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無音少女 初稿(5)

 



   1


 薄暗いオリの中。遠くになるほどまっくらで、じぶんのまわりしか見えない。イスに座り、縛られている。首は動かせても、体は動かなかった。足もだめみたい。じっとしていると、闇の中からお医者さんの白い服を着た、顔のないだれかが煙のようにあらわれた。台車みたいなものがコロコロ音をたてながら、お医者さんと一緒にこっちまで来る。イスの横を通り抜けて、うしろのほうでカチャカチャ、金属の触れあう音がした。「ぬきぅいあ、あぁ、ほほおあ」人の声とは思えないなにかを発した。変なお医者さんが、なにかをしようとしている。やめて、とがったものがまっすぐ……。




 目が覚めた。夜だった。よかった……。目、なんともない。お腹や背中が汗ばんでいる。1日目。




 赤いテント。四角すいみたいな形で、ちっちゃい灯りがテントの天井からつり下がっている。人がひとり入ったらそれでいっぱいになる、トイレの個室みたいな狭さだった。まわりは薄い布みたいな素材でおおわれているけど、地面はなにも敷かれていなくて黒い土がそのまま。出口は1つだけあって、カーテンみたいにヒラヒラ揺れている。ちょっとだけむこうがわが見えるけど、まっくろだった。ここを動いてはいけないってわかる。でも、揺れた。地面が揺れている。硬いあしもとがバラバラになって、うずを巻いている。そこから抜けだそうとしたけど、両足のひざから下は引っ張られて抜けない。体と両腕を必死にもがいて、出口のカーテンをめいっぱい開けた。強い風が吹いてきて、まだ地面の外にあった、お腹から上が気圧に押されて曲がって、メキメキ……。




 目が覚めた。夜だった。よかった……。体、なんともない。手足にも汗がつたっている。2日目。




 白い外。見渡しても、部屋なのか外なのかわからない。広い場所だった。横を向いたら、黒い点が見えた。穴みたいで、そこからワイヤーみたいなものが勢いよく飛び出してきて、うしろに一歩下がった。目の前を通りすぎた細い一本の鉄の縄は黒い点のあった反対側で折り返して、こっちにむかってきた。何度も伸びてくるワイヤーを繰り返し避けていたら、一本だったものが複雑な折れ方をして、いつしか手足の間を通過して、くもの巣みたいな形になった。気がついたら、もう身の回りがワイヤーに囲まれて、動き回る先端を避ける場所も残ってなかった。鉄の縄が両手と両足に巻き付いて、ワイヤーの先端が動いただけで、複雑に絡んだ手足の方も強い力で引っ張られて、あちこちの関節が……。




 目が覚めた。夜だった。よかった……。手足、なんともない。首の付け根に汗が集まっている。3日目。




 …………、首をスプーンで……。




 目が覚めた。夜だった。よかった? 首、なんともない。……に汗が……。4日目。






 木の人形。1体じゃない。たくさん来た。抱きしめられた。触れられた。ぐちゃぐちゃ。ふさがれた。入れられた。ぼろぼろ。やめて。…………、あああああああああ……。




 目。覚めた。もう朝。44日目。


 ノート。置いてある。夢日記。どこかで聞いた。ある。それ。なんだった。どうでもいい。とにかく書く。見たもの。書く。木の人形。ひどかった。でも、感じない。なにも。何日前から。忘れた。


 9月。学校。行きたくない。見たくない。聞きたくない。触りたくない。なにも。でも、約束。なんだった。どうでもよくなかった? ユウ……? だれだ。制服。鞄。玄関。鍵。いってきます。


 歩いていく。高校。遠い。面倒。


 カンカン。しましま。下がった。ここ。出ないと。でも、出なくていいか。来た。すごい。はやい。


 さようなら。




   2


「消えろ」


 昼休み。体育館裏だった。ここには縁がある。それも過去の話になった。出来事は色あせていく。古い感情は忘れ去られていく。あの時は、そんなこと考えてたっけな、と頭では判っている。同じ心境に戻ることはできない。


「ひゃぁっ。ふ、ぐっ……」


 草の生えている土の上で二年の女が横たわっている。俺は「蹴り心地」を試しているところだった。通りすがりの他人が見たら、心無い暴力に見えるかもしれない。でも、心ならここにある。十七年余りの歳月が育ててくれた、人間の感情ってやつはちゃんと持っている。では、なぜ試しているのかと問われれば、俺が決断したわけじゃない。そうするように「お願い」された。嫌々協力してやってる。じつはすごく親切な事なんだ。丁度、二学期が始まってからむしゃくしゃしていた。全部、消えてなくなればいい。


「ユウシュン……っえあ」


 横腹に当たると、内側の方でバコってなってなにかの楽器みたいだ。小気味いい音がしてすぅーっとする。テレビゲームでザコキャラを吹き飛ばしてる時みたいな気分だ。地面に倒れ込んだ女は腹を押さえている。体操着姿で。制服ならそっちにある。丁寧に畳まれて置いてある。畳んだのは俺ではなく、楽器になっているこの女自身だ。


 蹴るのも飽きてきた。横になって縮こまっているそいつに近寄り、体勢を低くして、髪の毛をひっ掴んで顔を上げさせる。まだとても高校生とは思えないあどけないツラ。そこにつばを吐きかけてやると、それを口元に来るよう頑張って、べろべろなめていた。気色わるい。


 最後にもう一発、でかい蹴りを入れてやった。


「おふっ」




 少なめに見積もっても、まだ昼休みは半分くらい残っているはずだ。緩やかに暑さが引いていく時期。校舎の外、学校の敷地を歩いている。お腹が全然空かないから、教室を出たら予鈴が鳴るまではこうしている。俺は無性にどこか生きたかった。俺は一人になりたかった。俺は消えてしまいたかった。だれかと一緒に居るだけですごく不安だった。他人が居ると、考え事をしなければならない。何を思われて、何を考えて、何をしようとしているのか。知る必要なんかないのに、ただでさえ敏感な頭が最大限に働き、あらゆる想像を膨らませて止まらなかった。多数ある候補の中に後々そうだと解る本物が紛れているから、他人の心が透けて見える感覚だ。


 校舎裏の日陰に来る。硬いコンクリートの地面に腰掛けて、壁に寄りかかる。昼下がりの風が通り抜ける。悪い気分じゃない。


 九月に入ってから俺を襲ったのは喪失だった。アオイにはあれだけ強気な事を言ったのに、いざ自分が「それ」を現実のものとして受け取ったら、相当の衝撃だった。ビルが倒壊し、家が全焼し、川が氾濫し、橋が崩落し、緑が枯渇し、火山灰が飛散し、隕石が落下し、人間が全滅し、太陽が爆発し、宇宙が収束し、…………のような、およそ目の当たりにしたことのない衝撃に襲われたら、性格くらい変わる。代表的なのは、親しい人間の死を経験するとか、殺人現場に居合わせるとか、生命の危機に遭うとか、PTSD(※)なら気が弱くなっていただろうな。

※心的外傷後ストレス障害。命の危険や死の関与する出来事など、苛烈な体験によって心に傷を負い、その後の日常生活でも不安や恐怖が続く、心の病。


 当時、何も知らずに訪れたあの教室では、一年生たちは静まっていた。容姿端麗な女子が出入り口まで重い足取りでやってきて、特別に教えてくれた。クラスメイトが一人居なくなったことを。のちに、その事実は緊急の全校集会でも触れられた。教室前で初めてそれを聞かされた時、俺は失神したらしい。失禁じゃねえ。はあ、つまんねえ。起きたら保健室に居た。その時に休んだ授業が終わるまで泣いた。


 クラスメイトたちでさえあそこまで気に病んでいる。あの子とよく会話をし、あんなキスまでした俺は、そこに居た生徒たち以上に衝撃を受けた。過去を呪った。もっとああすればよかった、と強い後悔にさいなまれた。PTSDにならなかったのは、あの子と関わった期間がそう長くなかったから、かもしれない。まだ知らないことも多かった。


 当初の俺が抱いていたのは幼い恋愛感情だった。「一緒におしゃべりをしていたい」「時に触れたい」「自分という人間を理解してもらいたい」「他の人より良く見てもらいたい」段階を経る毎に欲求は複雑に拡がっていく。


 ここはミチとの思い出の場所だ。もっとおしゃべりをしたかった。思惑(おもわく)を知りたかった。だが、もう考えないようにしたい。つらくなる。ミチ。会いたいよ。


「ユウ、シュン」


 嫌な時に現れやがる。制服を脇に抱えて、薄汚れた体操着のシャツが視界に入った。成長期に乗り遅れた小さい体が歩いてくる。一人になりたいのに、ストーカー顔負けのこいつのせいで叶わない。


「泣いてるの?」


 繊細な面を見られたのが癪に障り、隣に腰掛けた女を横から突き飛ばす。


「お前が死ねば良かったんだ。クソが」


「あはははは」


 壊れたような笑い声だった。来る度、こいつはなかなか落ちない粘液のような不快感を運んできた。あの子と楽しく会話していた時にも割り込んできたし、別れたはずなのに度々姿を現し、救われた恩を仇で返した。


「何がしたいんだよ」


 笑いはぴたりと止まった。倒されて崩れた姿勢を維持したまま、あらぬ方向を見つめながらじっとしている。


「……ミチはわたしの親友だった。こんな外見で、友達が居なかったわたしにも普通に接してくれた」


 語り始めた。俺の知らない個人的な話を。年数をさかのぼると、二人の関係は良き友人だったそうだ。本当に小さなきっかけで友達はできる。俺にも覚えはある。しかし、彼女たちは心と体が成長していく中で衝突し、俺の前で見せたような微妙な関係になった、という話だった。生前のあの子の話は興味深い。


「その頃わたしが好きだった人がね、あいつにほれちゃってさ。そんな男、もう好きでもなんでもないけど。その後、あいつと付き合ってたみたい」


 俺は立ち上がった。


「待って。あいつの話を聞いてほしいわけじゃない」


「なら、なおさらお前と関わり合うつもりはない。ケガをする前に消えろ」


 顔を横に向けてわずかに振り向くと、すぐ後ろに女が立っていた。


「わたしはあなたのものになりたい。わたしのすべてをあげてもいい。だからねえ、わたしを支配してよ!」


 ひどい冗談だ。……と、甘ったれたやつなら思っただろう。だが、俺にはこいつの異常な執念を理解できた。しかもこの最悪な時期に言ってくるのだから本気だ。俺の傷心に付け込むばかりで、元友人の事なんて毛ほども思っていないのが判るから、なおさらむかつく。


「うざってえ」


 付き合いきれない。構わずに前へ踏み出す。だが、後ろから腕がまとわりついてくる。ほてっているらしい体が背中に押し付けられ、それだけで気分が大きく害された。


「逃がさない。あなたがわたしを手に入れるまで絶対にあきらめない。あはははは」


 小柄な体に不釣り合いな力加減で掴みかかってくる。気持ちの悪い笑い声が記憶を引き出す。断ち切れず屈した、俺自身の弱さがそこに見えた。口惜しかった。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」


 俺は暴れた。全身に怒りを込めて。くっついてくる女を無理にでも振るい落とした。


 コンクリートの上に放られた女は、瞳孔の開いた恐ろしい目付きで、地面に着いても、その回数だけ飛び付いてくる。ひざを擦りむいているのが見えた。染み出す赤色を見て、高ぶっていた俺の火力は弱まった。


「お前は俺をけしかけて、自分の欲求を満たしたいだけだろ」


「ふふ、なにか悪い? あなたが気持ちよくなる。わたしも気持ちいい。それはすごくいいこと……。ユウシュンはわたしに興味を持ってくれた。わたしを欲しがってくれた。事実でしょ?」


 その通りだった。体育館で出会い、バス停前で深く関わり、その夜に先へ進んでしまった。ほんのちょっとのつもりが、首まで浸かりきってしまい、抜け出せなくなった。結果、こいつに特別な感情を持った。その代償は大きく、すべてが狂いだした。夏休みに読んだ、あのノートに書かれていたことを思い出す。山のふもとで黒い馬と魔女が登場する場面。そこでは、俺は馬。そして……。


「お前は本物の魔女だ」


 正面を切って言った。すると、女は笑い声を殺し、見開いていた眼差しを上目遣いに変え、鋭くとがらせた。憤り、恨み、憎しみ、恐れ、諸々の強い感情がこもった視線がまっすぐ俺を射抜く。


「……わたしが、『魔女』? どうして? あなたもわたしをそう呼ぶの? あなたはわたしを理解してくれたと思ったのに」


 服を掴んでくる手の力が緩んだ。


「お前は確かに俺と通じるところはある。だが、俺はお前にはなれない」


 ついに、その手を自発的に放し、固まっている。動きが止まり、足元を見下ろしている。おとなしくなっているうちに教室へ戻りたかった。そろそろ昼休みが終わる。


「……まだ、ヤってないからだ。ユウシュン。わたしとヤってみれば、きっとわかる。気持ち良くなる愉しさ、教えてあげる。今度はピルも用意するから。ねえっ!」


 見上げてくる女は明るい笑みを取り戻し、べたべたと絡み付いて、俺の骨張った腰回りをなでさすってくる。だが、そういう気分になれるわけがなかった。もっと俺がしっかりしていれば、こいつに余計な欲望を抱かせずにうまく関われた。教室に居るミチに気が付いた時、目を逸らさず会いに行けた。中途半端な劣情がすべてを台無しにした。俺が本当に欲しかったのは、気持ち良さなんかじゃない。


 近くに落ちていた、女子の制服を拾い上げ、畳んで、持ち主に手渡す。


「ごめんな。お前には気の毒なことをした」


「なんでユウシュンが謝るの? わたし、何されても全然気にしないよ? ねえ、今度こそわたしとひとつになろう?」


 汚れた格好に、髪型を乱していても、その瞳は暗い感情を払いのけてすっかり希望の光を宿していた。その言葉に偽りはないと解った。本気で蹴りを入れてあばら骨を折られても、俺がしたことなら、たぶん恨まないだろう。尋常じゃない魔力。それに魅入られたら、ただでは済まない。


 その時、予鈴が鳴った。


「はあ。ヤるんなら他の男で十分だろ。じゃあな」


 思わず溜め息が出た。こっちを見上げているワダチのデコを手の甲側の四本指で軽く弾いてから、小さい肢体を引き剥がし、背を向けた。


「ユウシュン以外は嫌だよ。……って言っても、あなたはわたしから逃げ続けるんだ」


「逃げてねえよ。俺の事なんかさっさと忘れろっつってんだよ」


 校舎の正面の方へ歩き始める。後ろから近付いてくる足音はなかった。




   3


「こんにちは」


 放課後、学校を出ようと思っていたら、校門の近くに女が立っていた。制服を着ているが、この辺りの女子生徒とは違う意匠。それまでの短髪のイメージがセミロングに変わる途上のような髪型で、だれかと特徴が被る。最後にこいつと会ったのは、もう何週間前だったろう。プールへ一緒に行った記憶が頭の奥で埋もれている。会わなければ、薄れて、消えただろう。


「俺に言ってんの?」


「そうだよ」


「だれだてめえ?」


 一連のやり取りの末、みぞおちにげんこつを一発喰らった。その直後、ムカついたから反射的に胸ぐらを掴み掛かっていた。通り抜ける生徒の視線や相手の性別は気にしない。文句を言うやつは叩きのめすし、そんな偽善者ヅラした通行人も居ない。


「雰囲気、変わったね」


 ワイシャツをしわになるくらい強く掴んでいる俺の左手の甲をなでながら言う。おとなしい受け答えに拍子抜けし、解放する。俺の予想では、こいつが反抗してきて、ケンカが起きて、適当にケリついて解散、ってなるのを考えていた。張り合いがない。


「余計なお世話だ。てめえこそなんもねえくせにバイトサボってんじゃねーよ」


「用事ならある。来て」


 やけにしおらしい対応をするもんだから、カレシでもできたんだろうか。どちらにせよ興味ないし、関係ない。促されて、自転車を押しつつ付いていくと、学校近くの公園に到着した。ここでいろいろ話したっけな。会話の内容はほとんど忘れたけど、こいつとの甘えた付き合いを終わらせたんだった。あれから連絡も取り合ってないし、バイト先やアパートにも行かなかった。あの日、帰りのバスを俺が先に降りた後、もう二度とこいつと会わないつもりで別れたはずだった。


「大丈夫?」


 違和感しかない話し方だった。感情が控えめで、落ち着いた声の響き。まるで、あの子みたいだった。いよいよ俺は耐えかねた。


「お前こそどうした、その態度。恋愛相談でも始めるつもりなら帰るわ」


 揺さぶりをかける。しかし、手応えはなく、俺の目を黙って見つめてくる。雰囲気までどことなく似ている。一つの仮説が浮かび、背筋が寒くなってきた。偶然、周囲には人もおらず、聞こえてくるヒグラシの鳴き声も相まって、不気味な空気だった。まだ明るいからいい。これが夕暮れ時だったら、ホラーの世界だ。


「この前、スグリさんから電話があって、事情は聞いた。あなたが苦しんでいないか心配で来た」


 そういうことか。あの澄まし顔、余計なことしやがって。


「そうかよ。つーか、その話し方やめろや」


 俺がそういうと、奇跡的な動きで首を傾ける。その仕草が似ているという域を余裕で超えてミチそのものだったからドキッとした。冷静な自分も残っているが、懐かしい感情が芽生え、隠しているはずの胸の痛みが染みてくる。苦しい。


「てめえ、ほんと悪趣味だな」


 口数が少ないところまでしっかり作り込んでいるようだ。俺はそれ以上は言わず、自転車を停めてから、近くのベンチに腰掛けた。なにもしない時は創作の事でも考える。使える題材や構成がないか。疲れていたり心配事があったりすると、集中できない時もある。


 そこに居た身長の高い女も俺の居る隣に座り、じっとしている。無言の間に慣れているあの子の時ならともかく、別の人物、それも普通に会話をしていた相手ともなると落ち着かない。考え事が捗らなくて観念した俺は仕方なく、これまで話さずに留めていた、ミチとワダチを空気や水に例えた、似て非なる違いをこの女の前で講釈してみた。こいつとクジョウの相性を慮ったら、込み入った長話は言いづらかったが、おとなしくしているこの時なら気にしない。


 案の定、黙って聞いている。


 次に、こんな話もした。俺はワダチが嫌いなわけじゃなかった。他のやつの前ではどうか知らないが、俺に対しては後輩らしい気遣いをするし、恋人として仲良くしていれば甘え上手で、ただのかわいい女だった。そんなカノジョとなら、エロい事だって気持ちいい事だって、そりゃ楽しかった。人間だからそう感じて当然だ。だが、俺があいつとヤらなかったのには根本的な理由があった。


 そこまで言い終えると、ようやくその口が開いた。


「……あたしとは、したい?」


「ったく。聞くんじゃねえよ。……ヤりたかったら、もうヤってんだろ」


 視線を向け続けてくるオオクラから、視界を地面の方に移すと、横から「そっか」と元気のない声が聞こえてきた。こいつはこいつで、かなりのばかだが、困ってる時に迷わず金を貸してくれたし、頼んでもいないのにゲス野郎を潰してくれたみたいだし、感謝はしている。しかし、バイトもろくに続かない役立たずの俺では、こいつに迷惑をかけてしまうと思う。こいつにはもっといいやつと一緒になって、人生を過ごしてほしい。そのための手伝いだったら、喜んで受けてやる。


「そんなに落ち込むなよ。お前にはお前のいいところがあるって知ってんぞ。いろいろ、ありがとな」 


「…………」


 オオクラの方を見ると、まだこっちを凝視していた。そんなに見られると、有り得ねえって分かってても、まっすぐな視線を向けられ過ぎて顔に穴が開くような気がした。虫眼鏡で太陽の光を集めると、黒く塗った紙が破けるようなイメージ。


「あの子としない『根本的な理由』とは」


 そう言って話の続きを促した。俺はオオクラの目ではなく、公園の土を見ながら、再び講釈を披露した。


「ヤるっつーのは簡単だ。こう、あれとそれをどうにかすればいいだけなんだからな。でもよ、『ヤってみてえ』ってなって、ヤったとしたらそれで終わりだろ。どうせ、なんだこんなもんか、ってなって終わり」


「…………?」


 隣をチラ見すると、オオクラは首を傾(かし)げている。


「分かりづらかったな。……映画でも音楽でもいい、なんか適当な楽しみを想像しろ。新しく発表された作品ってのはワクワクする。だけど、見たり聞いたりすると、そのワクワクってのはそこで終わるんだ。何度も繰り返し楽しめても、最初のような『未知』のワクワクは戻らない」


 顔を合わせてみたら、疑問はすっかり晴れたみたいだ。


「あたしの名前みたい」


「は?」


 オオクラフユミの言っている意味がよく判らなかったが、講釈の核心を述べた。


「まだ終わりたくなかったんだ、俺は。相手がだれであれ、もっと考える時間が欲しかった。今は、単にそんな気分じゃないってだけだけどな」


 「そう」


 不思議な気分だ。こいつと居たら、自然と言葉がよく出てくる。居心地がいいというか、話しやすいというか、まるで本当にあの子と話している時のようで、つい口元が緩んでしまう。


「ユウは言ってくれたよね。あたしのおうまさんになってくれるって」


 俺の心臓は正直だった。言葉を聞いて、頭で理解して、一気に鼓動が速くなった。そして、ついさっき言っていた意味を知ることになった。


 目を離すことができない。


「お前、オオクラじゃ、ないのか?」


 依然として穴が開くくらいの勢いで俺の顔面を見つめている。そして、ゆっくりと、うなずく。


「うん。あたし――」


「言うな! 言わないでくれ」


「わかった」


 言われなくても判っていた。俺を馬に例えた人物に心当たりはある。それがオオクラじゃないことも知っている。なにより、夏休みの最中、最後に会った時の言葉を忘れるわけがなかった。そこで俺は確かに「馬になる」と言った。そして、あの子は僕の……。


「こんなことって、あるんだな。……なんで居なくなったんだよ。これから、いろんなもの、見せてやりたかったのに」


「ごめんね。あなたに会わない日にもあれが続いていたの。ずっと。ちゃんと学校に向かったはずなのに、運がなかったみたい」


 俺は一言一句を聞き逃さず、言っている意味を真剣に感じ取った。そうして、激しい後悔にさいなまれた。言葉だけでは救えなかった。もっと行動にして伝えるべきだった。まだ恋人でもない俺たちの淡白な関わり、それに不自然はない。だけど、こうなると事前に判っていたら、気の利いた演出くらい用意してあげられた。


「……一度でいいから、お前を抱き締めたかった」


 顔を下に向ける。そうやって、両目から涌き出るしずくを見せないようにごまかす。


「いいよ。今ここで、抱き締めても」


 その声を聞いて、心臓が苦しかった。どういう状態か分からないが、この状況なら望みが叶う。すぐ手の届く距離に居る女。こいつを強く抱き締めたら報われるのだろうか。だが、俺は察した。抱擁はどういう時に行うものなのか。顔を合わせた時、心が動かされた時、そういう気分の時、あとは……。


「なあ、お前が俺を抱き締めてくれないか」


 照れくさくて、逸らした視線を彼女に送るのは難しかった。だけど、「うん」という返事が聞こえてきて、一度だけその表情をこの目に焼き付けようと思った。獲物を狙うネコのような視線が向けられている。こいつにだったら、噛みつかれても引っかかれてもいい。そして、砂の上をのたうち回る二匹のネコというふざけた光景を勝手に想像し、自分で笑ってしまって、隣に居たミチも顔の緊張を和らげて微笑を浮かべる。儚いやさしさに彩られた顔だった。


 俺は「頼む」と促し、彼女は座っている二人の間隔を詰めた。いよいよ隣から真正面に向き直って、目を閉じ、抱擁を待つ。しばらくして服の擦れる音がして、伸ばされる両手が反対側の肩を掴み、引き寄せてくる。上半身の体重が腕の方から伝わってくる。横からなので、前を向いたままの俺はまったくの無抵抗で、抱き締め返せない。 


「これで、いいの?」


 「ああ」


 相手からしてもらえるのであれば、強弱や形式にこだわりはない。抱き締め返さなくても十分に、俺は報われた。


「あたしも抱き締めてほしい」


 耳元で聞こえてきて、戸惑った。目を開けて、俺はわずかに体をそちらに向けた。そうすると、隣の人がすぐ近くに居て、顔も触れそうだった。


「一瞬だけだぞ」


 寄り添っている体を向かい合わせて、相手の背中まで腕を回し込み、一秒くらい抱き締めて、すぐ放した。


「いじわる」


 ミチは俺の体を包むようにして組んでいる両手を保持したまま、唇を微妙にとがらせている。


「わかったよ。でも、これで最後だ。……さようなら、ミチ」


 さっきより強く、長い抱擁を続けた。その間、言葉はなかった。


 やがて相手の力はすっと抜けて、組まれていた両手が解け、体だけでこちらに寄り掛かっている女の両肩をしっかりと支え、ちゃんと座らせる。閉ざされた目の端には、しずくが光っていた。


 別れを済ませ、俺はじっと座って空を見上げる。帰らない人は星になるのだろうか、なんて乙女みたいな事を考えていた。あの子と話している時、夢を見ているような感覚だった。だが、ここは紛れもなく現実だ。


「……っ。ふえっ!?」


 数分後に女は意識を取り戻し、急に立ち上がった。辺りを見回している。それまでの様子とは一変し、元通りのオオクラだった。俺の方を見ると、数秒固まって、ゆっくりとした動きで隣に座った。


「なんかすごく悲しい夢を見ていたような気がする……。先輩、おいらどうしてここに居るんだっけ? です」


 話した内容については触れなかったが、公園まで来た経緯くらいは説明した。俺の事が心配って理由だけで、わざわざバイトをサボって会いに来たのだろうと。


「あー、そうそう、です。学校が終わってからアルバイトの休みを交換してもらって、先輩に会いに来ようとしてたです。でも、そこから記憶が曖昧で……。おいらたち、ここでなにをしてたんでしょうか」


「特になにも」


 オオクラとは、なにもなかった。だから嘘は言っていない。


 だが、本人は目を細めて疑惑の視線を送ってくる。感情表現が豊かで分かりやすい。もうあの子の面影がまったくない。数分前を思い出したら、ちょっと感傷的な気持ちになった。


「先輩。つらい時は我慢しないで」


 俺の顔色を察してか、気遣いの精神で接してくる。こいつのこういうところ、嫌いじゃないんだが、人が良すぎるのも考えものだ。


 それからはオオクラとの会話だった。こちらの話し方が変わっている事については何も反応せず、普段通りの態度で話している。夏休みの宿題が全部終わらなかったとか、バイト先に新しい高校生が入ってきたとか、日常的な話に終始した。自分とは関わりの薄い話題の数々に退屈を持て余した俺は、適当に区切りが着いたら、この場から立ち去る腹積もりだった。


「おいらの家ってすごい貧乏なの、先輩は知ってるよね」


 珍しく重い話題だった。俺は聞き役で相づちを打つ。会話の八割以上はオオクラがしゃべり続ける。あのアパートはどこからどう見ても、裕福な方ではなかった。父親とは会ったことがないし、母親は居ないと聞いている。


「お父さんは自由気ままな人だけど、おいらの保護者ってことになってる。お母さんは育児放棄ぎみで、よく親戚の家においらを預けて、出掛けてばかりだったのを覚えてる」


 話を要約する。オオクラの両親が離婚したきっきけは、子供が生まれた事にあるらしく、母親は子供よりも自身の自由を求め、家を去っていった。父親は会社を辞めて、子育てをしながら昼も夜も働いて過ごしていたが、子供の年齢が上がってきて手が掛からなくなった頃に、遊び癖がついたらしい。


「おいらは、自分の子を何があっても見捨てない親になりたい」


 その強い決意の内には、生きる目標としての前向きな姿勢と、自分が受けた仕打ちへの抵抗が感じ取れた。


「お前なら、なれるさ」


 オオクラは汚(けが)れを知らない、邪気のない、とびきりのばかみたいな笑みで喜びを表現していた。その純真さが何者かによって奪われてしまわないかと心配になる。こいつは寂しがりすぎるところがあるから、くだらん野郎に引っ掛からなければいいのだが。


「シロクマの親子ってね、すごく仲良しなんだよ」


 いつかも話していたホッキョクグマの話か。その後、家に帰った俺はその動物についてケータイのiモードで調べていた。別に、またこいつが話した時に気の利いた事を言えるように、なんて考えていたわけじゃない。単なる好奇心だ。この女がシロクマと呼ぶのは間違いなく北極圏に生息しているホッキョクグマのことであり、アルビノ(※)のクマのことではない。

※突然変異により、メラニン色素が少ない、あるいは作り出せない個体。外見が白いのが特徴。


「ああ。クマって共食いするらしいぞ。特にホッキョクグマのオスは子グマを食う」


 そう言われて、やはりオオクラは強い嫌悪感を眉間に示していた。だが、事実は事実だ。野性動物には血なまぐさい場面が切っても切れない縁にある。ばかなやつには、つらい現実ってやつを知らせておくのもいい。だが、そいつはみぞおちにげんこつをしてくるでもなく、さっきあの子と話していた時の俺みたいに、うつむき始めた。


「おいらも、そういうふうになっちゃうのかな」


「そういうふうって、なんだよ」


「一人で、子供を育てる親」


 一瞬解らなかったが、合点がいった。よくわからんが、ホッキョクグマを含め多くの動物はメスだけで子育てをしているイメージがある。中には、オスとメスで協力して子育てをする動物も居るだろう。人間は、規則や道徳を守るのであれば、夫婦として子供を育てる義務がある。それなのに母子家庭、父子家庭は珍しくない。性格の合わない男女(不純な交際も含まれる)は、たとえ子供を育て終わる前でも縁を切る。人間の子供が社会的に大人と認められるまでの時間が二十年と、長すぎるのだ。しかし、俺が伝えたかったのはそういうくだらない痴情についてではない。


「お前は、そうはならない。親を見て、逆に学んだ。だから、立派な親に憧れてるんだろう」


 急にまたオオクラは立ち上がった。今度は深呼吸をしていた。


「おいら、やっぱりもっと勉強しなくちゃ。先輩、ありがとう」


 丁寧にお辞儀までしている。ベンチには座らず、そのまま帰るのかと思ったら、手招きされた。そろそろ帰ろうと思っていた俺も立ち上がり、ふらふらとそっちに行く。


 すると、不意に抱き付かれた。


「おい、なんのつもりだ」


「えっと。お別れのハグ、です」


 それは、ものの数秒だった。


「先輩を元気付けたかったのに、おいらの方が元気付けられちゃった」


「余計なお世話なんだよ。お前は」


 俺には慰めなんか要らなかった。「寂しい」なんて言葉も安易に使いたくない。現に、弱気とは無縁な態度で振る舞っている。粗暴だと嫌われたっていい。なるべく隙を見せたくない。


「必要なかったみたい、です。……ミチはきっとあの空の向こうで輝いてる、です」


 そんなわけあるか。……と思ったが、俺も似たような事を考えていたから、口には出さない。別れのついでに、空を見上げている後輩に、これまでのお礼を改めて言っておいた。


「おいらの方こそ、ありがとうございます。先輩は命の恩人です。あなたの幸せを願ってます」


 こちらに向き直って、親しい友に向けるような誠実さと、晴れやかな態度だった。


 幸せなんて、もうほとんどあきらめているけど、どこかにあるのだとしたら、見付けるのもいいかもな。だが、それは何年後、何十年後、どんな形をしているのか分からない。少なくとも、数か月後には十八才になる俺の、幸せは何光年も先に旅立ったばかりだ。


「俺のことはともかく、お前は男を見る目をもっと鍛えとけ。ばーか」


 オオクラは「はい!」と、元気な返事をして一人、走り出していった。




   4


「ダンテの書いた叙事詩『神曲』では、ダンテ自身が死後の世界を巡り歩くの」


 眼鏡をかけた女は、それを地獄篇、煉獄(れんごく)篇、天国篇の三編からなる叙事詩だと説明した上で、あらすじを話していた。


 まず、地獄で永遠に苦しむ人物たち。そこでは裏切りが最大の罪だと言われている。コキュートス(冥府を流れる嘆きの川)にて、神に背いた堕天使ルチフェル(※1)と、実在した裏切り者たち(ユダ、ブルトゥス、カッシウス)も描写されている。次に、煉獄は浄罪とも訳されるらしく、生前の罪を償う場所だという。ダンテ自身もそこで七つの罪を清め、ある人物との再会に繋がる。俺には、この煉獄が、三という数字に固執した作者による中だるみにしか思えん。死後の世界を表すだけなら、構成は二部でも十分成り立ったと思う。それか四部にして地獄と天国を深く掘り下げる……(長くなったので省略)。天国では、煉獄の最終層に居た女、ベアトリーチェがダンテを案内し、様々な聖人たちに出会う。最上部でダンテが目にしたものとは……。このように「神曲」は神聖な喜劇(※2)として完結する……。

※1 ルシフェル。または、ルシファー。神に背いた、天使たちの長。ルシフェルは「光をもたらす者」「明けの明星」を意味する。神の「敵対者」、すなわち悪魔として「サタン」という呼び名も使われる存在。

※2 ここでの喜劇とは、悲劇に対して、良い終わり方をする作品。


 作中のベアトリーチェはダンテの片想いの相手であり、若くして亡くなった実在の人物という説があるという。そこまで聞いて、何かを感じた。「神曲」は、当時の科学や信仰、ダンテの政治観・宗教観、あらゆる人生観を投影したらしい、こんにちのイタリアでも愛されている名著なのはわかった。だが、彼が亡きベアトリーチェを「永遠の淑女」として登場させている点は人間臭いというか、筆者の独善であり、物語にとって重要な鍵だったのか、……うまく言えない。それを言うと作品の全体が破綻するかもしれん。


 九月上旬の放課後、教室ではない場所で「神曲」の話をしている。勉学と知識の体現者とも言えるクラスメイトに誘われた。学校近くからバスに乗って、見慣れた駅の近くで降りると、四階建てのビルになっているカラオケ店がある。ここがそこ。普通の学生ならば、遊び場として定着している施設かもしれないが、勉強ばかりしている人が来るのには意外な所だった。


「ダンテはまあまあ判ったけど、お前は受験勉強の時間を無駄にしたくない人間だろ。なんでこんな道草食ってんの」


「これは道草なんかではないわ」


 選曲するためのリモコンの、電子音が鳴り、しばらくして音楽が始まった。クジョウは部屋に用意されているマイクをすでに持っていて、えらくゴキゲンな前奏の後、画面に字幕が表示される。知らない曲名だった。高音が明瞭に響くソプラノの美声で、今時風の曲をやっている。音程も声量も、並みの学生の水準を余裕で超えていた。上手すぎて、そうと知っていれば、女友達などから一緒にカラオケへ来るのを遠慮されるだろうな。


 歌を唄い終えると、俺にも何かを唄うように勧めてくる。そんな気分じゃないし、カラオケなんて初めてきたからまともにできる気がしなかった。


「私はイオギくんを評価するつもりもないし、気楽にやってみたら?」


 気負わせないために言っているのだろう。それはそれでやや腹が経つな。この頃よく聴いていた、あれなら唄えるかもしれない。通販サイトで運良く手に入った、同人音楽CDの曲「らぶ・いぐにっしょん」。何年か前に音楽ゲームでも使われていたようで(※3)、その着うたをケータイで持っている。リモコンの画面で探したら、それらしい歌手の曲名が見付かり、送信する。

※3 ミュージックガンガン!とpiapro(ピアプロ)のコラボ企画で選ばれた曲。アーケードゲーム「ミュージックガンガン!2」に収録されている。


 これまたゴキゲンな前奏の後、拍子を取るのが若干遅れた。唄いながらだと字幕の流れが思ったより速く感じられて案外難しい。言葉が混雑している箇所はあえて字幕を見ない方がやりやすいかもしれない。はあ、ここまで声が出ないものなのか。


 カラオケの演奏が終わると、俺はすでに呼吸困難になっていた。


「イオギくん、緊張しすぎ。もっと肩の力を抜いて。息は吐きすぎないように」


 悪気がないのは解っている。だが、だれの目から見ても失敗だった。悔しい。


「くそっ。もう唄わん」


 持っていたマイクを部屋の中央にあるテーブルの上に置き、ソファに勢い良く座り込む(立って唄ってた)。


「大体なんでカラオケなんだよ。教室でもよかったんじゃねーか」


 まだ残り時間は一時間半くらいある。夕方の六時前には帰る算段が着いている。俺は特に遅くなっても構わない。問題はこいつが何を言い出すのか。


「学校だとイオギくん、逃げ出すでしょ」


「はっ? 逃げねーよ」


 クジョウは先ほど話していた「神曲」の本を鞄から取り出して、テーブルの上に置く。近くに置かれたので、無造作に手に取って開く。日本語に訳してある。それでもおよそ見慣れない表現や言い回しの数々で、まさに学術的文献だった。これがあと二冊もあるのかと思ったら頭が疲れる。素直に順を追って読んでいったとしたら、何か月、何年かかるか解らない。


「それに、あの子が教室に来ると話しづらいこともあった」


 クジョウが「あの子」と呼ぶのは決まってあいつの事だろう。昼休みや放課後に、俺の居る教室まで顔を見せては無茶な要求をしてくる。腹をなぐれとか首を絞めろとか、犯罪スレスレの事。前々からそういう被虐を好む一面はあったにせよ、人知を超えた悪魔憑きみたいな反応が気色悪い。頭の中でくすぶっているムシャクシャは相変わらず消えていないが、そうした邪悪な儀式に付き合わされるのも釈然としない。俺を狂わせようとしているのだとしても、もう同じ轍は踏まない。


「俺はあいつが居たって構わねーけど」


「私が構うのよ」


 続けて鞄から取り出されたのは赤茶けた汚れの着いた古ぼけた帳面だった。


 どうして、それをこいつが持っているのか。夏休みの間に俺は確かに持ち主へ返した。そして、二学期の始業式に再び見せてもらう予定だった。果たされずに終わったとばかり思っていたが……。


「これは彼女が生前まで手にしていたもの。中は見ていないわ。踏切の近くで見付けた」


「見付けたって、お前、あの場所に行ったのか?」


 クジョウは話した。あの子が亡くなる日の放課後、そこはすでに遺体の運び出しや周辺の処理が終わっていたと報告を交えつつ、なにかに「呼ばれた」のだと奇妙な体験談を。不思議とそれが作り話には思えなかった。日付は違うが、俺も同じ踏切に行った。献花されていたからすぐ判った。泣いた。その後、帰った。


「私、そういうの、苦手なのよ」


 普段、弱みを見せない優等生にしては珍しく臆病な態度だった。それくらい異様な出来事だとも受け取れる。幼少期の俺は「聞こえる」ことがあった。中学に上がってからはない。小学校の宿泊学習で泊まった旅館で気配を「感じた」のが最後だった。だが、先日、遭ったのは間違いなく「それ」だった。オオクラがミチしか知り得ない事を知っていた。


 その時の会話の内容を思い出し、俺は文句を言いたくなった。


「お前、オオクラに余計な根回しをしてくれたそうだな」


「そうね。じつは、これをイオギくんに渡すのが不安で先延ばしたかったのもある。だって、このノート、すごく変なの」


 汚れている以外、特徴の少ない、俺には馴染みのあった帳面だ。最後に見た時は、魔女やシロクマやカラスが登場する場面があり、あの子が魔女に自身の服を着させて、再び最初の樹海に戻ってくる。その後の展開が凄惨(せいさん)で、破壊的な挿し絵が描かれていた。確か「だれのばしょにもなれなかった」と題名みたいなものが振ってあったな。その後は、学校の教室での日常風景がちょっとだけ書かれていた。新しい書き込みがあるとしたら、夢の内容が書かれているはず。


 俺はそれを何気なく手に取ってページをめくっていくと、予想通り「夢日記」だった。しかも、そのどれもが死を連想させるような、それでいて現実には実在しないような不可解な方法で苦しめられていく過程が十三日分、二〇ページ余りで書き記されていた。夢日記の文体は初日から文体が不安定で、日付が経つほど、字の大きさや挿し絵が狂気に染まっていく。


 再会したあの時に本人から話では聞いていたが、まさかここまでだったとは……。


「どう。なにか、わかった?」


 帳面の最後には「したからうえまで、ぜんぶ、けずられた」と書かれている。樹海のような風景に、大量の棒人間が描かれて、中心に居る人間(おそらくミチ)が体を頭まで棒に貫かれている。最後のページは、他と違って紙がしわしわになっていた……。




 八月の下旬、夏休みは半分ほど過ぎて、登校日があった。生徒たちの健康状態や日頃の行いを確認がてら、連絡事項の伝達などが各学年で実施される。あと、先生方はお盆休みを除けば、夏休みでも仕事をしているらしい(授業とか事務関係の事をやってるのかな?)。当然、授業はないので午前中には下校となる。


 体育館での集会や教育指導みたいなことが為されたのち、教室でのホームルームが終わると生徒たちはすぐ帰りになった。あのクジョウでも夏休み中は学校に残るはずもなく、他の人たち同様に席を立った。彼女とは前々から話しづらくなってて、お互いにしゃべらなかった。


 僕はクラスメイトたちを避けつつ教室を去り、やや小走りになりながらも靴箱へ急いだ。


 終業式の日は何も言わずに帰ってしまい、ノートを借りたままだったから持ち主に返さないと。追加されていた内容には目を通した。やはり、ミチさんはすごい。想像力が豊かで、見ていて感性が刺激される。周りの人に合わせて、自分の考えを持たない、普通の人になっちゃったのかと思ったけど、まだ輝きは残っていた。それに安堵(あんど)した僕はもう一度会いたくなった。会えば、彼女の見え方も変わる気がした。


 もう一年生たちも下校の途に就いている。人通りが活発な靴箱付近で僕は生徒たちの邪魔にならない隅っこを陣取って、少女を待った。


 その子が現れたのはすぐだった。近くの階段から、とぼとぼと覚束ない足取りで降りてくる。一階の廊下まで大した高さではないが、踏み外して、落っこちてきそうで危なっかしい。階段を降りてきた一年生の彼女に駆け寄ると、伏し目がちな視線を上げて、立ち止まった。


「あっ。イオギ先輩。こんにちは」


 落ち込んでいるように見えたのは気のせいだったか。不安や憂いを感じさせないような、普通の明るい抑揚で話している。


「ぼんやりしてたら危ない。ミチさんのノート、返そうかと思ってきたんだ」


「夏休みが終わってからでもいいのに。わざわざありがとうございます」


 ノートを渡されると、肩に提げている学校鞄にそれを仕舞い込んで会釈をしている。そのまま行ってしまいそうな勢いだったから、僕は「それさ」と声をかけて、ノートの感想を述べた。その独特な発想に心を揺さぶられたのだと伝える。


「見た夢を、そのまま書いただけです」


 素っ気なく答え、僕のもとを去っていこうとする。ふと、もう一方の階段がある、廊下の向こう側を見たら、あの二年生の後輩が歩いてくるところだった。


「待ってくれ。もうちょっと話がしたい」


 呼び止められた少女は靴を履き替えているところだった。これまでみたいに、そのまま帰るのかと思ったら、校舎の出入り口の付近まで歩いて、立ち止まる。じっとしている彼女の背中に安心したのも束の間だった。歩いてきた二年の女が何も言わず、僕の隣に居る。相手にせず、靴箱から革靴を取り出し、最近洗ったばかりのきれいな上履きを脱ぎ、そこへ戻した。


 後ろをついてくる女には極力、顔を合わせず、ミチさんの居る所に行く。


「まだまだ暑いね。家では、どう?」


 五月の昼休みにした時のように馴れ馴れしく話し掛けてみるが、返事はない。じっと立っているだけだった。その理由は僕が意識しないでいる存在にあると薄々感じ取れる。どうすればこの場を乗り切れるのか。そのままにしていたら、ミチさんが帰ってしまう。


 やはり、僕は関わらないわけにはいられなかった。


「もう僕のことは放っておいてくれないか。君とは、お別れしたはずだよ」


 物言わぬ後輩、ワダチは静かに固まっている女の子の方を向いて手を伸ばした。何をしようとしていたか判らないが、僕はとっさに伸ばされる腕を掴み、阻んだ。そういうやり取りが何度か繰り返されて、ついにそいつを突き飛ばした。体重が軽いため、ふらふらと体勢を崩し、背面から転んだ。


 両手を付いたアスファルトに座り込んで、なぜか笑みを浮かべている。


 僕はミチさんの手を握り、移動を促した。校舎から離れていく。少女は引っ張られるように進み出す。その間、追跡はなかったが、どうせ時間の問題だ。隠れられそうな場所を探しながら、渡り廊下のある中庭や体育館の方をうろうろする。


 校庭の入り口まで来て、体育倉庫の物陰で繋いでいた手を放した。しばらくは見つからずに済むだろう。すると、一緒に居る一年生が唐突に言った。


「なんで、まだ話し掛けてくれるの」


 靴箱の所に居たときもそうだ。距離感のある言動が目立つ。返答を保留し、遠ざろうとされる心当たりを探ってみると、おそらく「あれ」のせいかと思う。


「僕は何も気にしてない。ちょっと動揺したけどさ」


「ごめんね」


 共通の認識で話が進んでいるはずだ。そうじゃなかったらおかしい。本音を言えば、あの動画を見てしまった時、かなり驚いた。経験があるかどうかは直接聞いてなかったから(知りたかったが聞けなかった)、むしろ知れてよかった。


 女性が処女かどうか、それを気にしていた時期は僕にもあった。恋愛経験が全くなくて、これから訪れる出会いに過度な期待をしていたのが、その一因だ。


 最初に付き合った人、僕の場合は、自分勝手な心変わりで他の男に乗り換えた、頭の良くない文通相手を指す。彼女となら初めての性行為をしてもいい、なんて本気で思っていた。恋愛への耐性ができていないうちは、だれが相手でも本気になってしまいやすいし、些細なきっきけで経験してしまう事だってあるかもしれない。実際、「まだ初体験をしていない人は遅れてる」みたいに見られる。じつにくだらないけど、間違いでもない。知っていれば、進んでいると認められる。


 それでも、まだ僕は初体験を想定していない。


 生きていればいろいろな人に出会う。ワダチみたいに「いんらん」なやつも居れば、オオクラさんみたいに「うぶ」な人も居て、クジョウみたいにそもそも住んでいる世界が違う人も居るし、アオイみたいな変人は稀(まれ)だが居る。出会う順番や組み合わせによって、性への意識は変わる。僕にはいろいろな出会いがあった。とりあえずヤってしまおうか、とはならなかった。ヤりたいともならなかった。


 どんな出会いにも必ず別れがある。関わる期間の短さ・長さは相手によって様々だ。数回しか会わずに終わる場合もあれば、死の間際まで続く場合だってある。特に関心のない人同士は再会を望まず二度と会わないかもしれないし、家族のように親しい間柄なら老後になっても共に過ごすかもしれない。できれば、ずっと一緒に居られるような、特別な人と愛を分かち合えたらいい。


 不運にもミチさんは出会った人の順番や組み合わせが思わしくなく、ああいう行為をするきっかけを生んでしまった。回数や人数までは分からない。でも、きっと一人だけじゃなかったと思う。雰囲気だけで伝わってくる。


「謝らないでいい。生きていたら、そういうこともあるよ」


「…………」


 じっと僕を見ていた。励ましてあげたつもりなのに、その瞳には、熱さや冷たさがあるでもなく、ただ暗い闇が支配する。吸い込まれそうな黒にゾッとして言葉が出なくなる。数秒間の沈黙が漂った後、静けさを切り裂くように声を発したのは、彼女が先だった。


「この頃、夢を見る」


 そう言われて、借りていたノートにあった構図を思い出す。例の馬は出てきたのか尋ねると「自分しか居ない」と即答された。それも、必ず自分が何かに殺されそうになる夢だと語った。小説を書いている時期は僕もよく夢を見るが、ここで聞かされているような酷いのは全然見ない。


「……生きていて、楽しい? どうして、みんなは生きているの?」


「それって、どういう――」


 すぐ近くの体育倉庫の裏側から、ざっ、ざっ、と足音が聞こえてきた。


「じゃあ、死ねよ! お前なんか消えて居なくなれ」


 女の、吐き捨てるような声が聞こえた。ミチさんに向けられた言葉だった。とても看過できなかった。姿を現したそいつに、僕は全力で掴みかかり、拳を振り上げた。その刹那の出来事に、暴言を浴びせられた気の毒な少女は、男性の堅牢(けんろう)な拳を、一回り小さいてのひらで包んでくる。触れ合った手の感触で我に返り、構えていた右手を頭の方の位置から腰の辺りまで下げる。


「帰るね」


 ミチさんが言った。ワダチは憎しみをたたえた顔を、より一層攻撃的な目付きで強化し、そちらをにらんでいる。二人で通った所をたどるように、一人だけで歩いていく。このまま帰らせるものか。


 離れていく少女を急いで追い掛け、またその手を握った。微弱な抵抗を試みているようだが、無理にでも引っ張る。観念した彼女は黙ってついてくる。一瞬、振り向くと、後ろに居た憎しみの女も走ってきていた。元運動部の脚力、かなり速い。


 僕たちは体育館の横を過ぎて、校舎の周りをひたすら走った。一旦、校舎内に戻る。まだ鍵は閉まっていなかった。靴箱へ戻ってきた。二人とも上履きに履き替えるでもなく、革靴を脱いで、靴下のまま階段を駆け上がっていく。なるべく上の階へ行き、人気のない階に出た。おにごっこかかくれんぼをさせられている気分だ。汗が止まらない。


「はあ、はあ。さっき、あいつが言ってた、あれ、気にする必要、ないからな」


「…………」


 息が乱れる。ミチさんは言葉数が減少し、すっかり鬱々としていた。


 手は握ったまま、二年生の教室が並ぶ廊下を一直線に走り抜ける。反対側の階段の入り口まで移った。しかし、すぐそこを降りず、立ち止まって、手すりと手すりの間を見下ろす。一番下までの高さは数メートルだが、目が回る。怖い。……だれも来ていないみたいなので、ゆっくりと階段を降りていく。


 靴箱まで戻ると、革靴がもう一組増えていた。汚れた靴下でも靴を履き、 足早にその場を移動する。しかし、校舎の入り口に来て繋いでいる手に強い抵抗があった。


「ミチさん?」


「もういい。どこにもいきたくない」


 それは本心なのか。あのノートでのミチさんは、馬に乗って、どこまでも旅をする情景を思い浮かべていたはずだ。そして、馬の役目を果たせるのは、今のところ僕が適任だ……。


「今日、君を連れて僕は走った。これからもそういう夢を見たっていいんだ。僕はそのための馬になる」


 瞳の奥の闇が晴れたわけではなかったが、意志が感じ取れるくらいの明度だった。


「あたし、あなたの場所になれる?」


 不思議な表現だと思った。でも、いいかもしれない。帰ってくる場所(=家)、見送ってくれる場所(=玄関)、一休みする場所(=寝室)、最後の場所(=墓)、ミチさんがそれらのような存在ならば、退屈しないだろうな。


「お互いを知り合っていけたら、なれるかもしれない。手始めに、僕のこと、イオギ先輩じゃなくて、ユウって呼んでみてよ」


「ユウ?」


「特別な呼び名に憧れるんだ。家族からはユウシュン、ユウシュンって言われるけどさ。ユウはミチさんだけが知ってる僕の呼び名だよ」


 固く引き結ばれていた唇が緩む。判別しにくいが、少しだけ明るさが戻ったように見える。たくさんおしゃべりをして、もっと笑った顔が見てみたかった。でも、ゆっくりしてたら追い付かれる。校舎の施錠もいつされるか判らない。


「そろそろここを移動しないとまずいかな。帰ろうか」


「うん」


 僕たちは出会ったばかりの時の、なんとなく居心地のいい関係に戻れた気がした。付かず離れず、適度な距離感を保ちながら意見の交換ができる。そんな雰囲気だ。


 校舎から離れつつ、二人で駐輪場の方へ歩いていく。


「見た夢をノートに書いてきなよ。次に学校で会ったら、一緒にその『夢日記』を見ながら話をしよう。約束だ」


 ミチさんは相づちを打ち、一人で校門の方へ去っていった。




 それが最後に見たミチの後ろ姿。


 ノートの最後のページには「ゆう」というでかい文字と似顔絵みたいなのが描いてあった。ぐしゃぐしゃのぐるぐるまっくろだが、どうやらこれが俺らしい。字のところが一際しわしわになっている。


「あの子には、何が見えていたのだろうな」


 話し掛けられても、近くに座っていたクジョウはノートの中を一切のぞこうとはしなかった。それに、さっきから血の気が引いたような真っ青な顔で、両膝をぴったり付けて、腕を組み、背を丸めている。


「イオギくん……」


 声を震わせている。クジョウの視線は俺ではなく違う所を捉えている。見てみたら、部屋の出口だった。特に何もない。


 だが、しばらくして部屋の電気が消えた。テレビ画面も点いてない。停電したみたいだ……。




   5


「ヨォ、ヨォ。ヨォ、ヨォ」


 真っ暗な部屋、扉の向こうから男性だか女性だか解らない変な声と、どんどん、と叩く音がする。尋常じゃない状況になっている。いくらなんでも、これを前にして怖くないなんて言うやつが居たら、そいつは嘘だろ。 


「いや……」


 俺は考えてみた。何がこの状況を作り出しているのか。ノートを取り出してからのクジョウの様子。ノートは踏切で見付かった。俺はミチがクジョウをそこまで「呼び出した」のだと思っていた。公園で再会したミチはノートについては言わなかった。単なる言い忘れか。後々こうなるなら、なんらかの警鐘を鳴らしてくれただろう。つまり、これは別の何かの仕業(しわざ)か。


「面倒なモン連れてきやがって」


「…………」


 同級生の返事はない。室内は真っ暗で何も見えない。扉を叩く音とうなり声は途切れることなく続いている。耳を澄ますと、規則的で無機質な連続で、人間業(にんげんわざ)とは思えない奇怪さだ。機械的な響きにも思えたが、生きているモノの発する音声ではなかった。このままここに居ても危険だ。ホラー映画だったら、びびって、じわじわ殺されるんだろう。わけの解らない現象で命を奪われるなんて間抜けが許せるか。殺されるにしたって、ただでは済まさんぞ。内にある恐怖心を怒りで上書きし、全身に覚悟を込めてソファーから勢いよく立ち上がる。


「なにをするつもり、なの?」


 突然の声にびっくりした。暗闇のそこに座っているであろうクラスメイトは弱々しく問い掛けてきた。扉に向かって、視覚が頼りにならない室内を手探りで一歩ずつ近付いている。


「叩き潰す」


 壁際を伝うと行き止まり、扉がある。振動と音がするからここで間違いない。自分で開けられないなら、俺が開けてやるよ。取っ手を握り締め、勢いよく押してみる。


「……あれ、全然動かないぞ。なんだこれ」


「……引くのよ」


 言われなくても判ってる。現に、それを試そうとしていた。扉を室内に向かって引っ張ると、手応えはあるが固い。廊下側へ強い力が働いている。手だけでは動かせず、両足を前後に開いて全身を使う。時々勢いを付けながら闘っていると、部屋の電気が点き始めた。窓付きの扉からのぞく廊下にも明かりが戻る。そして、部屋のすぐ外にだれかが立っているのが見えた。扉に密着しているのでそいつの判別は難しい。


「だれ……」


 クジョウの声は終始怯えきっていた。正体がなんであろうと容赦しない。むしゃくしゃする。抵抗が段々と弱まり、ようやく扉が開いていく。完全に解放すると、体の小さい女がこっちに倒れ込んできた。知っている女子だった。


「その子、いつからここに」


 倒れてきた女をソファーの端に寝かせつつ、クジョウの隣に座った。それからしばらくしてお店の人が謝りにきた。店のブレーカーが落ちたそうだ。店員も相当動揺していた。


 店員が部屋を出ていくと、あんな事があったせいかクジョウは畏縮(いしゅく)している。


「大丈夫か」


「……イオギくんはなんでそんなに平気なの? 今の、絶対なにかおかしい」


 俺は先日あった、学校近くの公園での出来事を話した。オオクラの様子が本人とは違っていたこと。彼女の体から憑き物が消えていったこと。あれは「憑依(ひょうい)」の類いだ。霊が生きている人間の体に乗り移る。なにかの漫画やアニメでもあった。「幽☆遊☆白書」とか「地獄先生ぬ~べ~」とか「シャーマンキング」とか。なお、悪魔憑きや神憑り(かみ-がかり)は科学でも証明されていない。


「そんなことが……。演技ではなくて?」


 あの純粋な人物に、そんな本格的な芝居はできないだろう。やったとしても、必ずぼろが出る。そう俺が指摘すると、クジョウは納得していた。テーブルの上に置かれた「神曲」を手に取って、地獄篇の表紙を感慨深そうに見ている。


「神を信じたくなる気持ち、今なら解る気がするわ」


 亡くなったベアトリーチェの死を受けて詩集「新生」が書かれた。それを経て名作「神曲」が生まれることとなる。彼は生前の彼女と折り合いが悪くなったらしく、進展もないまま永遠の別れを迎えることとなる。ダンテは既婚者ではあったが、幼少期から惚れていたベアトリーチェへの固執が強く、新生や神曲にその性質が現れている。ここまでがクジョウの話だった。


 俺は正直なところ、亡くなった恋人を愛し続けるのは、ばからしいと思った。いつか、だれかに「生きている限り人間は馬鹿だ」みたいなことを言ったのを覚えている。その一方で、死んだ人は過剰に美化されるきらいがある。生前は取り合わず、居なくなってから「あの人はすごい人だった」では、都合が良すぎる。ダンテもベアトリーチェが死ぬまで、彼女に対して弁明や和解の努力をするでもなく、詩に逃げ続けた。詩人としての彼は尊敬できても、一人の男としてはとても……。


「ベアトリーチェから見たら、ダンテはただのうじうじしたおっさんだろ。一方的に執着されて迷惑な話だ」


「きっと世相も関係しているのよ。当時の13世紀イタリア北部では、教皇派と皇帝派で争いがあった。彼の故郷、フィレンツェは教皇派。もちろんダンテも兵士として戦った。最終的に教皇派は勝ったけど、教皇派内部の対立もあった。その末に故郷を追われた彼は旅先で、生涯を費やして、これを書き上げた。過酷で厳しい時代を生きて、変化していく環境にストレスもあったでしょう。そんな詩人ダンテの心の支えは古い恋心だったのではないかしら。その後、彼は作品と共にイタリアの誇りとなった」


 元の調子に戻りつつあるクラスメイトは「神曲」の本を鞄に仕舞い込んだ。彼女が「イタリアの誇り」とまで言う、ダンテの、気持ちが解らないでもない。思慕が崇拝に至るまで、どれだけの地獄を見てきたのか……。


 俺の場合、運命的な女性を失った悲しみは、人生を過ごしていくうちに、いつか消えてしまうだろう。訪れる別れは何人も避けられないものだ。それが早まったと考えれば、どうってこと……。


 泣いていた。テーブルの、開かれたままになっているノート。その最後のページに書かれている「ゆう」へしずくが落ちていく。しわしわになっていたのは、そういう事だったのか。


「……さっきのアレ、私が連れてきてしまった、のね」


 口ごもりつつ、ぼそぼそとしゃべっている。正体の解らないモノが来ていたのは間違いない。横になって倒れている小柄な女は寝ている。霊的な何かがあの踏切に居た。それがここまで連れてこられたと考えればいいのか。だとしたら、ミチが死んだのも……。


「そいつの仕業、か」


 その直後、俺は立ち上がり、天井に向かって力の限り怒鳴った。「おい!」「どこに行った!」「そこに居るんだろ!」「出てこい!」「ぶっ殺してやる!」「いい加減にしろ!」「隠れてないで出……


「やめて! イオギくん」


 身を乗り出した同級生に真正面からしがみつかれた。人の感触が伝わってきて、憎しみの渦から引き上げられた。


「もしも、ソレが実在するのなら、あなたまで飲み込まれちゃだめよ。お願いだから落ち着いて」


 見上げてくるクジョウは潤んだ目を眼鏡の奥で光らせ、折り曲げた両腕を俺の体に押し付けながら体重を預け、ワイシャツの胸の辺りをぎゅっと掴んでくる。こちらの心臓に耳を当ててきて、後ろに縛られてまとまっている髪からシャンプーの匂いがする。


 灯りに照らされ、テレビ画面にカラオケの告知やら宣伝やらが映し出されている。無駄に広いソファーと無駄にでかいテーブル。解放感がなく、窮屈な、カラオケボックスの個室には、もう来たくない。




 カラオケ料金は、後から入室したワダチの分まで負担させられた。クジョウはその半額を支払うと言ってくれたが、俺が断った。どうせ学校から俺の後を付いてきていたのだろう。つくづく疲れる(憑かれる)やつだよ、こいつは。


 夕暮れ時、三人でバス停まで歩いている。なかなか意識を取り戻さないワダチは俺に背負われて、ぐうすか寝ている。いい身分だ。クジョウは青みがかった橙(だいだい)色の空を仰ぎ見て、考え事をしているようだ。カラオケボックスから駅までは遠くない。普通なら徒歩五分くらいで着くだろう。女子をおんぶしている俺の歩調がゆっくりなので、少しだったら話をする時間がありそうだった。


「ノートには何が書いてあったの?」


 かいつまんで、その内容を伝える。


 前半は様々な科目の授業の痕跡がある。それがあの帳面の元々の使い道だった。それから、俺の書いた四ページ程度の小説、三編の漫画に、ミチの書いた最後が破れている意味深長な詩、あとは俺が思い付きで書いた子供向け恋愛小説。それ以降、帳面は持ち主の元に戻り、しばらくは授業の内容が続く。その後、樹海を舞台にした物語風の長い夢日記が書かれている。夏休み中、俺は見るに留め、何も書かなかった。残るページはすべて、恐ろしい夢について書かれている。帳面の最後には、俺が俺だと解る似顔絵がある。


「代用ノートを作るほどのうっかりさんだったんだ。死を示唆する夢の数々、想像力が豊かすぎるというのも大変なのね」


「お前、本当に見なかったんだな。普通、気になって見るだろ」


「私は危険を冒してまで好奇心に身を委ねない」


 豊富な知識を有する人間さえも、おそれおののかせるほどの魔力。ノートそのものではなく、ミチを脅かした存在がクジョウを次の標的にしようと、ついさっきまで彼女の周辺に居座っていた……のだと思う。幼い時ほど「聞いたり」「感じたり」はできなくなったが、死後のミチに会い、それらの実在を知っている俺には耐性がある。こちらから手を出さなければ、ほとんどのやつらは何もしてこないだろう。だが、人の弱さに付け込む病気みたいな連中は悪質で、酷い場合、お祓(はら)いをしないといけなくなるだろう。


「今日はイオギくんが居てくれて助かった。ありがとう」


 俺の方こそ、あのまま怒り狂っていたら、何か良くない事が起きていたかもしれない。それはそれとして、強気で隙のない女子にもちゃんと弱点があるのだと判った。


「夜、眠れなかったら俺のことを思い出してみ」


 「いい気にならないで。怖かったのは否定しないけど、あなたの態度にはひたむきさがないわ」


「いいさ。それでも」


 適当な返事をして遠くを眺める。カラスが電柱の先端に止まっている。気付いたのは俺だけではないらしく、視界を隣に移してみたら、クジョウもそちらを見ていた。あと、すでに駅周辺に来ている。


「ネバーモアだから生まれたものもある」


 いつか話していた、オオガラスのやつか。あの時に聞いた「絶望や孤独は、あなただけのものではない」、まだその意味が解らなかった。


「イオギくんも小説を書くなら、ダンテみたいに、作品に情熱を注ぐのもいいかもしれない。絶望はあなたを決して一人にはしない。『確かにそこに居ただれか』が寄り添う、孤独の形もある」


 相変わらず解りにくい言い回しだったが、意味はちゃんと伝わった。一人だから、一人じゃないのだ。どちらかが先に居なくなっても、喪失から生まれた孤独は終わり(=別れ)と始まり(=出会い)が繋がっている。だから、ミチの死によって得られた孤独は俺だけのものじゃない。俺たちのもの。


「生きている限り、あなたは一人じゃない。私も。……じゃあ、また学校で」


「じゃあな」


 バス停にて、クジョウは停車していたバスに乗り込んで帰った。


 俺は背負っているこいつを家まで送り届けてやるつもりだった。だが、ちょっと疲れたから、駅の近くの広場で、背中から女を降ろして座らせる。その隣に腰掛けて一緒に休憩する。ここで初めて、こいつと待ち合わせをした日を思い出していた。一人で街をうろついていた時、確かにミチに会った。だが、あえて声を掛けなかった。知らない振りをした。目の前の色欲に負けたのだ。俺は大した男だ。それでこの様だ。


 眠っている女の前でしゃがみこみ、その小さな体を背中に乗せる。これじゃあ、まるで俺が馬みたいだ。なんで泣いてんだろうな。クソが。


「ごめんね、ユウシュン」


 なんの前触れもなく、いきなり声が発せられた。


「お前……。いつから起きてた」


「クジョウ先輩に『俺のことを思い出してみ』って言った時。聞いてて、すごくドキドキした」


 ワダチを背中から降ろして、向かい合う。


 その顔は魔女というより魔法少女の趣だった。成長の乏しい体とあどけない顔立ち。ミチよりも長く同じ時間を過ごしたから見慣れている。付き合うっていうのはそういうことだ。


「っせえな。あんなの真に受けるやつがあるか。帰るぞ」


 俺が先を歩いていくと、素直に後ろをついてきた。近くに停まっていたタクシーに乗り込んで、そいつの自宅周辺のコンビニを行き先に指定する。運転手はにこにこしている。過去に何度も利用しているから、このおっさんとは顔見知りだ。


 車の後部座席から外を見ていると、夕日は沈みきって宵の口だった。こんなちっちゃい女が一人で居たら、どっかのクズがいたずらでもしてくるんだろうな。いい年した野郎が体は一丁前のくせして頭はガキなんだ。同年代同士がくっついていりゃいい。その方が過不足なく歩んでいける。どいつもこいつも、どうせ年は取るんだ。ロリコンなんかこじらせてんじゃねえ。


 車は目的地で停まった。会計になり、料金はワダチが払う。釣り銭をもらわないのもいつも通りで、もはや驚かない。運転手に好かれるわけだ。


 タクシーを降りると、コンビニの駐車場だった。二人でお店に寄っていく。倒れていたわけだし、何か飲み物くらい飲ませてやりたかった。オレンジジュースを手に取る。一応、これでいいか尋ねるとうなずいている。一人分だけなのも気まずいだろうから、自分用にお茶を買う。商品をレジで精算してもらい、俺が料金を支払った。袋には入れてもらわず、買ったそれぞれを手に持って店を出る。


 お店の駐車場で休憩を取る。レシートに印字されている日付と時刻を見たら、もうすぐ七時になるのが判った。こいつの家の人、心配してるだろうな。明かりがわずかに差し込む所に立っている。面倒くさいやつらが居たら、男女ってだけで絡まれそうな状況だが、うまいことやって退ける自信はある。


 そんなことを考えてたら、そばでしゃがみこんでジュースを飲んでいる女がこっちを見上げている。さっきからやけにおとなしくて、おかしくはないが気味が悪い。


「ユウシュン、さっき泣いてた。……居なくなって、つらいよね」


「お前には関係ねーだろ。はやく忘れろ」


 悲しくないはずはない。だが、思い詰めていても浮かばれない。すぐにとはいかないが、欠けた穴っていうのは少しずつ受け入れて、浸透していく。だれかが居なくなっても人はそうやって生きていく。


「なんかね。今、すごくいい気分なんだ」


「よかったな」


 ワダチは俺と居る時に見せた、安心しきった態度だった。いつもこうだったら文句はなかった。


「今までごめんね」


「気にしてねーよ。お前のことはまあまあ知ってるから」


「ユウシュンとは関係ないところで生きていく。お別れがしたい」


 前にも同じようなことを聞いた。だが、本当の別れではなかった。今回は信じてもいいのか、その顔に問い掛ける。いつになく真剣なツラで気に入った。ワダチとはいろいろな意味でたのしくやらせてもらえたから、別れを切り出される度に寂しかった。だけど、別れると言うのだから、別れてやるのが筋だと思っている。むしろ、俺は積極的に一人で居ることを肯定している。


「いいのか?」


「うん」


 会話と同時に休憩も終えた。ワダチは立ち上がり、俺の前を歩いた。コンビニの駐車場を出て、住宅街のある方面へ行く。二人は口を開かず、一定の距離感を保ち、部屋の電気が灯っているマクラギの家まで到着する。彼女は庭先へ通じる門を背にして、こちらを向いて言った。


「さようなら」


 この後、俺たちはもう二度と会わない。そんな気がした。