とは出身校が違う(と調べの着いた)、確実に接点のない男子に監視と、万が一の起こった時の証拠の確保を依頼していたという。相応の見返りを与えると提案すれば、女子の体に詳しくなかった男子は二つ返事で依頼に応じてくれたそうだ。

 高校を卒業すると、木村はしばらく実家暮らしをしながらも、高校時代から続けていたアルバイトで生計を立てていたのだという。親子仲が悪いせいか、十六才の頃にはもう母親には頼らず、生活費を工面するという苦労を被っている。どちらにせよ娘が独立することで、助成金や手当てがもらえなくなるから、木村のことは家から追い出そうと考えていたようである。

 木村の母は、とにかく男にモテる妖艶な女性らしく、逆恨みされないように入念な下準備を凝らした上で貢がせていたという話だ。この親にして、この子なんとやらだ。

 性別も使い方次第で恐ろしい武器になる。ここまで使いこなせている人は、そんなに居ないのではないか。生活が困窮したり身の危険が迫ったりすれば、なりふり構っていられなくなる。そうした時に活用できるのが、自分の持っている強みというわけだ。それがたまたま、男性を操る技術だったわけで、他の女子ができたかどうかは分からないが、木村にはその素質があった。

 こうした経緯があってか、木村は男をぎりぎりまで引き寄せ、利用して、不要になったら切り捨てる、残酷な仕打ちを繰り返してきたのだと、おれに語って聞かせた。



6.こしつ3 -リサ-

6-1

 時間を残しつつも、途中で退室しようとしたおれを食い止めるように、自身の青春時代をしゃべった木村なのだった。それは最初から最後まで、でたらめの誇張かもしれないが、おれは疑おうとはしなかった。

 それよりも気になったのが、木村の話した過去がすべて嘘だったら、彼女の人間性がそこまで卑劣ではないことになるし、そこであえて自分の人間性が不利に見られるであろう事実をおれに聞かせる理由についてである。

「きみが男を巧みに操っていたことがおれに何の関係がある? 大体、おれをカラオケに誘った真意が見えてこない。こだわらなければ、他の男でもよかったとさえ思える」

 彼女はソファから背を離し、ゆっくりと立ち上がって、こちらに歩み寄ってくる。女の昔話を聞く間、まとめた荷物が入ったショルダーバッグを肩に掛けて、座らずに落ち着きなくしていた。木村は、客と店員という以上の、目立った面識のないおれを誘うくらいの度胸はあったが、話で聞いていたよりも積極的ではなく、自分からこちらに何か大胆な接触は「避けている」ようだった。

「あなたが適格者かどうかを見定めたかったから。もう、ほとんど確信していたんです。あなたは決して女性を、自分の欲求を満たすためだけの存在とは捉えていないと」

 女とは、得てして男を慰める役割を任される。それだけの素質と技量が備わっているし、同じ男ではとても再現できない美が凝縮している。いかに、女性らしさを武器にした、男性らしさを欠如した、珍しくて特別で稀少な人が居たとしても、女性らしさの究極を目指す本物の女性には絶対に敵わない。その根幹には、女性らしさを体現するのは精神のみならず、肉体的な美学も寄与しているのだと行き着く。その肉体的な美学とは、ほとんどの男性が性的欲求を催し、正気を失うほどの、天性の力であり、女性が自覚せずとも備えている特長なのである。

 その力を活かした職業をいくつか知っているし、そうした選択をするのも美学を備えた女性だからだと納得するし、引き寄せられた男性たちもまた、彼女たちの持つ力を確かに肯定している。

 男性が欲求を解放するのは、女性にそれだけの絶対的な力を有していると認めているからだ。認めてはいるが、高く評価しているわけじゃない。すべての男性が簡単に認識できてしまう肉体的な美学だけしか見れないのなら、女性の特質をまったく理解していないのと同じだ。

「おれにとって、女はファム・ファタール(※)であり、決しておれごときが所有し、使役できる類いの存在じゃない。だが、小僧だったおれはそれを理解していなかった」
※Femme fatale(フランス語)=運命の女。また、男を破滅に導く魔性を秘めた女。


6-2

「それです。ぼくはあなたにお願いがあって、ここに誘ったのでした。でも、他の男の人ではとても信用できない。途中で、変な気を起こしてしまうおそれがあったから。あなたなら、ぼくを『ただの女』とは見ない」

 木村は癖の強い、間違いなく普通じゃない女である。男勝りであるとか、精神的な欠点を抱えるとか、そうした探そうとすれば苦もなく見付かるような、ありふれた特異性ではない。この者には、この者にしか有していない、それでいて性同一性や精神疾患という耳馴染んだ分類にも該当しない、一見して普通と見分けが付かない、特殊な魔力があるのをおれは感じ取っていた。

 それを一言で表すと、おれと同質な事情を抱えているがゆえに、おれだけが察知できる、共通の絆。

 木村は他の凡百の男たちが見たら、いい具合の、食べ頃な女に過ぎない。しかし、彼女が告白した生い立ちからして、実在のファム・ファタールなのである。かつて、木村に利用された男たちなら、おれと同じ価値観を獲得したか、あるいは男性に性暴力を受けた女性のような心境になったことだろう。

「きみは確かに、ただ者じゃない。それも、自分から普遍性を捨てようとする不自然な気負いもない。かつて、おれが心を寄せていた女と酷似していると言っていい。いや、おれを見放したあの女とも違う。おれはきみを知らなかったが、きみはおれを知っている。どこかで、会っているのか」

「このお店で、会っているじゃありませんか。カウンター越しに、何度も、何度も」

「そうだとしても、店員がおれの何を解るというのか。趣味カラオケを謳う、うぬぼれた音痴とさほど違いはあるまい」

 おれがどれだけカラオケに通っていても、流刑は終わらない。たとえ、あの時、あの女と会っていなかったとしても、おれは会社員を続けながら違う方法で歌唱力を上げる努力をしていたはずだ。それが音楽家としてのおれを作ったかもしれないし、この時空と地続きのおれとは作風も変わっていたことだろう。

「ぼくはあなたを熱心なカラオケマニアだとは思っていませんよ。どちらかというと、何気なく自傷行為をやめられずに繰り返している人を連想しました。勘違いしないでください。あなたは自傷行為をしていないだろうし、ぼくもしていませんので」

「判っている。きみは、おれが独自の事情を持っていると推し量って、ここに誘った。だが、そんなもの、珍しいことじゃない」

「珍しいです。ぼくを女として意識しているにも関わらず、女としての見返りを引き出させようとしないのですから」

 この場合における見返りとは、女だけが有している、男を惑わす無自覚な力のことだろう。つまり、それを引き出させるというのは、男としての欲求を満たさせようとする行為(=性暴力)そのものを指す。この小娘も相当に言葉遣いがややこしい。言語を繰るより、行動で示す方が伝わりやすいのはお互い、似た者同士か。


6-3

 おれは自分で自分のことを他の人とは「違う」と思うことはよくあるが、「珍しい」とは感じない。違うことは主観によって判断され、珍しいことは客観で判断されるため、「違う=珍しい」とはならない。アルバイトの面接において、履歴書の職歴がびっしりと書かれていることについて、退職理由を聞かれる。これは普通の人たちとの「違い」であれど、「珍しさ」ではない。他にも同じような境遇のやつは居るだろうし、数は少なくとも良い評価はできない。

 珍しいものには価値が与えられる。だが、違うだけのものには価値が与えられない。

 珍しさとは、自分にしかできない経験をした事があるだとか、もう二度と居合わせることのない場面に立ち合った事があるだとか、そういう客観的な特別なのである。

 トランスジェンダーの例で挙げるなら、生まれつき自分の性別が精神と一致していなかった場合、珍しい生い立ちと評価できる。その一方で、日常生活の中で環境や人物、様々な外的要因に触れてから、性自認を変更したという生い立ちは珍しさとは思わない。違いとは認められる。

 珍しさとは、自分の意志でどうにかできる範囲を超えていて、運命的な事柄について形容すべき単語だ。絶滅危惧種が珍しい生き物として扱われるのも、その生き物たちが辿るであろう宿命のためにほかならない。すなわち、それは何かに意図されたかどうかに依らず、運命がもたらした珍しさである。

 おれの退職理由に始まり、自分から常識を逸脱しようと意図された違いは、珍しいとは言えないわけで、髪の色を染めようと、タトゥーを入れていようと、ピアスで体にどれだけ穴を空けようと、それらは違いとしての個性とは言えるが、珍しさでもなんでもない。おれが地毛の黒髪で、肉体的な装飾にこだわらない理由は、外見的な特徴の改変が、作為的な道具や手段で果たされたところで、魅力を感じていないからだ。

 頭を染めるだけでおしまい。穴を空けただけでおしまい。彫っただけでおしまい。そんなものよりも、不慮の事故で顔を失った人の方が余程気高いし、大きな怪我で手足を失っても懸命に生きている人の方が尊敬できる。identityとは、自分で好き勝手できてしまうところにはなくて、自分でどうにもならないこと、その結果として心身に作用してこその「違い」なのだとおれは認めている。だから、単に粋がっているだけの容姿や、奇をてらっただけの見かけ倒しには心が動かない。

 自己表現にこだわる自由はある。それが他人を見下せるほどの違いではない。有名な画家や音楽家、芸術家が尊ばれるのは、その人たちの作品が特別にすごいわけではない。その作品を高く評価した人々が、そういう判断を下したからだ。その証拠に、絵画は取り引きのための商売の道具となるし、大衆音楽は常に新しさを求めて新人発掘に余念がない。評価をする者たちが見ているのは、あくまで利用価値であり、究極的な芸術の追究とは言い難い。


6-4

 真の芸術は自分の納得のいく作品を完成させることがねらいなのであり、それが金になるかどうか、社会的な評価を与えられるかどうか、は副次的な目的だ。主目的はいつだって自己の発露であり、だれに認識されなかったとしても、思うがままの作品を制作すればその時点でだれもが芸術家である。

 おれはどこにだって居る凡庸な自己表現者であれど、木村の言うような珍しさにはとても似つかわしくなかった。わざわざ危険を冒してまで女に手を出そうとは思わないが、空腹や睡眠欲が起こるように、生理的欲求の一つである性欲も時々は現れる。そして、それを自分で処理する。だれとも一つになれずに年老いていく、変えがたい現実を噛み締めながら。

「おれを買い被るな。一見違っているように見えて、所詮は同じようなものだ。主観さえ除けば、違わない。おれも、他の男たちも」

 立ち話をしていた二人はしばしの沈黙を共有し、一歩も動かなかった。それから絶妙な秒数が過ぎて、おれを見据えたままの木村はようやく名前を名乗った。

「ぼくは木村と言います」

「それは知っている。ここの店員だからな」

 従業員が名札を付けることは、個人情報の一部を明かすというリスクが潜んでいる。そのため、過去に利用したカラオケボックスでは、店員が名札をしないようにしている店もあった。もう、接客の不満をいちいち指摘するほどの青二才ではないおれにとって、そんなことは大したことではない。

 それよりも、常連客のおれが知っている情報をわざわざおれに開示したねらいは他にある。彼女の悪そうな視線には「名乗られる前に名乗ってやった」という優越を含んでいて、おれは仕方なくその策謀の通り、自分の姓名を教える。

「井上だ」

 おれは自分の名前を、自分を示す語としては不釣り合いで、これじゃない、という気持ち悪さがあった。性自認を異にする人々が自己の性に抱くであろう違和感があるとしたら、それと似ているのではないかとぼんやり想像する。これを確かめる手段は、おそらくおれにも、その人たちにもないだろうから、聞き流しておいてくれ。

「井上……」

「裕(ゆたか)だ」

 名乗らずとも、木村はカラオケ店員という立場上、利用者のおれの、氏名を知っていて、あえてその呼称をこれまで一つも使わなかった。このお店を利用するための会員証の作成に係る手続きを行ったのは、この木村なのだ。しかし、そこで知り得た情報を私的に利用することは店員としての地位を脅かしかねない。

 木村が名を名乗った動機はきっとこうだ。

 おれたちが客と店員ではなく、一人一人の人間として関わろうという決意の表明をするため。

「ぼくは木村利他です。リサって呼んでもいいですよ。あなたはそう呼ばないと思いますけど」



7,のべる

7-1

「この小説、なかなかおもしろいですね」

 おれのバイトが休みの日に決まって、おれの借りている部屋にやって来ては作者の目の前でサイトの小説を読むのが、木村のやり口だった。

 カラオケボックスでの接触を経て、経済的に苦しいから近々ルームシェアをしたい、と言い出し、底無しの信頼をおれに寄せた。まだ契約期間が残っているため退去はしていないと彼女は話す。

 木村が見ている最中の小説投稿サイトでおれが自分の名前として使っている「リスカ塔」という名前は、高校に在学している時から使っている。ガラケー(折り畳み式の携帯電話)の時代から小説擬きは書いていた。当時は、国語の科目に秀でている割に、文章力についてはかなり劣悪だった。リスカ塔がこの井上裕だと知っているのは、保育園からの親友だった男と、かつておれが思いを寄せていた少女だけだった。

「ひとつのことをここまで考え込んで書かれているのに、だれも読まないんですね」

 木村はおれが書いた短編小説の「ワレ、ステル」を読んでいた。自分にとって不要な物を捨てていくための、気構えを整えるために制作した、人殺しと盲人の話。これは二〇二〇年七月に書かれた、後の短編にも繋がる一作目である。この十一月には、関連する短編の最終作である五作目「皆、囚われの枝葉」を制作している。

「その文章は読者の欲するところじゃないんだろうよ。おれの思想は、娯楽にしては華がない。実直であれども地味なんだ。敵を派手に倒すでもないし、現実離れした充足や爽快感とも無縁だ」

 おれの作風は問題提起と自己完結がひとまとまりになった、少々堅苦しい内容に偏っていた。読書に物語を重んじている一般的な層には、とても読めたものじゃない代物だった。作者としては、手を抜かずに死ぬ気で書いているし、これ以上にない実直さが詰まっている。だが、現実はそんな死ぬ気も実直さも無価値だと下す。おれもその通りだと思うし、リスカ塔が世間に早くから受け入れられていたら、こんな難しい作風じゃなかっただろう。読者の目の付け所がどうであれ、おれはおれに素直な小説を書く。それが一向に売れなくても、おれはおれの信じる作品のために制作する。それがどう評価されても、おれは自分を表現し続ける。

「ぼくは好きですよ。こういう、孤高に考えてます、っていう独りよがり。差し迫った焦りみたいなものが思い浮かびます」

 木村はとことん変わっている。万人が理解できないおれの文学を正面から受け止めてくれる。いや、理解できないのではない。理解しようとしないのである。過酷でつらい現実と向き合うのを避けているから、それを嫌でも考えさせられるおれの文学は、おれと同じように嫌われる傾向にあるから。


7-2

 おれが小説を書き始めた動機は、高校生の時に、無二の親友がケータイ小説を書いていることを教えてくれたことからだった。学生時代を謳歌するはちゃめちゃな、彼の小説は一時期を境にめっきり更新されなくなってしまい、それが普通の事だと、おれもなんとなく思っていた。小説なんて書いていても楽しくないし、だれかが褒めてくれるわけでもない。書き続けるには余程の理由が要るし、そうでなければ書く必要もないものである。

 当時のおれは「魔法のiらんど」を使って、学園モノを題材にあれこれ書いていた。しかも、重要人物を必要以上に殺したがる傾向にあり、鬱な展開を常に求めていた。リスカ塔という、怪しい名前に相応しい作風だった。その名残は二十代半ばになっても健在だ。おれの書く小説では、身近なだれかが確実に死ぬ。

「目が見えない人が出産するって、ある意味で最大の社会貢献ですよね。子供は自分以上の潜在能力を持って産まれるのがほぼ確実なのですから」

 作中のカナの事か。彼女は自分の意志で生きようとした。ただそれだけだった。もしも、生き続けていたら閉経するまで子供を産み続けたのではないかと個人的には思う。それが彼女の、他の健常者に劣らない能力だったから。

「盲目は、おれにとって一つの結論に近かった。多くを望まなければ、目が見えなくても幸せは充分にある。だが、人は当たり前なことに幸せなんか感じない。今さら目が見えることを特別とも感じないし、それでも多くを欲しがるから不満を持つ」

「折り合い、ですね。頭の悪い人はそれにも気付かないで生きる。だから、害されたら害さないと不安になって、つまらないことで怒ったり争ったりする。足るを知らないから、過食ぎみにもなるでしょう。ふふふ」

 現状に不満を持たなければ、常に幸せを感じられる。それはおれが生きていて、たどり着いた、無欲の極致である。幸せになろうとするから幸せを感じにくくなる。ならずとも、すでに幸せだ。そう自覚することが、最も手早く幸せになれる。そこでようやく「わび・さび」を意識する。

 自分より重い病気や過酷な障害を背負って生きている人が居たとする。大半の人はその人より恵まれているのは間違いない。それでも、幸せの基準は自分の状態に依存するから、他者にとって恵まれていようとも、それより多くを求める。

「人間は際限なく欲望を抱く。だから、文明は栄えたし、競争によって成長してこられた。不満を持たなくなったら進化できない。不満が人を動かし、向上させる。だが、何もしようとしないのなら、いくら不満を抱いても無駄だ。行動だけが幸せを手繰り寄せる」


7-3

「じゃあ、ぼくがユタカさんをカラオケに誘ったのは大正解でしたね。この通り、距離も縮まったのですから」

 彼女がおれに近付いたのは、恋愛とか友好とか、そういう可愛げある善良な理由からではない。単に自分の利益を追求する上で、おれは必要な駒だったからにすぎない。その割り切った考えは感情というより理性の致す行いであり、あながち愚行とも言えない。

「他に、もっと経済力のある輩が居ただろうに。飛んだ物好きだ」

「金持ちは嫌です。ぼくが金でなんでも思い通りになるやつだと思われると気分が悪い。お金は大好きですけど、よく分かっていない人に尻軽って見下されるのが嫌なんです」

 最後に物を言うのはいつだって金だ。示談でも裁判でも取引でも力を持つのは財力であり、これを欠いたら満足に闘えない。実際、どんなきれいごとを並べるよりも、札束の方が人を簡単に動かしてくれる。女を意のままに使役するにも莫大な金があれば、不可能ではなかろう。パパ活というものが、それを端的に表してくれている。そんなことしないでまじめに結婚相手を探せばいいのにとは思うが、結婚生活において女は男に見下されるのを嫌う傾向にあるようだ。おれの親がそうだったし、非効率的でくだらない価値観だ。自尊心を捨てて、献身的に男に気に入られていれば楽はできるのに。

 木村もまた独立心の強い、幸薄い女の一人なのだろう。

「それに、ユタカさんはぼくと似ている分、当てにできそうです」

 性格や人格は全然似ていないが、物の捉え方は通じるところはあるかもしれない。だが、おれはこの女ほど狡猾である自信がないし、他人を操れるほど強かではない。あとは、自尊心が強いところはよく似ている。

「当てにされても。おれは低所得者だし。人選ミスとしか思えん」

 たとえ、木村がおれを見限ってどこかに姿を消したとしても、どうとも思わない。出会いがあれば別れもあるように、今さらそれに抗おうとは思わない。男女の関係に永遠を求めるのは幼い考えだ。そんなものを信じていても長く続かない。最も長続きするのは、互いにとって均一な利益が保証された関係だ。男女構わず共働きするこの時代に、どちらかが欠けても成り立たない関係性を築くのはとても難しい。最悪、片方だけでも生活はできてしまうのだから。

「貧乏には慣れてますので。もうじき、ぼくと一緒に暮らせるんですよ? ちょっとは喜んでください」

 喜ぶほどのことじゃない。たぶん、嘆くことでもないが。



8,どうきょ

8-1

 ドラマや漫画かなにかで時々取り扱われる「ルームシェア」という生活様式があるのは、情報化社会において知らぬ者の方が少ない。そんな、だれもが小耳に挟んだことのあるだろう同居の、特別な関係にある男女のする同棲との違いは、親密でない人が同じ環境で生活をすることである。

 それは、仕事も住居も立ち行かなくなった経験のある者なら一度は決行する、役場辺りで生活保護受給を相談する際に、必ず聞かされる無料低額宿泊所という場所の生活様式とやや似ている。あそこは、社会貢献も満足にできないなんらかの事情を抱えているいわくつきの者たちが、もらった生活保護のお金を管理者にいくらか支払うことで、住環境や食事の提供を受けられる、貧困ビジネスの代表的な場所である。そう遠くない過去に、そこへ入ることと求職を続けることの二点を条件として、おれも生活保護の受給を考えたことがある。

 しかし、結局のところ財産の保有を否定され、数少ない所有物を同類に盗難される危険を被ってでも、他者の納めた税金と貧困ビジネスに生かしてもらおうという恥知らずにはなりきれなかった。腐っても二十代であり、腐っても労働者であり、腐っても真っ当な国民足る自覚を持って、おれは生きてきた。これからも社会貢献を旨に、自分の事情は二の次にして、この生活にぶら下がり続ける。

 ともあれ、男であれば寝込みを襲われたり性的な被害に遭う可能性は、女性に比べて限りなく低いのが有利に働き、ホームレス生活も無料低額宿泊所も、考え方次第では可能である(ここで男も、男あるいは女から襲われ得ると宣うのは、女が男より性に積極的でない普遍的事実と男が女に性欲を向ける一般的価値観によってごく低確率な出来事なので、問題視しない。同性愛を主張することを社会が認めるのであれば、この限りではなくなるだろうが、おそらくそんな時代は来ない。同性愛には、こんにちまで人類史を紡いできた唯一絶対の聖域たる異性愛を脅かすほどの需要がない)。

 女の場合はそういう制限の多い生き方をしなくても済む選択肢がある。それは女にだけできる客商売というものから始まり、自分自身の体あるいは若さを売り物にする仕事だ。幸いにも、男性が性に積極的な性質を持っているがゆえに、生かされている職種の人もまあまあ居るだろう。「クソ客」だとかほざいては、そうしたpatronの有り難みに生かされている人々が。いっそ、そうした残りカス程度の自尊心を捨てた方が、本物のpatronに巡り会えて、安定した暮らし向きも手にできたのでは、とおれはしばしば思う。


8-2

 おれは彼女に、夜の仕事を勧めるのは気が引けた。

 若い女性だったら男性に性的な目で見てもらうには十分だ。外見で余程の特徴が足を引っ張らなければ、だれでも「働き口」はある。決して楽な仕事ではない。そういう仕事が楽であるはずがない。女性でも、独立したそこそこの暮らしはできる。それだけである。

 実際、興味のない男とルームシェアをしたがる女なんか居るわけない。相手が彼氏ならともかく、そうでない男と同じ建物で寝泊まりをするのだ。女の立場なら、普通は自身の体の心配をする。余程の事がない限り、男は生殖の能力を有しているため、女と同じ場所で暮らすべきではない。そこに、彼の精神が女であるとか、彼は恋愛を嫌悪しているとか、あらゆる理屈は関係ない。妊娠させられてしまう状況に、間違う確率はゼロとは言えない。

「と、いうわけなので、きみはおれの家に暮らさない方がいい」

「いいじゃないですか。ぼくを、SNSで客の悪口を書くような性悪にさせたいんですか。こう見えて、まだそっちの経験はないんですからね」

 木村の処女性なんか正直、どうでも良かった。過去に存在したものは、未来では確実に形を失う。おれが初めて片想いした女子の処女性とて、通りすがりの女で喪失したおれの処女性とて。いずれも同じこと。必ず失われ修復されない・しても無意味な概念に、こだわれというのが難しい。

 木村みたいな我の強い女が、例の客商売をしようものなら、性格に及ぼすなんらかの支障が見込まれた。男性を欲求の生き物程度にしか捉えていない魔女になってしまっても、人並みの生活ができていれば、ホームレスやその日暮らしの連中よか幸福な人生だろう。自尊心さえ剥き出さず、男性にかいがいしく尽くす女性は相当にモテる。それで客の陰口も叩かないくらいのprofessionalなら、そこらに大勢居る魔女とは一線を画する聖女である。

「だって、おれときみでは一緒に暮らす道理がない。交際しているなら話は別だが、おれにはその甲斐性がない。遊び相手はなおのこと要らない」

 よくネット上で、同居人を募集する掲示板やサイトがあるのを知っている。おれも一時期、そういう事柄に興味を示して調べたことがある。そうといっても、数時間で真実を見抜いた。

 ルームシェアを募集しているのは男性が多い。話し相手となる(話を聞いてあげるためだのと)「女性」がそばにいて欲しいとか、何気なく(気負いなく)一緒に暮らせる「女性」がいて欲しいとか、そんなのばかりが目についた。だれが暮らしたがるか。だれが話したがるか。女を所有したいだけだろう? もしかしたらを期待しているだけだろう? 甘ったれるな。女の立場になって、同居するリスクを考えられない小僧なんかに、女はなびかない。なびくとしたら、頭の働きの鈍い愚か者だ。


8-3

 その時のおれがルームシェアに興味を持った動機は、経済的な観点からだった。一人で毎月、四、五万円を家賃として支払いながら暮らしていくのにはいささか無理があった。フリーアルバイターの毎月の収入は二〇万円以下なのは確実であり、毎月二〇日以上働くのであれば、正社員としての就職を念頭に入れた方がいい。

 だが、おれがそういう低所得者から抜け出そうとしない背景には、創作活動での大成が目標にあるからだった。アルバイトで得られる収入は決して多くない。それでも、人々の心を動かす作品を世に送り出せたら、収入は増えてくれる。そう信じているから、社会的に低い立場に甘んじている。今さら大学に通うとか、国家資格を取ろうとか、そんな金も展望もない。

 フリーランスやクラウドファンディングなる収益の確保も聞き馴染みはあるが、あれらは成功者にとっての有用性ばかりが華々しく映り、社会での生存競争と何も違いはない。

 YouTuberという、動画サイトの収益で生活している者に憧れる小中学生も居るのだろうが、悪いことは言わない。やめておけ。あれらは投稿者の個性や斬新さが買われているのであって、動画サイトの主流も刻一刻と変遷の一途を辿っている。だれもがああなれるわけではない。3Dキャラに人間の声が加えられた、アニメ文化の延長のようなVtuberという者たちも現れた。それらすべては動画視聴者が期待するから成り立つ。

 おれがやっている表現もどきも、受け手に左右される点では同じである。いくら書いていても支持者が現れなければ、一向に埋もれたままの駄作で終わる。これをだれか一人でも読み続け、宣伝し、広めてくれたら、たちまち「リスカ塔」の名前は知れ渡る。そうだな。有名なYouTuberや歌い手の人たちが後押しするだけで、おれの作品は一定層の人気を勝ち取る。そんな自信はある。それくらいの覚悟で書いている。

 もっとも、おれの作品を評価するのはお勧めしない。なぜなら、おれの人格は際どい思想をしているからだ。大勢のために少数は自我を抑えて協調すべきとか、差別は人間の感性そのものであるとか、一部の人には不利益をもたらす表現が含まれている。それもこれも、多数にとっての幸福が少数の幸福よりも社会貢献に役立つし、授受される幸福の還元率も高い。つまりは、一人を殺して百人が救われる、トロッコ問題で例えられる「犠牲の肯定」であり、おれはそれを支持している。

 いや、厳密には支持「させられている」。表現活動による収入、生活が実現できない以上、おれは少数の味方をできる力も、資格も備えていない。もしも、表現者としてのおれが世間から渇望されたのならば、おれはおれを支持した少数の者たちの人柱になることさえ厭わない。全体主義に仇なす広告塔になってやろう。

 少数とは、いつだって過激派で、感情的で、批判的である。多数に対する憎しみで、自分を生かそうとしている。そのままでは所詮、淘汰されるのは時間の問題だった。


8-4

 かつて、この地球上で、だれよりも自分の個性を大事にしていた、自分勝手でダメなおれは経済的な困窮によって社会的多数を受け入れ、やがて馴染んだ。そうしなければ生きられなかった。仕事も与えられなかった。暮らす場所すらなかった。だから、おれは多数を憎まないし、少数の無力さを痛感している。

「だからこそ、ですよ。一人より二人。二人より三人。そうやって、味方を増やしていけばいいんです。ぼくで二人目です。ね?」

 おれの人生観を前にしても、木村はそう言った。

 長らく、仲間なんてものを探すのをあきらめていた。高校時代にネットで集めようとして、失敗した。一人の自分勝手な女がおれに個人的な感情を向けたせいで、真6弔花(※)みたいなチームを作るという計画は頓挫した。たとえ私的な仲間内でも、規律と規範は欠いてはならないものだった。それを否定しうる個人は、集団にとって邪魔で、害悪なのだと、おれなら判る。
※りあるろくちょうか。漫画「家庭教師ヒットマンREBORN!」に登場する六人。未来編で、敵の親玉となる白蘭が、パラレルワードでなら各分野で成功していたはずの、不遇な人物たちを集めて構成した、選ばれた六人(そのうちGHOSTは、人ではない)。

「人が増えると、統制が難しい。まして、個人の個性を尊重する時代においては。個性的なきみだって、何かに縛られるのは本意ではないだろう」

「縛られるのは、ね。でも、何に縛られるべきか、選ぶ権利くらいあるでしょ。夜の接客より、あなたと暮らすことの方がぼくには利点が大きい」

 木村の適応力の高さは、このおれをしのぐものがある。それでも決定的な間違いとしては、おれが男で、木村が女であること。性自認なんて目に見えないもの、魂という概念を説明することくらい難しくて頼りない。脳医学的に勝ち誇った見解は期待していない。だれの目から見ても明らかなのは、おれがXYで木村がXXであること。それすなわち、受精の可能性を示唆する。肉体的に健康な我らならそれができてしまう。

「しかし……」

「ぼく、あなたに守ってもらわないと、死ぬかもしれない。それでもいいの」

 彼女の声はとても冷ややかだった。いつまでも突き返す回答ばかりのおれに業を煮やし、本心が現れたようだ。この怒りとも威圧とも形容しがたい脅迫じみた物言いの根底には、木村利他が持って生まれた性質を端的に表していた。まさに、Femme fatale、破滅を招く女としての顔だった。


8-5

 木村は性交渉以外の自身への行為をおれに許す代わりに、自分を泊めるようにと提案してきた。

 女の温もりを捨て去って久しいおれに今さら、その報酬は魅力的に映らなかった。たとえ性奴隷になると言われても、おれは自分の性的欲求を他者に向けるのは忌避しただろう。相手を慮ってのことではなく、自分自身がその資格を有していないから、そうすべきでないと心に鍵をかけている。健康だから、男性らしい自慰行為はする。ふと何かを見た拍子に思い出して、時々するような、矮小な出来事。欲求は止めどない。ならば、最初から知らなければいい。忘れてしまうのが欲求に対抗する最適な方法だった。

「おれ以外のやつには頼めないことなのか」

「愚問です。……ぼくは、もう男性に信頼される資格すらないので。ネットにも、ぼくのこと、いろいろ書かれているはずですよ。もう何年も前のことですけど、調べれば出てきます」

 ためしに、手元のタブレットでブラウザアプリを開いて検索してみた。しかし、木村利他で目ぼしい検索結果は得られなかった。それを見かねた木村は「木村リサ」でどうぞ、と促した。

 白を基調にした画面上には、ひどい悪口がいくつも並んでいた。メッセージアプリのIDや電話番号、住所まで書かれているページがある。よくも削除されずに残っているものだ。いいや、あえて残しているのか。

「前払いです。今ここで、ぼくを抱き締めてみてください。最後まで燃えちゃだめです。抱くだけです。そしたら、感想を聞かせてください。抱き枕の試験をする感覚で」

 勢いに任せた急な申し出だった。発言者も頬を元の色味より濃くさせて、こちらをじっと見据えて、脚を組んだまま両手をこちらに伸ばしてくる。隣に座って話を聞いていたおれは抗った。とことんまで否定した。性欲の所在も、女と男が関わる軽率さも。それでも、このFemme fataleはおれを揺さぶるのだ。

 おれは抱き締めた。忘れかけていた、人の感触が思い出される。美化しても、どうせこんなもの。その程度に思えるくらい、柔らかくて、しっかりと詰まっていて、血の通った体であると同時に、もう二〇年以上は認められただろう存在の重たさが凝縮されていた。

「どうですか、ぼくの抱き心地は」

 軽口だが、軽口ではない。声が震えていた。おれの心臓はその声音より大きな収縮を繰り返していた。自分の心を相手の心に押し付けるように寄せると、互いの鼓動は同調するようにせわしかった。

「きみは生きているんだな」

 胸の奥でくすぶって消えはしないが、男性としての欲望を超越するくらいわけない。おれは失った。愛される資格も。将来あり得たかもしれない家庭も。そして、なりたかった理想の自分を。

 今はただ、目の前の命を感じ取って、この人もいずれ居なくなってしまうのだと、切ない思いがおれの胸を締め付けた。それはおれ自身だって同じだというのに。