1
広い野原の上に立っていた。空はどこまでも広がっているみたいで、かなたには一番高い山が見える。あの樹海はその山のふもとにあって、あたしはどうにかしてあそこから抜け出したみたい。心地よいそよ風に吹かれて、相変わらずあたしは薄手のワンピースを着ていて、足元がすーすーするのが気になった。裸足で踏みしめた大地は穏やかな草に被われていて、すっかり新しい季節を感じさせた。かたわらには白く光るお馬さんが居て、王子さまが乗っているわけじゃないけど、それどころかあたしがその白馬の背中に乗った。すごく優しい目をしたお馬さんで、背中の上は温かくて、風を切ってあたしをどこまでも、どこまでも遠くへ運んでくれた。体重を任せて、走り出した勢いのまま揺られていると、段々と眠たくなってきた。
「また、寝てる。早く起きな。卒業式始まるよ」
――(名字)、友達に声をかけられて目が覚めた。教室にいた。一年間を過ごした、嫌なことも……嫌なことばかりだったけど、もうここに来ることはないんだ。きたる3月、どこの学校でもこの子のいう「卒業式」はおとずれる。いよいよか。中学での3年間も決して楽しいものじゃなかったけれど、どうにかこの日までやってこれたんだ。卒業式なんてたいしたことないと思っていたはずなのに、声をかけられるとなおさらおおげさに感じられた。――とは、ついこの間、誤解もなくなって、よく話すようになった。誤解の元になっていた男子と付き合えたみたいで機嫌がいいの。あたしには関係ないことだけど、一応おめでとうと言っておいた。
卒業式は体育館でおこなわれた。壁は赤と白の幕で彩られていて、壇上の奥には国旗と市の旗がみえる。関係者が、一同に介するっていうのかな、とにかくたくさん集まってた。1、2年生の後ろの方の席では保護者たちが集まってる。あたしの親も来ていた。あの人は、あたしじゃなくてあいつのために来ているようなものだと思う。今朝だって、一言も話さなかった。父親はあたしたちが物心をついた頃からいなくて、母親は自分一人で二人の子供を育てていることに関してはなにも言わなかった。ただ、あたしのことは捨ててたんだと思う。どっちかといえば、あいつの方が男の子ってだけで優遇されてて、なにをするにも先だった。あたしはそれに不満をいう気はない。あたしが優遇されたとしたら、あいつが今のあたしの立場になるだけ。二人のうち一人がこういう思いをするのはしかたないんだって割りきってる。
国旗の上の方に大きく、この式の名前が記されている通り、先生や偉い人たちに見守られながら卒業証書の授与がされる。一人一人が担任の先生に名前を呼ばれて、元気な返事をしている。壇上に上がって、校長から卒業証書を受け取って礼をしている。違うクラスに居たあいつがあたしよりも先に呼ばれた。わざとらしい返事で、辺りにかすかな笑い声が生まれる。産まれた順番がちょっと早かったからってだけで、兄だなんて思ったことは一度だってない。親から愛情を受けて育った分、人懐こくて心に余裕もあって、あたしとは違い周りの人間から良く思われてる。顔もそこそこいいから彼女もいる(この前、そう自慢してた)。けんかが弱いくせに、偉そうなのがむかつく。
今度はあたしも呼ばれた。これをもらったら、もう中学生としてのあたしは終わるんだ。終わりは始まりの前にあって、始まりもいつかくる終わりの前にある。卒業証書を受け取って、壇上から降りながらそんなことを考えていた。新しい始まりに、……期待に胸をふくらませるなんて気分じゃない。でも、悪い気分じゃなかった。少しずつ前に進んでいるのなら、そのままどこまでも突っ切ってしまいたかったから。
卒業式は偉い人たちが祝いの言葉をしゃべって、在校生代表がしゃべって、卒業生代表がしゃべって、校歌を歌って、式歌である「旅立ちの日に」を歌った(国歌も最初の方に歌った。短いから印象が薄い)。歌っている最中に泣き出してしまう生徒がいて、一部のところでちょっと声がゆらゆらしてた。毎年の秋頃におこなわれた合唱コンクールが終わった時にも似たようなことを思ったけど、なにも泣かなくてもいいでしょ。男子は平気そうな顔をしているけれど、女子は何人かが泣いてた。あたしは泣くほどじゃなかった。
式の終わりが告げられると、1組から立ち上がり、名前の順の早い人から規則正しい間隔で歩いて退場する。あたしも隣に居たクラスメイトの女子の、後に続いて体育館の出口へ向かう。その時に、会場の中央の道から左右を挟んで並んでいる保護者たちの席を通りかかって、ふと親の姿を探しているじぶんがいた。そこにいたおかあさんはハンカチで目元を脱ぐって泣いているみたいだったけど、あたしにはその理由がはっきりとはわからなかった。あいつは、あたしよりも先に退場してた。
開放的な春の空気に満ちた、体育館の外では、いろんなところで生徒たちが集まって記念撮影をしていた。部活動に入ってた人たちは、後に体育館から出てきた後輩たちに別れを惜しまれている。あたしは学校でなにもやってなかったから、そんなに親しい後輩はいなかった。クラスメイトだった人たちは、馴染みの人たちと一緒になって4月から通い始める高校について話しているみたい。じぶんと関係のない人たちを校門から少し離れた場所で、ぼんやり観察していると、制服のそでを引っ張られた。
「ほら、おかんのとこ、いくぞ」
兄貴面してくるこういうところ、ちょっと腹が立つけど、今日だけは気にしないで「うん」と答える。体育館の方にはおかあさんがいて、それからあたしたちもきょうだいで2人並んで写真を撮ってもらった。それからカメラを他の人に頼んで3人でも撮った。こんなにおかあさんがはしゃいでいる姿を見たことはなかった。
2
「話は最後まで聞くこと。つまり――」
時候は既に春を迎え、吹き抜ける一陣の風とあきれるほど何も手につかない眠気が僕を襲っていた。春一番の妖精と形容しても差し障りない、この饒舌に語り続けている女子生徒とは三年生に上がってから親しくなった。なんでも、僕が日本史の時間にふざけてモトオリをモリナガと勘違いして、「チョコボール食べたくなりますね」とボケたら、教室内は一斉に沈黙。……かと思われたが、斜め向かいの席に座っていたこの子だけが、くすくす笑っていた。あのボケにモナカをかけたら、たぶん受けたかもしれない。そもそもモリナガではなく、ノリナガ(古事記伝で知られる江戸時代の国学者だっけ)なのだが……。
昼休みに話し相手として付き合わされている。僕の席までイスを持ってきて、互いが昼食を終えると、この女子はせきを切ったかのように、僕の好きな日本のアニメに関する話題や動画共有サイトの作品についてしゃべっている。校内では、常時眼鏡をかけているからおそらく視力は良くないのだろう。首元に達する髪は後ろでまとめていて、伸ばしているようにも見て取れる。身長は女子の中でもそこまで高くないが、どちらかと言えばふくよかな肢体(したい)をしていて、油断していると発育顕著な胸に視線が吸い寄せられる。彼女は、僕が学校のパソコンを使っているのを横からのぞき見て、それでそんな話をしているのだろう。まるでオタク会話だ。
部活動をやめた僕は、それまで練習に費やしていた時間を学校で過ごすことにしていた。パソコンの使用については二年生の春休み前から、勉強という名目で、担任の先生にパソコン部屋の鍵を返すことを条件として許可を得た。三年に上がってからは、クラスメイトであるクジョウが「勉強」に付いてくるようになった。
パソコンでは手始めに、日本のアニメについて調べて、その作品名や詳細についてまとめた小冊子を作ってみた。テレビが放送され始めたのが1950年代くらいで、最古のテレビアニメは1958年「もぐらのアバンチュール」という作品だ(この前にもあったらしいが……)。しかし、当時は単発アニメが多く、連続放送のアニメは1961年の「インスタントヒストリー(=1962年「おとぎマンガカレンダー」)」までアニメ作品自体少なかった。漫画原作で有名な「鉄腕アトム」や「鉄人28号」が放送されたのはその1963年のことだ。80年代から緩やかに作品数が増えてきて、2000年代(ゼロ年代)からは深夜アニメの作品数が圧倒的で、まとめるのが大変だった。ちなみに僕が好きなアニメは「デュラララ!!」もそうだが、「魔法少女まどかマギカ(オリジナルアニメ)」や「Fate/Zero(ノベル原作)」が特に好きだった。
僕はギリギリまで専門か短大辺りの進学を希望していたが、そのための資格も取れなかったから高卒で適当な就職を志望しているのに対して、彼女は有名大学への進学を志望している。休日は塾に通っているらしいが、平日は「移動すると効率が悪い」という理由で、学校に居残って閉め出しの時間ぎりぎりまで勉強をしている。一年の時も二年の時も、よその教室にこの子が残っているのは部活に向かう時に見掛けていたから、だいぶ前から顔は知っていた。当時は知的な印象が強かったから、関わるとは思っていなかったけれど、思いのほか庶民的な態度で好感が湧いた。むしろ、少し演技っぽい言い回しが好きなようだ。いわゆる「厨二」ってやつだ。クジョウは僕がパソコンを操作している横で、黙々と勉強しているが、一定の間隔で中断して絡んでくる。骨休めのつもりなのだろう。
「ちゃんと聞いてる? ユークリッド幾何学ではこれを――」
いつの間にか幾何学の話になっているが、おそらくアニメの話の延長線上にあるのだろう。ちなみにクジョウは絵にも優れていて、即興で見事なイラストを描き上げる。一頻り会話を終えると、満足したように自身の席にイスを戻し、勉強か読書を始める。放課後も一緒に居ることから、クラスメイトは僕たちが彼氏彼女の関係なのだと噂をしていて、僕らを見る視線もまた生暖かいもので困る。クジョウはそれについてどう考えているのだろうか。
クジョウとの関わりもあってか、高校三年生の僕はクラスの女子と気軽に話せるようになっていた。中学生の頃は気恥ずかしくて、話し掛けることすら困難だったが、軽い冗談を言えるくらいに進展した。それ以前の話になるが、じつは部活動をやめた後に、よく話し掛けてくる後輩ができた。
僕が中学生の頃までは、当時のクラスメイトで剣道をしていた女の子のことが気になっていた。授業では、忘れた教科書や辞典を貸してくれて、いろいろ親切にされた。英語や国語の時間に、必要な会話をする機会があって、本当に少しだけ話をした。そんなことで心が引かれた。彼女によく見てもらいたくて外見に気を遣い始めたし、強くなりたいと思った(人見知りは直らなかった)。放課後は学校の格技場で剣道をしていて、剣道着の彼女もまた、座敷わらし(褒め言葉)みたいでかわいらしかった。通り掛かって剣道部の練習を見る機会があり、その小柄な見た目に反して勇敢で正確な剣さばきで、大会でも成績を残すなど非常に強かった。同学年で剣道をやっている人は少なくて、その人は中堅だったかな。大将は、勝ち気でもっと強い女子が居た。ちなみに剣道部の顧問は学年主任の、ちょっと嫌な感じのする教師なのだが、剣道の有段者である。当の彼女は小学生から剣道をしているらしく、地元に道場があって時々行く、と他のクラスメイトと話していた。さらに聞き耳を立てていると、三年生の頃に彼氏ができたとうれしそうに話していた。この人とは長年同じクラスで、席替えして三回以上、隣同士の席になったから、もしかしたらもしかするかもと、めでたい考えでいたのだが、現実はこんなものだ。
ちなみに、中学で僕が二年ほど片想いしていたその女子は、同じ高校に通っていて剣道を続けている。僕が剣道部に興味を持っていたのは彼女のこともあったが、単に得物を使った競技を志したかったのもある。僕が最も得意とする武器はトンファーであり、この前通販で購入した(慣れないとひじにぶつかって痛い)。
その人の彼氏さんは高校から剣道を始めたそうで、なんかちょっとうらやましかった。だが、高校の剣道部の顧問が鬼のような指導をする人らしく、内心でほっとした。入らなくてよかった。彼女の恋人である彼は顔立ちが整っていて、おどけた感じが僕とキャラ被りしていて嫌だ。一年の頃に同じクラスだったが、教室でケータイがなったり突然坊主頭になったり、なにかと目立っていて気に食わなかった。当時違うクラスに居た、例の彼女も時々会いに来ていて、むかつく以外の何者でもない。
彼は部活動を三年生になっても続けているみたいだが、中学から剣道を経験している後輩たちには劣る模様。学校の広報で貼り出される、大会の成績を見た感じ、彼女の弟さんの方が強いらしい(姉弟とも小学生の時から習っているという話を彼女が過去にしている)。このところ男子剣道部で最強なのは、万年坊主頭で、僕と同じ中学出身の、その頃から剣道の大会で度々表彰されていた男(自宅に道場があるという噂。威圧的で、中学時代から何かと僕を睨み付けてくる。同じ小学校だった者の話によれば、髪がストレートだった時期もあったらしいが、もはや坊主頭じゃないと違和感が生じる域に達している)。
放課後になると剣道部は格技場で稽古をしている。そこは柔道部の居る畳の床の所と、剣道の試合で基準となる四角い線で囲われている床の所で、二つに分かれている。踏み込みの足音や掛け声、打ち込れる竹刀のぶつかる音が響いてきて、物騒な感じがする。僕が慕っていたあの人の声は思いのほか大きく、二年生の時までは僕の部活動の練習する場所が近かったから、それとなく音は聞こえていた。三年生になってからは、運が良いときは剣道着の彼女が部室棟周辺を歩いているのを見掛ける。女子は、剣道部で人数の多い男子と違って更衣室がないみたいなので、他の女子部の更衣室を借りているようだ。
もう彼女への片想いは完全になくなってしまったのだけれど、強い女性には一定の尊敬と憧れはある。そういう人は総じて魅力的だ。その女子生徒は、中学の頃から、保育士になる夢を同級生と話していたが、僕は保育士がそこまで好きではない。通っていた保育園で、保育士の、子供の扱いが極端に差別的で、あまり良い記憶がない。当時の僕は、親の影響で暴力的な面があったのは否めず、それは結果的に、ずっとずっと年上である保育士の機嫌さえも十分に損なっていた。お昼寝はなかなか寝付けないし、寝ても起こされずに数時間放置されていたし。広間で目覚めた時には、自分の居る布団以外は全部片付けられていて、それこそ無人島に一人きりみたいだった。よくもまあ子供にそんな仕打ちをするものだ、と怒りたい。善悪の境界が定まっていない子供は何気なく虫を殺すし、感情のまま友達を叩くだろう。それに対する仕置きにしては残酷すぎるとは思わないか。教育に見せ掛けたいじめも同然だ。一方で保育士も人間だから、子供の性格への好き嫌いはあるし、聖人ではない。子供好きのお姉さんに裏の顔があっても珍しくない。それでも、僕が片想いしていたあの子ならきっと、剣道に取り組む姿勢と同じく、一生懸命に子供たちと向き合うだろう。
僕自身は部活動をやめてしまって帰宅部になったのだが、当初パソコン室でアニメ研究をしているのを聞き付けた陸上部の顧問が、うちの部で競技をやってみないか、と誘ってきた。もちろん断った。強い熱意で勧められたのだが、この時期に始めたところで結果が出せないのは目に見えていたし、陸上は潜在能力も必須だ。筋肉量が乏しく、腕力も脚力も体幹も貧弱な僕には引き出せる身体能力はないに等しかった。どうしてもと言われたから、春休みに数日だけ部活動見学に付き合わされた。部員たちはだれもかれも足の速い人たちだったが、僕もほどほどに走れたから、彼らには及ばないが練習にはついていけそうだ。記録を出せるかどうかは保証できないが……。
その後、当時のクラスメイトで、陸上部の男の子が居て、僕が入部を断った件についてこんな話をしていた。「イオギ(僕の名字)はストライドがあるから、筋力も鍛えれば良い記録出せるのにな」自身の身長を気にしているような口振りだったが、彼は陸上部の短距離とリレーの主力選手で、同学年の中では最も俊足だと言われていて、実際100mや200mではだれも彼には追い付けない。野球部の連中も結構な走力を持っていたが、やはり走ることを熟知している彼の方が分はあった。一年生の頃に体育でマラソンをした時、僕の方が走るのは速かった(抜かされたにも関わらず、「いいねえ」と言って褒めてくれた)が、二年に上がってからは彼の方が速かった。僕はストレートよりも大型トラックを延々と走る方が得意だったし、長身だから走る距離が増すほど体格の利は活きた。短距離走では、選手の潜在能力がこれでもかと要求されるから、現状の限界を見極めないと無茶をしてけがをしやすい。すぐに記録が出るわけではないから、一定のリズムで柔軟体操や休息などの体調管理は怠らないようにする。どの競技にも言えることだが、体を用いた活動には好調と不調がある。僕も運動部に居たから分かるが、試合の流れは技量の差をのみ込んでしまう。それくらい調子が大事なのだ。それゆえに超人的な集中力を保たなければならないし、アスリート(競技者)はアスリートで大変だ。
顔に青あざを作って一週間近くどんよりしていたが、周囲の人たちに恵まれて、学校での僕は退屈していなかった。立ち直るまでに苦労したが、きっかけはあった。顔面が恐ろしい状態になっていて、他の生徒としゃべらないようにしていた二月が終わる時期の昼休みに、人通りの少ないはずの体育館周辺で、後輩から声を掛けられた。足下に転がってきたボールを「取ってくださーい!」と頼まれたから、言われた通りに拾って、返してやった。すると、そいつは「練習に付き合ってくれませんか?」と遠慮がちに尋ねてきた。人の居ない所を、一人でやっていたらしい。バスケは、僕も体育の自由時間に、(自分が弱いから)試合に混ざらず一人でよくやっていた。ドリブルもシュートも全然上手くなかったが、利き手である左手だけで放つと、なぜか遠くから打ってもリング(ボールを投げ入れる赤い輪)に入ることがよくあった。「黒子のバスケ」という漫画が深夜枠でアニメ化されていたから、僕は頻りに緑間というキャラの真似をしたがった。しかし、あのロングシュートは練習でもなかなかできるものじゃなかった。
ふさぎ込んでいた僕を気遣っている感じが見え見えの女子生徒は小柄すぎて、中学生くらいに見えた。もっと言えば、中学二年よりは下のような顔立ちをしていた。それでもこの学校の一年生の体操服(まだ寒い時期なのに半そで半ズボン)を着ているから、三月生まれでない限りは十五才より既に上だろう。髪はロングの中でもロングの部類で、むろん運動のために縛っていた。ヘアアレンジというのか知らないが、工夫した縛り方をしている。それでも毛先は背中の中央に達していた。体が小さいことを考慮しても、解いたら腰に届きそうだと思う。あどけない顔を印象づける、ぱっちりした目をしている。きれいな長い髪に目がいくが、体の発育は他の人よりは遅いらしく、とにかく少女みたいだった。アニメキャラとして見るなら、古風なメイド服が似合うだろう。
体育館の隅に女子の制服が、やや雑に脱ぎ捨てられている。大きさから見て彼女のものだ。僕も制服の下には半そで半ズボンを着ていたが、そのままの格好(学ラン)でバスケをした。「1on1」と呼ばれる形式で何本か真剣勝負をした。僕は一応175cmを超える長身だったから、ゴール下のフリースローサークル(円い線)の中からスリーポイントライン(大きな半円の両端に線を二本足したようになってる線)の内側までであれば、普通にシュートして即得点できるはずだった。
目前の後輩は、身長差をものともしない瞬発力を見せて、僕がドリブルをしたら即行でスティール(ディフェンスがオフェンスのボールを奪う)してきて、シュートをしたらボールが手を離れた瞬間にはブロック(ゴールに投げられたボールが空中で落下を始める前に防ぐ)をしてくる。この女子、明らかに運動部だと判る動きをしていた。僕は少々ムキになって、どうにかして点を取りたかったが、オフェンスを譲られても五本くらい連続で取られて、くじけた。いよいよ六本目の勝負になり、僕はとっさの思い付きで、後方のスリーポイントラインの方に飛び退きながらシュートを放つと、彼女はブロックするためのジャンプをしようとした直前に気付いたらしく、一瞬ボールを見上げたくせに、どういうつもりか僕の方に突っ込んできた。
ボールはリングのど真ん中に吸い込まれて「バシュッ」と見事な音を立てたが、空中に居た僕は、反則行為に訴える彼女の体重を正面から受けて、背中とひじを強打した。のしかかる少女は僕の体重よりも軽いので大惨事にはいたらず、どかそうと思えば簡単だった。しかし、彼女は自分から一歩下がって、半ばはいつくばりながら「今のナシっ! 今のナシだよー!」と子供らしくごね始めたので、僕はさすがに闘争心の熱が冷めた。
「わかったよ……。お前の勝ちでいいよ」
あのシュートは一応、正確な名称があるみたいだが、大人げなかったと反省している。さっきのやつは、この身長の女の子には止めるすべがないのだ。僕の態度が相当応えたのか、「よしっ」と胸の前で握りこぶしをしている。なんかむかつく。
起き上がった後輩は、ゴール下から拾ってきたボールをドリブルして、フリースローサークルからシュートをした。縛られた後ろ髪が揺れ、三本くらい連続して入れて見せる。すると、倒された位置で動かずに座り込んでいた僕に向き直って、ブイサインをしていた。そろそろボールを倉庫のでかいカゴに戻すと、ずっとそこに置かれていた制服を手に取って、着始めた。その間に僕は立ち上がって歩き、体育館の入り口付近から壇上の幕の右脇の壁にある時計を確認する。十三時十八分……。もうすぐ予鈴(よれい)が鳴る。
すみやかに体育館を出ると「待って」という言葉に呼び止められた。体育館の外で髪を解いて、なで整えながら、こちらに近寄ってくる。想定以上のロングヘアで、ちょっとだけ胸の鼓動が速くなる感覚がした。
「わたしは一年のワダチ。あなたは?」
名前を教えてやると、その場で「ユウシュン!」と呼び捨てにしてきた。前の部活動の後輩もそうだが、この頃の若者は礼儀を知らんな。そう思っているうちに予鈴が鳴り、僕は普通棟を目指して渡り廊下を歩き始めた。後ろからさっきの女子のものと思われる足音もする。一階の渡り廊下の他にも、特別棟に入って廊下を迂回すれば、ここよりも早く一年の教室に戻れるはずなのだが、一緒の道順を同じ速さで来る。足を止めずに、階段を登って、そのまま二年生の教室まで行くが、入り口に到着するまで付いてきた。
「ここがユウシュンの教室か。わたし女バス(女子バスケットボール部)で練習してるから、会いに来てもいーよ」
わざわざ他のクラスメイトに聞こえる声で言う。僕は「わかったわかった」と適当に受け流した。ワダチさんとやらは満面の笑みを浮かべてすぐ、廊下を全力疾走していった。その先で現れた二年の教科担当の教諭に注意されている。僕は見ているのもばかばかしくなって、自分の席に戻った。
二年生の時のクラスメイトが僕にそれとなく「マクラギワダチ」について、知りたくもなかったが、教えてくれた。彼は、ワダチと同じ小学校と中学校を卒業したと話した上で、校内でも問題のある人物だったと告げ口してきた。その外見がきっかけでいじめられていただとか、同級生の首を絞めようとしただとか、その学区内では有名な話らしい。高校に入ってからは目立った話はないとも言ったが「気を付けろよ」と心配された。ちなみに彼は中学の時に、ワダチにふざけて告白したらしいが、振られたんだとさ。ただ一言、「死ね」と言われたらしい。末恐ろしい。
3
「あーっ、すっかり忘れてたよ。今度やっとくから。すまんっ」
三年になってからの、担任の先生はどこか頼りない。アルバイトの許可を申請したものの、なかなか返事がこないと思って、聞きに来たらこの様子。ふっくらしててどこかおちゃめというか、生徒たちのマスコット的な風貌をしているのだが、怒ると怖い。担当は意外にも数学である。僕は最初に彼を見たとき、文系科目を連想したが、理系だったとは。これだから人を見掛けで判断するのは間違いだと思う。
先生の不手際があって、僕はなかなかアルバイトをできずに居た。放課後の職員室を出て、パソコンを使ったアニメ研究にもそろそろ飽きていたから、鍵は借りずに廊下を歩いている。クラスメイトのクジョウにはその旨をもう話しておいたから、教室に居るだろう。
四月に入り、すっかり鳴りを潜めていたが、マクラギワダチの居るであろう体育館に行こうかとぼんやり考えていた。髪を結んでいる、小柄な女子生徒を思い浮かべて、僕はなんだか年頃の恥じらいを感じてしまった。見た目はかわいらしいと思うが、いろいろとわけありらしい事も聞いて、その話の内容は半信半疑くらいに思っていた。高校に入ってから雰囲気が変わることを「高校デビュー」って言うらしいのだが、僕はどうだろう。
中学生の頃は、小学校の時よりも知らない生徒があまりにも多く、内気になってしまうことが多かった。音楽の時間や集会では、一貫して歌を(唄うときに)よく唄う生徒だったのだが、社交的な生徒ではなかった。剣道部のあの子を気にする以前は、他校出身のクラスメイトで、バレーボール部に所属していた短髪の女の子に片想いしていたのだが、話す時は敬語になってしまうしバレバレの盗み見をしてしまうしで、はっきりと気持ち悪がられてしまった(シマウシってシマウマの仲間か?)。僕が部活動でグラウンドを走っていたら、バレーボール部の一年生たちが屋外を使って練習していて、近くを通り掛かった時に声を合わせて「気持ち悪ーい」と言われた。聞き間違いでなければ、僕は最悪な振られ方をしたことになる。まだ精通すら経験していない、いたいけな少年の心は粉々になった。次第に、中一の僕は短髪の彼女を嫌いになった。それどころか、女子のことが苦手になってしまった。中二に上がって、例の剣道部の女子と関わるようになって、どうにか気を持ち直したが、僕は学校を卒業するまでずっとバレーボール部の声を引きずっていた。
あと、僕の精通は中学三年の終わり頃だった。お風呂の中で気持ちよくなることをしてたら、頭の中が真っ白になって、手で触っていた部位から不意になにかが出てきた。それまでは、体がけいれんするだけでなにも起きなかったのだが、出てきたときは気持ち悪かった。体から変なものが出たと思って、戸惑いもあった。その日、湯船は清掃したし、お風呂の湯は張り替えた。その後も、僕は度々トイレでそれをやっていて、出てくるものがなんだか気持ち悪いものに感じられて怖かった。ところが、しばらくすると、その体液をじっくり見てみたくなり、ティッシュペーパーを何枚か重ね合わせて、その上に出してみた。相変わらず出てくる時の勢いが強くて、部屋の周辺にもしぶきが飛んだ(拭いた)。受け止めた体液は変な臭いがした。病気か何かかもしれないと思って、やっぱり怖かった。その後、家に居る時、おやじの居ないリビングの、ケーブルテレビ番組でエッチなビデオを見たことがあって、画面の男性がベトベトした白い体液を出す描写が時々あった。僕の体液は最初、ほとんど水っぽかったけれど、高校に入ってからはちょっと粘りけが強くなってきた。
ケータイを買い与えられたのが高校からで、僕はiモードでFC2というサイトを利用し、当初は変なケータイホームページの作成をしていたのだが、何かの拍子でエッチな動画を見る習慣ができていた。性的な気分になると、それを見ながら気持ちよくなることをしてしまう。ひどい時には一日に何回も行い、その分すごく疲れた。連続すると、体液の量は少しずつ減り、触っている部位が内側の方で痛みを感じ始める。終わった後は、寂しい気持ちになって排出された液体をトイレで流した。
高校三年生に上がってからは落ち着いていた。やらないでいたら時々したくなるけれど、一年生の時ほど回数は多くない。話を戻すが、高校デビューと言えば、エロ動画が好きになったことくらいだろうか。中学までは、好きな人の事を思い浮かべながら、たまにその子の名前をささやきながらやったり、無駄に息を乱しながらやったりしていた(その方が気持ちが乗る)。つまり、思春期の盛りの頃は、とにかく助平だった。僕はそれを自慰行為とか「抜く」とか言うのだけれど、やった後は数日の間、心無しか顔付きが貧相というか不健康な感じになるから、なるべくやらない。世間ではこれを「オナ禁」と言うらしい。まだ僕には行為をやめるのは難しそう。
性格の方は、中学に比べて話しやすいふうになったと思う。口数は少ないままだが、つまらない意味深なギャグを授業中に度々口にする。目立っては居るだろうが目立っては居ないと思う(矛盾)。
さて、職員室で担任の先生と話をした後、僕は体育館の入り口に居た。制服姿で、館内の様子をうかがってみると、いろいろな部活動が練習をしている。しかし、女子バスケットボールは居なかった。体育館は特別棟の隣にあり、渡り廊下を進んだ先に普通棟がある。特別棟の裏手から体育館の前を横切って陸上部が走っていく姿が見える。また、特別棟とは反対側にサッカー部の居る校庭と、その奥には広大な野球場がある。校庭の方から、体操着の女子の集団が歩いてきていた。大勢の女子に言い知れぬ拒否感を覚えたが、知っている生徒がそこに居る。一部の女子は変な大きめなボールを持っていて、屋外の倉庫にそれを片付けている。あれを練習で使っていたのだろうか。彼女たちが体育館の近くまで来ると、悟られないように普通棟の方を向いて柱になったつもりで突っ立っていた。ちら見すると、体育館に隣接する倉庫の周辺で、彼女たちは各自で準備運動を開始している。見たところフットワーク(走る)を始めるようだ。
「あー!」
見つかった。聞き覚えのある声がして、その女子が近くまで駆け寄ってくる。他の部員たちは、僕の居る渡り廊下周辺から、少し離れたところに居たが、ワダチは近いところで準備運動をしていた。もうすぐで僕は渡り廊下の入り口から普通棟に移動して去るつもりだった。話をする気はなかったが、少しだけ立ち話に付き合わされた。やがて部員たちはどこかに走って行ってしまった。ワダチは全然動じなかった。
「行っちゃったぞ。お前も行かなくていいのか」
「……初めて来てくれたね。ずっと待ってたんだけど。しかも今日外練だし。最悪」
体育館の割り振りがあるらしく、この日、女子バスケ部はコートを使えないそうだ。その分、練習時間は短めで、体力作りを優先した陸上部みたいな特訓をしている、と愚痴っていた。僕はこの日まで自分からワダチに会うことはなかった。三月の春休みが過ぎて、ワダチが三年生の廊下をうろうろしていることは度々あった。同級生たちは「なにあれ、小学生か?」「ちっちゃくてかわいい」みたいなことを言っていたが、当の本人はだれかを探しているようであった。僕は居残っていた割りに、クジョウと途中まで下校するのが日課で、これまで体育館に来ようとも考えていなかった。なにより話したいことがなかった。
「いつも一緒に居る人、居るよね。眼鏡の。地味なの。あれ彼女?」
屈託のない、どちらかといえば穏やかな表情で尋ねてくる。その手の問答はクラスメイトの女子にも世間話程度に聞かれるのだが、僕はその都度正直に「友達だよ」と答える。彼女らは面白半分に話のネタを欲しがっているみたいだから、僕にはそれがどこか腹立たしくもありわずらわしくもあった。ワダチのそれは興味からというより、どこか不思議な圧力を帯びた口調だった。いつもの返答でいいのか若干の不安が過り、言葉に詰まってしまった。
「あれ。図星? ふうん」
僕はクジョウと断じてやましいことはない。パソコン室で二人きりになることはあったが、あそこには透明な仕切りがあって、向こう側の部屋で常に文化系の部活動の生徒の出入りがある。それが広範囲の生徒に二人の誤解を招く要因になっているのだが、まだ手を握ったことすら三秒以上見つめ合ったことすらない。言葉が出なかったのは「友達だよ」で納得してもらえるかどうかで心の争いがあり、うまいこと言おうと思ったけれど、なにも出てこなかっただけなのだ。
ワダチは上目遣いな表情を、人懐こい小動物の様相から一変して挑戦的な刺々しさを浮かべていた。その瞬間、交際相手が居たとすれば、この子は僕を嫌うのだろうと悟った。初めて体育館で身を寄せ合った時に伝わってきた鼓動が、僕の体は忘れていなかった。ここに足を運んだのも単なる気紛れではなくて、それに通ずる気掛かりが僕をここに呼び寄せたのかもしれない。
「ああいう人が好みなんだ。わたしより頭が良さそうで、お胸もあって、メンタルも強そうで……」
部員たちが走り去った方向から、一人の女子生徒が戻ってきた。学校の半そで半ズボンを着ていて、ワダチよりも年上に見えるが、その色合いから一年生だと分かる。ワダチはすでに二年に上がっているが、一年と同じ色の体操服を着てもいまだに違和感がないだろう。こちらに会釈をしつつ、身長に恵まれた後輩が「マクラギ先輩、部長が怒ってます……」と伝言を残し、足早に去っていった。話にある女子バスケ部の主将は、当時の先輩チームと善戦して、前年の(校内)球技大会では存在感を放っていた。外見はごく一般的な女子生徒だが、バスケがとにかく上手い。そんな先輩に怒られようとしている二年生は言葉もなく、僕のもとを走り去って行った。年頃の女の子の気持ちはよく分からない。感情の触れ幅だとか、すごく魅力的な笑みをすると思ったら、一転して不安そうな顔をしている。僕はちっとも面白くない心境になり、渡り廊下を歩いた。
学校の敷地内に立つ、細長い棒の先端に丸い時計が付いている。まだこの日は十六時二十五分くらいだった。これからパソコン室に行く気にもならず、靴箱で革靴に履き替える。アルバイトの候補は既に決まっていた。祖母の姪(めい)に当たる人(父のいとこになる)が勤めているスーパーがあるのだが、そこで働かせてもらえることになった。面接で採用をもらったが、学校の許可がなかなか降りない。大抵の生徒は許可を取らずに各々が勝手にアルバイトをしているみたいだが、僕は学校にケータイを持ってこないような生徒だから、愚直にも決まりを遵守した。遅刻は度々するのに、変なところで頑固なのが我ながら不可解なのだ。
駐輪場に停めていた自転車に乗って帰る。この日は家に着いたら、ケータイ小説を書こうと思った。
四月末日の放課後。アルバイトの許可は依然として降りなかった。担任め、また忘れているな。ということで、僕は陳情(ちんじょう)のため職員室へ再び足を運ぼうとしていた。一階にある職員室へ行く途中、階段で女子生徒と擦れ違った。下から上がってくる正面の生徒を左に避けようとしたらその子も左に避けてきて、右に避けようとしたらその子もまた右に避けてきて、顔を見合わせたまま微妙な空気になってしまった。おそらく後輩だと思うのだが、僕は「ごめん」と言って押し通った。そこで、ある事に気が付いた。この生徒、上履きを履いていなかった。生徒はみな、学年毎に色の違う屋内用の靴を履いているはずなのだが、この子だけ黒い靴下で歩いているのだ。教室に戻る途中のようだから、気になって尋ねた。
「君、何か探してる?」
「別に」
擦れ違った暗い雰囲気の女の子はすたすたと上の階へ姿を消した。その後をこっそりつけてみると、女子生徒は一年生の教室が並んでいる廊下を歩いていた。教室はほとんど施錠されており、彼女は廊下の端に置かれていた自分のものと思われる学校鞄を持ち、また歩き始めた。やがて、先程とは違う方角の階段を通って、靴箱のある一階へ降りていく。このまま帰ったら、次の日もこの子の困る姿が思い浮かんだ。
彼女は革靴に履き替えて、足早に校舎を出て行ったが、僕はしばらく学校の敷地内をうろうろしていた。駐輪場や草木の茂み、中庭、校舎裏などを見て回った。校内では陸上部が走り回っていた他、体育館の方から運動部の掛け声やボールの音、特別棟の方からは金管楽器の音が響いていた。校門に差し掛かって、校外の道路を眺めてみたが、あの女子生徒の上履きらしきものは見当たらなかった。もしかしたら、単に持ってくるのを忘れただけ、なのだろうか。高校で上履きを持って帰るのは決まって終業式の日くらいなもので、小学生の時みたいに頻繁に洗うことはなかった。気になる人は毎週持ち帰って洗うかもしれないが、そういう生徒はここには居ないと思っていた。
「なにを探しているの?」
後ろから女の声がして、不意のことで僕は素早い動きで向き直った。
階段で擦れ違った、靴下の女子生徒だった。靴箱を去ってからもう三十分は経過して、帰っているはずなので、その姿になおのこと驚かされた。改めて観察すると、前髪が長く陰気な感じの生徒で、長めのスカートによって膝が完全に隠れている。そっぽ向いて目元の髪をわずかに分けながら「また買うからいいよ」とつぶやいた。
「僕が探しているの、見てたのか?」
彼女はこちらをいちべつし、「階段で会ってからずっと付いてきてたから、その仕返し」そうして「なんで探そうと思ったの」と尋ねてきた。
僕は小学校低学年までは、保育園の時のように乱暴で意地っ張りな性格をしていた。自分より弱い相手に対しては、叩いたり蹴ったりすることがあった。しかし、ケンカをしていたのはそれだけに限らず、体格の大きい同級生とやりあったこともあるし、先輩相手に挑んだこともあった。大きな同級生とは、高学年になってからお互いに思いやれるようになった。先輩は、優しい人も居れば気性の荒い人も居た。体の小さかった僕は上級生に勝てるわけでもなく、よく泣かされては姉貴に面倒を見てもらった。やがて高学年になり、僕は相変わらず気に食わない同級生をどついていたが、他の同級生にサッカーボールを顔に当てられて痛い目に合わされて、その後もいろいろあった。とにかく「いじめ」というのは身近なところにあって、その罪や重さに気が付くのは、ずっと先のことなのだ。当事者の僕としては、もういじめはこりごりだが、人間に好き嫌いや心の弱さがある限り、年齢を重ねてもなくならないであろう。
この女子生徒に至っては、どういう経緯(いきさつ)か知らないが、上履きを履いていない状況だった。僕は無意識のうちに過去の罪をすすぐつもりで探し回っていたのかもしれない。時々善意があるのは、やましいことを許してもらいたい心のためではないか。僕の場合、他者への親切は、まったくの自己犠牲から起こったためしがない。
「勘違いしないでほしいんだけど、君が明日も靴下で学校の中を歩いていたら、僕の気分が悪いからだよ」
顔が熱かった。耳まで熱かった。ツンデレを意識したわけじゃなくて、自然と口をついて出た言葉だった。相手の顔を見る勇気もなく、急いで顔をそらした。足音がするでもなく、まだ視界の外には女子生徒が居るような気がした。おそるおそる、そこに視線を注ぐと、彼女は肩から提げている学校鞄の口を開け、中のものを片手でごそごそと探っている。程なくして布製のペンケースを手に取り、その中にあった一つを掴み、こちらに差し出した。
「謝礼」
確かにそう言っていた。彼女から受け取ったのは、PILOTのDr.Grip 0.5の白いシャーペンだった。僕は鉛筆を愛用していたから筆圧が強く、ノートの字は濃くて太かった。シャーペンは家で稀に使っていて、中学生の時にいろいろな種類のものを買い集めたが、結局鉛筆に落ち着いた。ちなみに、おすすめはトンボよりMITSUBISHI。Dr.Gripは姉貴のお下がりを持っていたが、使わないから祖母にあげた。要らない文具はほとんど祖母にあげる。
だが、女子生徒にもらったDr. Gripには魔力のようなものを感じた。
「ありがとう。大事にするよ」
お礼を述べると、彼女はさっさと歩き去った。校門を出て、その先の信号で止まり、ケータイを見ているようだった。僕も家に帰るか。悠長にそう思ったが、忘れていることを思い出して、再び校舎へ引き返していった。
アルバイトでお金を貯めたら、僕には欲しいものがある。
4
「先輩、わたしと勝負しなさい!」
もうすぐで五月の連休を迎える、平日の昼下がりだった。女子バスケ部の外練を眺めていた日から、僕の周辺は騒がしい。その声の発信地は三年生の教室だが、重要なのは二年生が一人紛れ込んでいるということだった。彼女は年齢よりも若く見える容姿をしているから、なおのこと室内の十七才、あるいはすでに十八才、の生徒たちの群れでは目立っていた。
「はあ。イオギくん、いつになったらこの子は私を認めてくれるのかしら。唇はおろか手が触れ合ったことすらないというのに」
声の聞こえてくる視界の端でクラスメイトは助けを求めているが、僕は自分の席で白いシャーペンを見ていた。あの一年生とは、再び顔を合わせることがなかった。前髪が長く、後ろ髪は肩の辺りまで伸びたセミロングで、背丈はそこまで高くない女の子。上履きを履かずに階段や廊下を歩いている姿が思い浮かび、もやもやしてくる。
愛用している小さめのペンケースにDr.Gripを戻し、一人、席を立った。
僕は放課後に訪れたことのある、一年生の教室を巡っていた。まだ昼休みの最中だから廊下は生徒たちの話し声で賑わい、ガラス越しの視線には、気恥ずかしさと気まずさを感じた。人探しを装い、例の教室を扉越しにのぞいてみる。空席も目立つが、生徒たちが室内の各所に固まって雑談をしていた。やがて、上級生の存在に気が付いた女子が、こちらに近付いてくる。物腰が穏やかそうな容姿端麗の生徒に、「だれか探してるんですか?」と鋭い質問をされた。聞かれてから、相手の名前を知らないままであることを強く意識させられ、返答は滞った。探していると言えば探しているが、ここにそれらしい人物は見当たらない。
「前髪で目が隠れている生徒が居るって聞いたから、どんな人かと思って……」
機転を利かせて、あえて名前を言わない体裁を取った。すると、一年生の女子は口を引き結び一旦止まり、「あっ」と言った。続いて「それって、ミョウレイさんのことかもしれない」と教えてくれた。昼休みになると教室を出て、どこかに姿を消すらしい。あの子がどんな昼食を取っているのかは、クラスメイトでさえ知らないようだ。
居ないことが分かったので、対応してくれた生徒にお礼を言い、その場を去った。この直後、室内から「なんだって?」「ミョウレイの知り合いみたい」というやり取りが喧騒に紛れて聞こえた。先のやり取りまでは聞こえなかったが、平和な感じはしなかった。午後の授業が始まる前まで、近くで張り込むのも一つの作戦として思い浮かんだが、他の一年生になにかを勘繰られてもよくない。やはり元居た教室に戻る。
自分の席に戻ると、騒がしかった斜め前の席にはだれも居なかった。一方、僕はケータイ小説の構想をノートにぼんやりと書き出した。人前では集中できないから、教室で小説を書くことはないが、題材ならよく考えていた。身近に感じ取った出来事から連想したり、あったかもしれない状況を想定したり、断片的に走り書きをする。他人に解らないように、わざと雑な書体だ。見返した時になって、自分でも意味がよく分からないことが多い。
僕の作風は登場人物が消えて居なくなる風のカタストロフィが大半だ。恋愛小説じみたものを書くときは、とことんまで読者を甘やかす。一見、二人は本当に幸せそうな時間を共にするけれど、第三者による襲撃や不慮の事故で、愛が満たされる前にはどちらかが死んでしまう。残された方の男の子か女の子は茫然自失になって静まり返る。それが愉快で、書いていて楽しかった。
インターネットでの交流が主だった僕には文通をしていた女性が確かに居た。彼女ははたちを過ぎていて、姉貴より年上だ。その割に、僕の方が精神的に年上のように思えることが多かった。その人の手紙の返事はいつも遅くて、難しくない漢字の間違いが時々あった。僕は誠意を示すため、返事の届いたその日のうちに、わざわざ最寄りの郵便局のポストに手紙を投函していた(どこで投函しても回収されてから届くまでの日にちは大体同じだろう)。
最短なら投函からおよそ三日くらいで届くのに、最後の返事は半年以上待たされた末に届いた。そこには「他に好きな男の子ができた」とあり、近所の学校に通う高校生だとか言っていた。遠距離恋愛を経験したところで、やっぱり近場の人がいいのか……と思った。もう返事はしていない。もらった手紙は、A4のクリアファイルをスクラップブックに見立てて、便せんと封筒をいつでも見返せるように、四点の切り込みを入れた中紙に差し込んで保存していた(割りと大変な作業だった)。その紙類を一枚一枚取り外して、庭のたき火で燃やした。ファイルは日常の事務で使い回しているが、愛用していた高価なバインダーは焼いた。僕は手紙のやり取りをするうちに好きだという気持ちが強まったのに、相手は僕の文章に満足していないみたいだった。格式ある手紙を意識して敬語を使うようになってから、彼女の返事はいくらか素っ気なくなった。
燃えていく手紙を見ながら、彼女の「(ユウシュンに)もらった手紙、じつはいくらか捨てちゃったんだ」という文面を思い出した。……胸がずきずきと痛かった。ゆらゆらと揺れるたき火の熱が、じりじりと顔をなでてきて、しとしとと頬を降りていく涙は蒸発しそうだった。何が「好き」だ。子供っぽい封筒に書かれた丸い文字が灰に変わっていくのと同時に、僕の心には黒い憤りがごおごおと湧き上がっていた。全部、消えてなくなればいい。
「イオギくん。あの子、本当にどうにかしてくれないかしら」
その声で、数か月前の悪夢から覚めた。
体操着姿である、声の主はワダチに度々どこかに連れていかれて、体育館でバスケをしたり校庭のグラウンドで競走をしたりしている。始め、僕も審判として同行を求められていたが、結果は歴然としていたため、三日目からはむしろ見に来ないでほしいという雰囲気が強まっていった。
クジョウは平均よりやや控えめな身長に、まるまるとした体格だが、飽くまで体質によるものであるらしく、お昼の食事量は男子の僕に比べたら少なく、不健康を感じさせる体つきではない。バスケは僕よりも上手で、瞬発力や走力も、並みの女子よりは鋭敏な動きをする。昼休みの勝負では、あの後輩に負けるようなことは一度もなかった。
「なんだかかわいそうになってきたわ。まるで私が悪いことをしたみたいなんだもの」
僕が八百長を打診すると「それはいや」と即答された。この人のまじめな性格からは無理もないのだが、後輩が勝つまでは延々と勝負は繰り返されるだろう。長そでの体操着を脱ぎ、体の輪郭を強調している白いシャツが一時的に露になるが、その上からワイシャツをまとい、膝が半分見えるくらいの無地のスカートと、取り立てて色気のないブレザーの、紺が基調の制服に着替え終えると女子にしては珍しくネクタイを締めており、放課後の予定について尋ねてきた。
そろそろバイトの許可が降りるのを待つだけになったため、放課後に残る日も減る。まだ彼女にそのことを伝えていなかった。業種や時間帯、労働時間などに問題はなく「審査は無事に通るだろう」と担任は言っている。だが、アルバイトをしている事を他の生徒には極力知られたくない。
この日は学校に残り、クジョウもいつものように付いてくることになった。
放課後のパソコン室で、鞄から取り出した書類を眺めている。小説の書き方について、自分なりにメモしてある。アニメの研究が一段落して、執筆活動について考え始めていた。物語を作るにはどういう構成をすべきか。相応しい題材とはなにか。通販で中古の関連書籍を買い漁っていたが、どれも手付かずだった。書き始めた頃は、行き当たりばったりの適当な小説だったが、高校に入ってから知識を少しずつ取り入れるようになった。その最たる特徴として、構想を立ててから話を書くようになった。先を見据えているから物語が書ける。結果の見えた創作には少し不満を覚えていたが、完成させたければ、終幕の構図を思い描く必要がある。それで実際に何編か書けていた。
それから数分が経ち、パソコン室の扉が開いた。クジョウは決まって後から来る。毎回、古ぼけた専門書を持って現れる。図書室で借りているようだ。学校の勉強だけに留まらず、率先して学問にのめり込んでいるようにも見える。僕の隣の、車輪付き回転イスに腰掛け、鞄を床に置いている。そして、脱いだ上着を背もたれにかけ、ワイシャツ姿になった。ネクタイも外して机の隅に放る。その機械的な一連の動作に最初、僕は戸惑ったが、次第にそれが平常通りの姿勢らしく思えてきた。大人っぽい体の作りをしている当の本人は、いつもの真顔でこちらをちらりと見て、すぐ勉強に戻る。
「この頃、何か気の抜けた表情をしているけど、悩みごとでもできたの?」
クジョウはペンを持った手を動かしつつも、時々話し掛けてくる。彼女が口火を切り、当たり障りのない小さな会話だったり、あまり知られていないような小話だったり、大した内容ではないがしゃべる。ここに居る時間は二人にとって、意思疏通を図る機会でもあった。
僕は、例の上履きの履いていなかった生徒について話をした。昼休みに会った一年生たちの雰囲気についても触れ、必要以上に多く語ってしまった。その間、クジョウは手を止めて、こちらを向いて話に耳を傾けていた。対して僕は斜め上の天井の蛍光灯を見ながら話した。
「クラスから孤立しているのかしら。そういう子は、今の学校が楽しくないのかもしれない。登校拒否になる前に、だれか友達ができるといいのにね。……もしかしてイオギくん、その女子とも揉め事を起こすつもり?」
見たら、疑念の眼差しが向けられていた。揉め事とは、ワダチの事を言っているのだろう。僕は必死に弁明した。僕の方から何かを要求したのではない、と。むろん、ものわかりの良すぎるクジョウは「わかっているわ」と牽制した上で「イオギくん、しっかりしてね」と付け加えた。それから僕が勝負の結果について尋ねると、またバスケの対決が行われたそうだ。その話題になると彼女は筆記を再開し、手を動かしながら淡々とワダチの弱点を暴露していた。今回もクジョウの圧勝だそうだ。
あと、試験や模試が立て続けにあって、運動する時間がなかなか取れない事を憂い、体格の悩みを吐露していた。僕は「今のままでもおかしなところはないよ」と言葉をかけ、クジョウは口を閉ざしたきり本のページをめくっている。お互いに目の前のことに集中し、会話はしばらくなかった。
パソコンを使って、学校のホームページを閲覧する。学校行事や学科の説明などが書かれていた。ここの入学試験を受ける際、僕は点数が充分に取れなくて不合格になるとばかり思っていたが、文系の成績がまあまあ良くて(国語は九三くらい)合格できた。偏差値と呼ばれるものが合否の指針としてよく利用されるが、僕は数字や図形のことになると文章ほどの理解力が及ばなくなる。もしかしたら、偏差値が低かったにも関わらず、この高校に受かってしまったのかもしれない。とにかく~値と定義されるものや、アルファベットがごちゃごちゃした式は大嫌いだ。数学では、定期考査でも五教科の中で最も点数が低い(五〇点台より上はほとんどない)。
勉強嫌いは直らず、依然として自宅での学習には消極的だ。なぜなら、頭が難しいことを嫌うから。自分には理解できない、と脳が受け付けない。ただでさえ集中力も持たない飽き性なので、日頃使わない分野にはとことんまで拒絶が伴うから困る。
「イオギくん」
唐突に声をかけられて驚かされた。僕が「はいっ」と答えると、クジョウは眼鏡のレンズ越しに見詰めてきた。そこまで意識してこなかったが、だいぶ長いこと目を合わせてしまった。頬はもちもちしていて、お鼻は小高く控えめな構えで、肉厚な唇は固く閉ざされ、切れ長の目、その奥の瞳はきらめいている。意識したら、この人はこういう顔だったのか、と意外な心境になる。普段そこまで他人の顔をじっくり見ないから、余計に動揺した。いよいよ唇が動いた。
「私、親に言われているの。……良い大学に入って卒業したら、医者か弁護士、それか一流企業で働く人間と一緒になれ、と。私もその考えには共感できるし、合理的で正しい選択だと判っている。それでも、関わる人間は、自分自身で選ぶべきだとも考えている」
能力のある人間が、同じくらい優秀な人間と共に生きる。クジョウみたいな人は堅実な生き方をするのが望ましい。僕の育った家庭は、両親がどちらも下流階級の出だから、年収が多いわけでもなく、持ち家のローンと仕事のことで手一杯みたいで、旅行や教育にお金をかける家ではなかった。彼らは高尚な考えを持たず、大体の勘で生きている。僕もまたそういう人たちの血が流れている。自分を変えるでもなければ、所詮は下級国民だ。そして、僕は順調に平均以下の将来へ向かう。多くは望まず、最低限の生活ができたらそれでいい。クジョウのような向上心はない。
「そうだね。クジョウは意識高いから、立派な人と一緒になれるよ。これからが楽しみだ」
目を逸らしながら笑い混じりに言って退けた。直後、「ちゃんとこっちを見て」と純度の高い声で注意を受けた。クラスメイトの眼差しには、普段のまじめさに加えて鬼気迫る緊張感が込められていて、切実な光が灯っていた。僕は先生に怒られた時と同じような気持ちになり、再びその視線と真剣に向き合った。
「私は……あなたと一緒に居るとすごく楽なの。たくさん話をしても嫌そうな顔をしないで聞いてくれる。時々、聞き流している風だけれど。何かを考えながらぼーっとしていることも多い。それでも私はイオギくんをもっと知りたい。この感情に浮わついた名前を付けたくない。ただ、本心ではこう思っているわ」
精一杯、平然とした口調を保っているが、言葉の端々におそるおそるとした抑揚が紛れており、クジョウの意外な一面をのぞき見てしまった心地だった。
「できることなら、ずっと関わっていたい」
心無しか瞳がきらきらしていた。思いを聞かされた僕はこそばゆくなった。一つだけはっきりしていることがある。僕たちはそういう辛気くさい仲ではない。小学校低学年の男女同士が無邪気に、昨日見たテレビ番組の話をする。あの頃に感じた仲である。僕も小学生の時にはそういう友達が居た。異性だったけれど、異性ということを気にせず、家に遊びに行ったりお出掛けをしたりした。二人きりで居ても、何か特別な事をしようとも考えなかった。その時の、懐かしい気持ち。
クジョウにはお礼を言った。こんな僕だけれど、気にかけてもらえることが本当にありがたいことだ。彼女には彼女の向かう将来があるから、僕がその航路を狂わせてはいけない。本当は、こわかったのかもしれない。僕の気持ちが自分勝手な方向に傾いて、最終的に相手を不幸にさせてしまうことが。やはり、彼女とは肩の力を抜いた姿勢で相対するのが僕の性(しょう)に合っていた。たった一言でしか返事をしなかったが、クジョウは僕の目を見た後、初めて顔を背けた。一瞬黙りこくってしまったが、すぐさまこっちを向いて、言った。
「ずっととはいかないでしょうけど、ここに居られる間は気にさせてもらうわね」
その生徒は気丈かつ気高い面持ちでいた。対する僕は、年頃の男子が抱く興味を多分に有している。それでも男女という極端な関わりでは収まらない、厳かで尊い関係性が僕たちにはあった。人は、それを「親しい友」と言い表すだろう。
この時、クジョウにはアルバイトのことをちゃんと話しておこうと思った。
重苦しい会話があったものの、僕らはこれまで通りの態度で放課後を過ごした。二人で廊下に出て、扉の施錠をして去る。日が落ちて薄暗い学校の廊下は、なぜだか心が踊る。昼間の騒がしさがなく、非常口を指し示す緑色の光が出入り口や階段の方に灯っている。クジョウは鞄を持って、窓から見える夜空を眺めていた。戸締まりを終えた僕に気付き、「そろそろ行くわ」と言い残し、一人で行ってしまった。
その口調からして、僕は嫌われてしまったのだろうか。だが、その気もないのに「僕も君のことが~」みたいな便乗で、嘘をつくのだけはごめんだった。恋は儚(はかな)い。些細なことがきっかけですぐに終わる。クラスメイトの背中は階段の入り口に差し掛かると、僕の視界から完全に消えた。もしも、僕がもっと勉強をできて、なんの後腐れもない人間だったのなら……。仮定の話はいつだって興醒めを呼び起こした。こうして生きている自分自身に疑問を抱いたら、それまでの時間をも否定してしまうことになる。こんな僕だからこそ、と思わなければ、きっと生きていても楽しくない。
特別棟二階のパソコン室から離れ、その通りの廊下から窓越しに体育館を見下ろしてみた。運動部の生徒は、日が落ちても練習をしている。夕飯時(ゆうめしどき)になるとさすがに解散するだろうけれど、体育館の部活動は割と遅くまでやっている。もうすぐ七時だ。正面玄関の、靴箱のある入り口以外は鍵がかけられていて、日直の先生が見回りをしている。早く帰らないと追い出しを喰らう。
鍵を返すため職員室に立ち寄ると、いつも遅くまで仕事をしている担任の先生が馴れ馴れしく話し掛けてくる。「今日はどんな話をしたんだ?」正直に言うつもりもなく、進路について真剣に話した、と適当に答えた。放課後にクジョウがあの場所に居ることを知っている彼もまた、彼女が僕の交際相手かなにかと勘違いしているきらいがある。ふと、僕に合う女性とはだれなのかを考えてみたが、すぐには浮かんでこなかった。
長居せずに職員室を去り、上履きを替えて、早々に外へ飛び出した。学校の外は備え付けの街灯がアスファルトの地面を照らしていたが、周辺に人影はなく、一人で居ると少しだけ寒気を感じる。だれも居ない建物の陰に、人ならざる者の気配があるように思えた。深く意識しないようにして、僕は特別棟の廊下から見下ろしていた場所に向かって歩き出した。
夜の七時を過ぎて、体育館では練習終わりの号令をしたり顧問が話をしたり、生徒たちの帰宅を思わせる雰囲気が漂っていた。人の気配を感じたら、暗闇に追われていた僕の心は癒され、異界から平穏な日常に引き戻された。集合した後、解散した部員たちは部室棟に移動していくみたいだ。
制服姿の僕は暗がりに立っているのもせわしないから、明るい体育館の正面入り口の隅っこに居た。しばらくすると、部室棟の方に去っていた女子バスケ部の生徒たちが制服姿になって出てきた。歩いていく生徒たちに意識を割いていたら、僕は急にびっくりした。後方に運動着姿の少女がいつの間にか立っていたのだ。「来てくれたんだ」とつぶやいてから「待ってて」とお願いされた。
体育館を離れ、僕はグラウンドの入り口辺りをぐるぐる歩いていた。陸上部やサッカー部の生徒たちもすでに帰ったようで、人気(ひとけ)はほとんどなかった。野球部だけは他の部活よりも長いこと練習しているみたいで、タフだなあ、と思う。僕の居た部活の生徒たちはとっくに帰っていて、あまり思い出したくない。彼らと居合わせるのが嫌だから、こんな時間まで過ごしているのも否めない。
部室棟から、制服姿になった小柄な女子が現れた。体育館の周りをうろうろしている。やがて、野球場の灯りに照らされている僕の辺りを見て、小走りに近付いてきた。「帰ったのかと思った」と言いつつ、僕のそでを一度だけ引っ張る。日中のような、はつらつとした声色ではなく、夜だからか、しゃべり方は普段より静かだった。
こんな怪しげな場所で男女二人だったから、だれかに見られる前に僕たちは駐輪場へ移った。いつもよりおとなしいワダチは部室棟や体育館を気にしながら歩いていた。僕が調子を尋ねてみると「なんでもない」と言う。その様子から、明るい事情ではないのだと悟った。
駐輪場には時々、生徒たちが世間話をしながら留まっているが、それは十九時より前のことだ。生徒が帰りに食事や買い物をすることには、学校が推奨するでも禁止するでもなかったが、担任の先生は帰りのホームルームで「判っているとは思うが、遅くなる前には帰ろうな」と言っていた。この学校は特別、校則が厳しいわけでもないが、さすがに髪の染色や装飾品(指輪やピアス、ブレスレットなど)のことはうるさく言われる。僕は一時期、文通相手にもらった手芸品の、フェルトでできたペンダントをひっそりと身に付けていたが、もう着けなくなった(手紙と一緒に燃やした)。髪色については興味がない。僕は自分の頭を絵の具の筆先みたいに考えてはいないから、ずっとこのままで居る。
ワダチに時間のことを聞いてみると、「本当は早く帰らないといけない」と言っていた。高校二年生とは言っても、幼く見える容姿の子が夜八時を過ぎても歩いていたら、何か問題が起きてもおかしくない。僕は駐輪場に停めていた自分の自転車を押しながら、彼女の歩いていく方向についていく。
校門を出てから、遠くない場所にバス停があって、そこで立ち止まった。次のバスが来るまでしばらくの時間があるようだ。それは余程の事がない限り、乗り遅れないような時刻だと思うが、これを過ぎてしまったらどうするのかを冗談混じりに尋ねてみたら「あっ、その手があったか」と、うれしそうに答えていた。どの手のことだろうか。二人きりの静寂は長くなかった。
「わたしさ、前々からユウシュンを知ってたんだ。ユウシュンは、一生懸命、壁に向かってボールを打ってた人、だよね」
部活動の練習が終わった後、そんなことをしていた時期が僕にはあった。やめるまではずっとそうしていたが、あれからラケットすら握っていない。その日の練習に納得しなかった時は、気が済むまで壁打ちにいそしんでいた。他の部活の人たちが帰っていくのも気にせず、ボールを追い続けた。暗くなってくるとそれが難しくなるから、グラウンドの灯りが消える夜の七時半を過ぎる頃には帰る準備をしていた。単純作業で腕前が上達するわけでもなく、試合での戦い方をよく理解しないまま部活をやめた。
練習に付き合ってくれる人も居らず、何より誘われても僕の方から断っていた。一人で居る方が格好いいと思っていた。そうした自己陶酔をのぞかれていたとしたら、一層に赤面せずにはいられなかった。
あの時の僕は、ばかみたいにボールを何千発も打っていたが、それが周囲の仲間を遠ざけていた。ときに無心で、ときに真剣で、意味の解らない反復運動をして、一人の世界に浸っているだけだった。
僕は謙遜ではなく、素直にそう卑下した。すると、少女は「わかる」と同意した上で、鞄を左手に持ち変えて、右のてのひらを自身の頭上にかざした。
「去年、一年生の頃にね、初めて付き合った人が居たの。あの頃のわたし、今よりもばかだったから舞い上がっててさ。『やっとわたしの価値に気付く人が現れたんだ』なんて自分勝手に信じ込んでた」
バスがやってくるまでの間、ワダチは青春の一幕を語り、聞かせてくれた。相手の人がもう卒業した男子バスケ部の先輩だったことや、いろいろな初めてを教えてくれた人だったことなどを。「芽生えてから、大きく育つ前に花のつぼみは枯れてしまった」そういう詩的な表現で話は締めくくられた。
「わたしは自分を認めてもらいたい。必要としてもらいたい。だから、彼の言うことはなんでも聞いた。必要とされている自分のことが好きだった。必要とされなくなってから気付いた。あの時も今も、わたしは独りだってことに。一人の自分に恋をして、独りになった」
別れた直接の理由を伏せていたが、ワダチは不本意に恋の終わりを迎えたのだろう。小さな背中を丸め、鼻息を頻りに吸い込み、声を潜めている。かざしていた右手は胸の前で震えるように握られている。まるで何かに怯えるように。僕は後輩の失恋を慰めることもできず、黙って突っ立っていた。ふと、バスの時刻表に目がいき、焦りを感じた。
5
「今度の休み、僕とどこかに行こうか……なんて」
五月の最初には黄金(の)週と形容される連休がある。毎年、僕は専ら家で怠惰に徹する時期だ。四月で新しい環境に適応できなかった者が陥る、五月病の要因とも目される。休みによって人の心は、斯様(かよう)にして変化せしめるのであれば――
――僕の心は非常に難しい様相を呈していた。油断していると、自分でも解らない日本語が溢れだしそうだった。いかな知力の乏しい僕でも、脳が底力を発揮すれば、文体そのものが変わってしまうおそれも有り得た。
バス停にたたずむワダチは、しばし黙した。僕の体感で十秒は越したと思う辺りで、「行きたい」と答えた。思い付きに任せた慰め。その行き先候補がひとつ足りとも挙がっておらず、まさに行き当たりばったりの提案だった。どこがいいか質問してみると、どこでもいいのだという。深く考えず、近隣の駅を待ち合わせ場所に指定し、連休の初日に会う約束をした。
それからすぐに遠くの方からバスが走って来た。そこに乗り込んだワダチは、入り口に近い座席に座り、こちらに手をそっと振っている。自転車のサドルに腰掛けつつ、僕も手を振った。車両は先の道で曲がっていく。バスが現れた方、つまり自宅に向かって自転車をこいだ。
これでよかったのだろうか。成就しなかった恋には心当たりがある。そのやる瀬ない気持ちにも理解があった。自分の思い通りにならなかった悔しさ、存在を否定されたようなみじめさ。恋人に尽くしていた反面、あの子は自身を自分本意な人間だと言った。僕だってそうだった。ここに居る人間は与えられる義務やのっぴきならない理由でもなければ、だれしもが自分のためだけに生きるはずだ。好きじゃなくなったら、相手の気持ちはお構いなしで、ポイッだ。愛想を尽かされる側にも問題があったにしても、一度はほれたくせに知らん顔で立ち去る度胸には、憎しみしか湧いてこない。この時ばかりは、親父の抱えている孤独に同情できそうな気がした。
その晩、自宅に着いてから、祖父母の居る離れで食事を取りながら、ケータイのiモードで調べものをしていた。祖父は座敷に引っ込んでいて、祖母だけが台所でお料理の下ごしらえを続けていた。炊いてあるご飯と、納豆かレトルトカレーを食べるだけだったから、僕は食事にそう時間をかけなかった。
食事を終えて、翌日の予定についてしばらく考えていた。小さい頃からずっと、一人で地域の外に行くことがないから、資格試験の日以外はバスにも乗らなかった。休日では、部活動の帰りにスーパーマーケットでアイスを買うくらいだった。本屋やCDショップに行くのは月に一度か二度。部活動から解放されても、同世代の人たちが休日をどうやって過ごしているのか判らず、途方に暮れた。……部活動、で何かが引っ掛かった。違和感に気が付かないまま、僕はメールを送った。定期的に話さないが、ちゃんと返事をくれる人が居た。もう無効になっているアドレスもいくつかあったが、親しかったメル友(メール友達)とは繋がった。
ネット上で性別を詐称している人がたまに居る(掲示板やチャットを使っていた時期はそういう人によくからかわれた)。電話で話ができる、同級生くらいの人には信頼をおいていた。声の調子を聞けば、年齢と性別が大体分かる。パソコンから利用される無料メールサービスのアドレスは、高確率で、はたちを越えた大人だ。ケータイ会社固有の(@の後がdocomoやezweb、softbankなどから始まる)アドレスの人とだけ、やり取りをしていた。年齢は自己申告なので偽られる場合もあるが、用心深い僕は学生しか知り得ない学校での話題を振ってみて、揺さぶりをかけた。あと、メールでの僕のキャラ付け(性格)は、とにかくお調子者だった。
すべての条件に当てはまった、信頼に値する人が真のメル友として認められた。高校入学当初がこうしたネット友達を見付けられた全盛期であり、これから探そうとしても当時使っていたサイトはどれもが軒並み閉鎖されている(運営が困難になったか、未成年者を狙ったネット犯罪が増えたのだろう)。ケータイそのものが廃れてきている実感はある。この折り畳み式の携帯電話をガラパゴス諸島になぞらえて「ガラケー」と呼ぶ習慣がある。クラスメイトの大半がスマートフォン(スマホ)を持ち始めて、しばしばガラケーが時代遅れと見なされるが、スマホが広まる以前は携帯電話にカメラや音楽プレーヤー、ワンセグテレビなどを内蔵し、ここまで多機能なのは国際的に珍しかったらしい。それが独自に進化を遂げたガラパゴス諸島とこの国のケータイを由来して、ガラケーなのだという。正直言えば、僕は「デュラララ!!」のオープニングで出てくるような、スライド式のケータイ(画面が常に露出していて、ボタン部分が画面の裏側にスライドして収まる、二枚の板を重ねたような携帯電話)が欲しかったのだが、値段が高いからおやじに買ってもらえなかった。ちなみに、おやじはスライド式のケータイを使っている。
例の文通相手とのやり取りをする上で、誠意を表すためにメル友とは関係を絶っていた(一途に律儀すぎた)。アドレスも消していたから、前に話していた相手とはもう二度とやり取りをすることもなかったが、前々から関わりのあった一人が偶然、メールを送ってきてくれた。彼女とは、かつてケータイサイトでやり取りをしていて、失恋後の僕が意味深長な書き込みをしたら、再び返事をくれた。電話番号を交換して時々通話もした。文通相手の女性とも数回だけ通話はしたが、それ以上に親しいネット友達だった。誕生日を聞いたら、僕と同い年であることも分かり、一度会ってみようという話もあったが、その話は進んでいない。
相談相手として親しい、そのメル友は「青」というハンドルネームだった。女性目線で様々なことを指南してくれた。穏やかで友好的な彼女は、外出するなら買い物でも軽食でもいいが、ゆっくりできる場所が好みだという。人混みや行列に居る時間が長いと飽きやすいとも教えてくれた。その通りだと思うし、この人とは気が合う。だれと行くかは詳しく伝えなかったが、「うまくいくといいね」とメールで言われ、見透かされているみたいだった。
五月の連休に入り、僕はバスに揺られていた。早朝から自宅近くのバス停まで歩いていき、時刻表の時間より数分遅れてバスが来た。乗客は少なくて、運転手のすぐ後ろの席に座れた。座席が高いためお年寄りやお子様はご遠慮ください、と注意書がある。一応、長身に分類される僕は、足元の窮屈さは我慢して、のんきに外の景色を楽しんでいた。
この日は終点である駅まで行く。自宅周辺は市内でも田舎だが、駅の周りは高い建物が多く活気がある。人が大勢居る場所に行くと、僕は気持ちが悪くなってしまうので、メル友の言ったように、ゆっくりした場所で過ごすつもりだった。窓から見える街並みが緑豊かな自然から、人間の育んだ高度な文明に行き当たると、いよいよ騒々しい地へ到着した。
乗客たちが降りていくのを見届けた末に、僕もまた持っていた乗車券を返却し、乗車賃を支払い、ロータリーの停留所へ着地した。およそ一時間に及ぶ長旅に気疲れが溜まったが、まだ約束の時間まで余裕がある。暇潰しに近くのコンビニへ寄ってみた。背の高い建物の一階にある店内は、狭めだったが、品揃えは悪くなかった。限られた資金を使うでもなく、商品を一通り眺めてから店を出た。
駅の周辺で、気兼ねしないで済みそうな所を探して歩いていると、正面から既視感のある女性が歩いてきた。道端から注意深く観察したら、あの一年生のように、見えなくもない。人違いだと思い、待ち合わせ場所の広場へと移動する。
駅のすぐ横にある広場は座る場所が随所にあって、街路樹が植えられていた。行きたい場所は決められず、相手に会ってから決めようと思った。その待ち人は街中から現れ、予定していた午前八時より十五分くらい早く来た。今風の服装をした少女がいそいそと歩み寄り、待たせたことを謝っている。午前七時半くらいからここに居たが、ケータイを見て過ごしていたので時間は気にならなかった。「そんなに待っていないよ」と答えたら、彼女も僕の隣に腰掛けた。
学校で見るよりも大人びた雰囲気の身なりをしていて、古風なメイド服なんかよりもずっと現実的な着こなしだった。暗い色調のキャスケットを頭に被り、明るめのシャツ(腕をの方をよく見たら、そでがない)にらくだ色の上着を羽織り、膝まで覆う黒いロングスカートを穿いている。一般的な体格の子ならば大人っぽく映るのだろうが、ワダチの場合だとお人形さんのように見える。
「ニコちゃんマーク!」
彼女もまた僕の服を見ていた。親の買ってきた服を中学生の終わりに卒業した僕はスマイリーにこだわりがあった。必ずしも黄色いものとは限らないが、笑顔が特徴的なプリントをされた黒い長そでシャツを愛用していた。男性ものでこういう(幼稚な)デザインは通販でもなかなか手に入らないため、希少だと思う。僕はこれらの服が気に入っていた。その代わり、ウケ狙いや思わせ振りな文字が印字されたシャツは大嫌いだった。あれは洋服に見立てた看板かなにかだと思う。
僕のファッションセンスは、独特のこだわりがあり、そこまでしゃれていなかった。ズボンは黒か深緑のチノパンに固定で、母親がよくデニム素材のものを着させてきたが、ださいし洗いづらいので却下した。ファッションよりも使いやすさを優先し、高級な服は買ったことがない。余談だが、プロケッズ(PRO-Keds)の服も気に入っていて、同じブランドの帽子と併せて、たまに着る。こちらもあまり手に入らない。
スマイリーを気付かれて気が良くなり、僕はワダチの服の雰囲気を誉めた。もっと身長が高ければ、とは彼女が最も感じているかもしれないが、服選びの感性は同世代の女子よりは上をいっているはずだ。
「ありがとう。微妙な反応されたらどうしようと思って、ギリギリまで悩んだんだ。もっと明るい感じの服もあったけど、こっちでよかった……」
たぶん、その明るい感じの服が似合うのかもしれないが、僕はこっちのワダチにも意外性があって素直に感心していた。パステルカラー基調とか中学生が着ていそうなパーカーとかだったら、もっと見方が変わっていた。悪くはないだろうが、幼い外見が目立ってしまうな。
無事に待ち合わせができたところで、僕はどこへ行こうか悩んでいた。ここで相手に聞くのは、男子として気が利かず格好悪いため、なかなか言い出せなかった。相手の出方をうかがって座ったままでいたら、隣に居る女の子も口を開かないで座っている。度々あくびが出そうになり、必死にこらえる。
どれくらいそうしていただろう。
「どこか行こう」
どこに行こう、とは言わなかった。僕は勢いに任せて立ち上がる。そして、先日のようにそでを引っ張られる。ワダチも立ち上がっていた。「ある提案」をされて、僕たちはそこへ向かった。彼女は近くのタクシー乗り場に停まっている先頭のタクシーを捕まえて、ひとりでに開いたドアから後部座席に乗り込む。僕も乗るように促され、同乗した。
ドアが閉まり、車内でワダチが聞き慣れない地名を運転手に告げると、走り出した。タクシーには初めて乗った。帽子を被った中年の男性運転手がハンドルを握り、運転席の中央にある料金メーターの数値が徐々に増していく。内心でお金の事を心配していたら「もうすぐだよ」と隣から声がした。ミラーに映る運転手の目が、どこかにやにやしていた。
駅周辺から出て市街地を数分走り、住宅地になるに連れて、車の交通量がわずかに減ってきた。小さな店が建ち並ぶ道路沿いの、コンビニの駐車場で降りる。料金はワダチが全部払ってしまった。僕の所持金でも払えたが、決して少額ではない。万札が手渡され、半端な小銭はあえてもらわず、数枚の札だけをもらっていた。運転手は驚くでもなく、含みのある礼を述べていた。少女は光沢のある黒い長財布を使っていて、小銭が入っている感じがしない。
タクシーはしばらくそこに留まっていたが、やがて走り去った。金遣いに圧倒されたのも束の間で、買いたい物があるか聞かれた。正直に喉が渇いたことを伝えると、待つように言われ、一人でそこのコンビニへ入っていった。しばらくすると、飲み物がたくさん入った大きめのレジ袋を持って店から出てきた。両手で必死に支えて差し出し、「あげる」と言われた。袋には、緑茶や缶コーヒー、オレンジジュース、コーラ、スポーツドリンク、水などが入っていた。どれも嫌いではないが、ひとまず袋を受け取り、買ってきた当人に飲みたいものを尋ねた。
「わたしにもくれるの? でも、ユウシュンが先に選んでほしいな」
僕はお茶を取り、袋を開けて促す。やはり、ワダチは小さめのペットボトルの、オレンジジュースを選んだ。それを選ぶだろうとは思っていた。駐車場の片隅で少し休憩を取り、後輩に案内されるまま店の裏手に続く、住宅の密集する方へ歩いていった。徒歩数分のところで、庭の広い二階建ての家があった。塀に囲まれていて、その真ん中には「枕木」と表札のある門があり、簡単に開くような作りになっている。お庭にはきれいな人工芝が敷き詰められていて、子供が遊ぶには十分な環境だ。ワダチは持っていた鍵を使っておうちのドアを開け、「どうぞ」と先に入るよう僕に指示した。
扉の施錠をしてワダチは靴を脱ぎ、先に階段を上がっていった。脱いだ靴を揃えつつ、僕も家に上がらせてもらう。玄関で手持ちぶさたに辺りを見渡していた。靴箱の棚はきれいに片付いていて、靴置き場にはワダチと僕の二人分しか靴が置かれていなかった。一階には台所やリビングのありそうな入り口が見える。間もなく、少女が二階から降りてきた。帽子は外して羽織っていた上着もなく、明るめのノースリーブから伸びた白く透き通るような細い腕が目を引いた。
僕は洗面所を借りて、自分の家に帰った時と同じように手を洗わせてもらった(ついでに、手で水をすくってうがいもしている)。ワダチは「えらいね」と言いながら、タオルを貸してくれて、自身もそれに倣って手洗いとうがいをしていた。台所に通されて、買ってきた飲み物の袋を一旦、返却した。彼女はそれらを一品ずつ冷蔵庫の中へ移している。
台所に置かれている時計では、もう午前九時五十分頃を回っていた。ご両親について聞いてみると、出掛けているそうだ。「だから大丈夫」とも言ったが、どういう意味なのか理解できなかった。ここに両親が居たとしても、僕は間違いなく緊張するだろうが、なにか困るわけでもない。
四角な食卓にはイスが四つ置かれていて、僕はそこに腰掛けていた。ワダチは台所でなにやら忙しそうに何かをしていたが、どのようにして待ち合わせの場所に来たのか、何時に起きたのかを聞いてきた。バスで来てから近くを歩き回って、起きたのは五時頃だったと伝えた。すると、起きた時間に驚きを表して「わたしのために?」と冗談めいた問いがきた。僕もまたそれに乗じて「そうだよ」と答えた。気の効く後輩は、沸かした飲み物の入ったカップを二人分持って現れた。そうしてそれらをソーサーに置き、こちらに一杯のコーヒーを「どうぞ」と差し出す。正面の席に腰掛け、いつもよりにこにこしていた。
台所でコーヒーを飲み終わると、ワダチは使った食器の片付けを済ませ、僕を二階へ連れていく。階段を上がると、寝室や物置のものと思われるドアがいくつか並び、廊下の突き当たりまでいくと、「わだち」と幼い子が書いたような字の札がぶら下がっているドア前に着いた。部屋の主がそこを開けると、勉強机やベッドの置かれた寝室が視界に広がった。寝床の枕元には動物のぬいぐるみがいくつか置かれていて、机の上には音楽プレイヤーやイヤホンがあった。
フローリングの床には薄手の敷物が覆い、丸テーブルがその上に設置されていた。僕は肩から提げていたショルダーバッグをその辺りに置かせてもらい、脚を伸ばして座った。部屋全体から、ワダチと同じ匂いがする。女の子の部屋に遊びに来たのは小学生の時以来だ。その頃は男子より女子の友達が多かった。しかし、中学になってからは異性の友達もおらず、高校に入ったばかりの頃もできなかった。まさか家に誘われるとは思っていなかった。
「ユウシュン」
隣に座る少女は僕の手を握った。不意のことで、反射的に手を引っ込めた。それがどう受け取られたか、彼女は膝を抱えて背後のベッドに寄り掛かった。広場に居た時よりもずっと重たい静寂だった。
「わたしね」
唐突に切り出され、そちらを向く。ワダチは自身の悩みを話し始めた。普通の人に比べて身長が低いことや体の作りについて、それと周りからの見られ方など。背が低いことで同性からいわれのない暴言を吐かれたそうだ。――男に色目を使っているとか、幼く見えるから得とか。的外れな偏見と違い、実際は来るはずの成長が起こらず、周囲から向けられる好奇の眼差しを常に感じ、胸が膨らまないことで自分の持っている性別としての自信がない、と弱音を募らせていた。
そこからこの前の話の続きになり、失恋した直接の理由が小さい体に関係していることを教えてくれた。他の女の子と比べたら、有利よりも不利の方が多い。だから、単純に負けてしまったのだそうだ。僕の時は、手紙のやり取りで愛想を尽かされ、勝負する間もなく捨てられた。僕も、公にしたくなかった失恋話をしゃべっていた。それを聞いたワダチは、あの夜の炎のように憤りをたぎらせて、自分のことのように「なにそれ。むかつく」と怒ってくれた。
「利用されて終わるだけなんて絶対にやだ……。でも、わたし、へたくそなんだ。今日だって全然――」
ワダチは卑下し始めた。うつっぽい雰囲気が立ち込めて、僕は勇気を振り絞り、彼女の手を握った。握り合ったまま、また静かになった。体を寄せて、肩もくっつけた。心臓の鼓動が速くなるのを感じて、ズボンが気になり始めた。気付かれたくない。
「……わたしと、する?」
耳元に小さな声がした。脚の付け根を微妙に動かしてごまかすが、ばれているみたいだった。まだ女性との経験がない僕は、言われた意味に興味を示さずにいられなかったが、理性で踏みとどまっていた。意に反して、下着の内側では何かが溢れるような感覚があった。彼女にそういう経験があるのか聞いてみたら「ある」と答えた。続いて感想も聞くと、「少し痛かった」と正直に教えてくれた。
こんな機会、もう二度とないかもしれない。一度くらいなら大丈夫だろう。やってみてから考えよう。……邪気が、欲望をさらけ出すように誘ってきた。入れるとはどんなものか知りたい気がした。ここでしてしまえば、僕たちは恋人になるのだろうか。でも、好きだという確証もないままでは……。
渦巻く高まりを振り切るかのように、隣から後輩の小さな両肩を包み込んだ。
「自分を、大事に、してほしい」
少女は、僕の頼りない胸の中で泣きじゃくった。背中をぎゅっと掴みながら、止めどなく声を出して泣いていた。その様があまりにも痛々しくて、心臓の辺りがずきずきと軋んだ。ぐしゃぐしゃの顔で「したく、ないの?」ともう一度聞かれた。本当は、したかった。その後、何度も懇願されたが、抱き締めるのが精一杯だった。彼女の涙が止むまで僕は抱擁をやめなかった。次第に声が小さくなり、いつの間にかワダチは寝息を立てていた。あどけない表情に滴るしずくが残した、一筋の透明な線が乾いていく。体重を預けてくるワダチの上半身をベッドの側面に寄り掛からせつつ、そっと離れた。僕もまたそこに背中を預けて放心する。
6
「では、今日から新しく入った高校生のイオギくんだ。みんな、いろいろ教えてあげてくれ」
壮年の男性店長が他の従業員たちに紹介する。たくさんの食料品が並んでいる店の、裏手にある事務所は、商品の在庫や従業員のロッカーなどがあり、倉庫のような雰囲気だ。そこには幅広い世代の従業員が居た。この日は主婦みたいな方々四名と、同じく高校生のような顔立ちの女子が一人居た。五月上旬にアルバイトの許可が学校から降りたので、僕はスーパーマーケットで働くことになった。しばらくしたらテスト期間なので、あらかじめ休みの希望は出してある。
初日は、先輩従業員からレジの操作を手短に教わった。僕は要領がいい方ではないため、飲み込みが悪く、何度も同じ事を聞いてしまう。周りの人たちは直感的にレジ前での接客をしていたが、ああいう動きができる自信が湧かなかった。種類毎に商品の並ぶ場所を確認したり補充の手伝いをしたり、店内の掃除を任されたりカートの回収をしたり、業務を一つ一つこなすのは大変だった。
校則では、夜九時までというふうに決められているので、午後八時五十分には帰れるよう、店長に取り計らってもらった。お店が閉まるのは十時なので、その時間まで働いてくれたらいいのに、と彼から愚痴を言われたが、学業が本分の学生である僕は容易に頷かなかった。しかし、家に居ても、勉強なんかしない。
事務所のあるバックヤードに引っ込むと、僕は店員の着けるエプロンを外した。事務所入り口の壁に備え付けられた、縦長のカード入れに規則正しく並んでいる中から、自分のタイムカードを取り、店長から教わったように機械へ差し込む。読み込まれた厚めの紙製カードに時刻が書き込まれ、それをまた元の位置に戻す。
「お疲れ様です……」
そう言いながら、僕が自分のロッカーに向かうと、午後九時をわずかに過ぎていた。丁度、もう一人の従業員が帰る支度を終えるところだった。その人はズボン姿の地味な私服を着ているが、高校生のようで、夕方からずっとレジの業務をしていた。仕事をやってみてどうだったか、気さくにしゃべりかけてくる。「全然できなかった」と真剣に答えると、最初は仕方ないと明るく励ましてくれた。年齢を聞いたら、学年は僕より一年下で、ここに勤めてから一年経つそうだ。互いに軽い自己紹介を済ませた。そこで耳にした「オオクラフユミ」と読ませる名前は、タイムカードの中にも確かにあった。
「ここではおいらが先輩だ! でも、バイト終わったから後輩だー! です」
オオクラさんは短すぎないショートヘアで、仕事が始まる前に会ったときは厳かな面構えだったから、凛々しい女の子に見えた。ところが、口を開くと、お気楽な性格をのぞかせる。身長は僕より低いが、知っている女子の中では最も高い。太すぎず細すぎない標準的で健康的な体型に、女性らしい発育は豊かであり、普通の二年生より大人びている。お店に居る時はかしこまった接客をしていたが、本当はちょっと天然なのだろうか。帰りの交通手段を尋ねたら「そこまで遠くないから走って帰る! です」と言った。さらに、どのくらいの距離か尋ねてみたら、とにかく遠くではないそうだ。
僕は一足先に、お店を出て、自転車で帰った。
バイトを始めてから疲れやすくなった。部活動と比べて、そこまで運動量は多くないが、数時間立っているだけでも疲れる。それに、あのオオクラさんは何を考えているのか分からないので、ちょっと苦手だ。もしかしたら、腹の底ではすごく悪いことを考えているのでは、なんて勘繰る。
家からバイト先まで、学校よりは遠くないが、移動に時間がかかる。そのスーパーは、田舎と都会の境界に位置していて、近隣の住人がよく利用しに来る。夜間は大きな駐車場に車がそこまでたくさん停まっていないが、日中や休日は賑わっている。週末に出勤したら、忙しくて大変だった。何度やめようと思ったことか。午前中には、店長に僕を紹介してくれた、親戚の女性と顔を合わせてあいさつした。ごく普通の主婦だった。
仕事には慣れていなかったが、労働を通して、社会の成り立ちをわずかに感じ取れた。毎日同じ事を繰り返し、へとへとになるまで働き、生活している。店の床を、横長の紙が巻かれた清掃用具で掃除しつつ、暗くなっていく駐車場を見たら、明るい照明の下に並ぶ商品の棚やフードコート、通りすぎていく利用客たち、視界に映るすべてが寂しげだった。
この日もまたバイトを終えて、店内の裏側に引っ込む。タイムカードを機械に通した。事務所にはだれもおらず、僕は休憩用のイスに座って一息ついた。自分が人並みほどに役立てている実感はなく、むしろ迷惑ばかりかけている気がする。気が滅入ると、やめてしまおうか悩む。大きな溜め息が出て、イスに深々と腰掛けた。バックヤードに店内から人が入ってくる、扉が前後に揺れ動く音がして、僕は慌てて座り方を整えた。
オオクラさんだった。お互いに高校生なので、帰る時間がよく重なる。もうすぐ三年生最初のテスト期間だから、僕は出勤から外されているが、この子の名前は翌週もずっとシフト表(当番)に残っていた。彼女は週に働く日数も多く、学生にしてはかなり稼いでいるはずだ。僕はさっさと帰るつもりだったが、どういうわけか話し掛けていた。
「テストとか大丈夫なの?」
彼女は、僕の斜め前に置かれている錆の多いパイプイスに座り、簡潔に答えた。勉強したところで自分には向いていない、と。幼少期から勉強にしっかり取り組んでこなかった僕にも、その考えはよく理解できた。今さら必死に参考書をめくったところで、頭のいい人たちは遠くを走っていて、そこまで追い付けるわけがなかった。
オオクラさんを誤解していたのかもしれない。彼女は自分にできることと、できないことを割り切って生きている。それは消極的なように見えて合理的だ。人間は万能じゃない。体の状態によって得意不得意があるし、性格や心によって向き不向きがある。僕はアニメやゲームのキャラクターの魅力と自信に憧れて、それをまねて気取ることがあった。だけど、自分は自分以外の何者でもなく、その小ささに落胆させられた。そうして、この子のような考えに至り、大人になっていくのだろうか。
僕が帰る直前に、彼女はせきをしていた。
テスト期間が迫り、教室では勉強の話が目立ってきた。日頃受けている授業に加え、復習さえやっていれば、点数が極端に下がることもない。ただし、理論の積み重ねである理数系には、もうついていけない実感がある……。数ミリの誤差をも不正解にされる数学より、僕は大体の意図から解答が導き出せる国語の方が得意だ。
アルバイトが始まってから、斜め前の席の女子とは話す機会がめっきり減った。休み時間や昼休みにおしゃべりをするのは変わらないが、放課後に会わなくなった分、それまでより彼女との関わりやその質も薄れてきた印象だった。
昼休みになり、食事を終えた後、クジョウが僕の席に来てテストの話をしていた。僕が苦手科目を伝えると、出題範囲の中から不安がありそうなところを率先して教えてくれた。この子が賢いのは、日々の授業を通して、ここに居るほとんどの生徒が知っていたはずだ。彼女に教えを請うクラスメイトも少なくない。そんな優等生が、わざわざ勉強嫌いの僕の面倒を見てくれる。解らなかった箇所をかいつまんで聞かせるクジョウの姿に偉大さを感じる。こういう人が大勢から認められ、必要とされるのだ。
「何をじろじろ見ているの。私の顔に、何か付いてる?」
ふと、僕はアルバイトでの不安を相談した。周りの人たちより業務を上手にこなせない自己嫌悪や仕事終わりに抱いている複雑な感傷を。頼れる彼女は真剣に耳を傾け、励ましてくれた。
「深く考える必要のない事に囚われてしまうと余計に疲れるわ。あなたがこの先、生きていく上で、アルバイトの経験は無駄にはならない。余裕を持てない今、わざわざ難しい事を考えなくてもいいんじゃないかしら。それがイオギくんの長所でもあるけれど、無理しないで」
親身になってそう言ってくれる。他を探しても、そうは居ない大切な友達。僕は彼女との距離を縮める勇気すらなければ、きっといつまでも余計に考えすぎて、頭でっかちな人間なのかもしれない。
テストの話を最後まで終えると、クジョウは自分の席に戻って、勉強を始めた。
その後、僕は教室を出て、学校の廊下を歩き回っていた。一年生の教室をのぞきに行った後の昼休みから、校内をぶらぶらするのが習慣だ。校舎裏や廊下の隅っこに行くと、あの「ミョウレイ」と呼ばれる生徒を見掛けることがあり、その度に話し掛けていた。常に五月病のような顔色だが、連休が明けても不登校にはなっていなかった。上履きについては、新しく買ったみたいだ。
この日も僕はミョウレイさんに会って雑談をした。今度は特別棟の廊下辺りで、雲の流れる青い空を見上げていた。ひざまで覆い隠すロングスカートは相変わらずで、格式張ったブレザーが特に似合うというわけでもないが、姿を見るとなんだか安心する。早速、テストの話をしたら、興味なさそうに聞いていた。その横顔は、だるそうな、浮かない表情をしている。単に眠たいのを堪(こら)えているようにも見える。
これまでに僕が学校のことを質問したら、一言か二言で答える。教室では変わったことがなく、いつも通りだと話していた。何かほしいものがないか尋ねると、ないと言っていた。話をしている最中に、彼女のお腹の音が鳴ることもあり、それからの僕はいろいろな食べ物をあげようと試みたが、結局どれも「いらない」と断られ、だめだった。
「あたしと話してて、たのしい?」
ごく稀に、彼女の方から口を開く時もあった。その都度、僕は肯定的な返事をする。嫌われないように。距離を縮められるように。
「楽しいよ。ミョウレイさんは、楽しくないの?」
すると、「ミチ(下の名前)でいい」と、ことわった上で「別に」と答えた。まるで、あの雲のように掴み所がなく、姿さえ見せない時もある。そういう人だからこそ、僕は関心を抱き始めていた。他のだれもが持っていないものを持ち、持っているはずのものを持っていないような、希薄な眼差しを忘れられなかった。一日に話す内容は少ないが、一緒に居られるだけでよかった。
午後の授業が始まる前の予鈴が鳴ると、ミチさんはいつも「じゃあね」と言って去る。その後ろ姿を見ていられるのは、あとどのくらいなのかを考えてしまい、気持ちがふさがっていく。クジョウにも指摘されたばかりなのに、僕はどうしようもない。
また別の日、ミチさんに会った。今度は中庭が見渡せる渡り廊下の、低めの囲いに寄り掛かって、うとうとしていた。足音に気が付くと、長い前髪を揺らしながら、こちらを向いた。無音でたたずむ少女と話すのは、もう何度目だろうか。五月に入り、連休が明けてから毎日のように顔を合わせている。テスト期間になったら、生徒たちは午後までに帰るから、こうしてゆっくり話せなくなる。僕はそうした心配を吐露してみた。そして、ミチさんは遠くを見つめながら、そうまでして話をしたがる理由について尋ねてきた。
会わないでいるとどういうわけか不安になる、と答えた。隣の彼女は眠たそうな目をいつになくぱっちりと開いて、下を向いた後、一層と黙り込んでしまった。元気のない少女に向かって僕が謝ると、口がわずかに開き掛けた。
「あなたは――」
「あーっ」
ほぼ同時に別の少女の声が響いて、言葉が途絶えてしまった。
校舎の方から渡り廊下まで走ってきたのは、僕のよく知る二年生だった。僕たちの居るところまで来ると、一緒に居た一年生の顔をにらんでいる。乱入してきた先輩の顔を見返すでもなく、物静かな女子は背を向けてそろそろと歩き始めた。僕が後ろから声をかけても構わずに行ってしまった。
「ユウシュン、あいつとどういう関係?」
不服そうに聞いてくるが、答えなかった。すると、後輩はミチさんのことを話し始めた。性格が悪いとか、不気味だとか、とにかくひどいことを訳知り顔で言っていた。怒りたい気持ちもあったが、僕には何も言い返せなかった。
連休の三日間、この子と僕はほとんど一緒に居た。初日はあの二階の部屋で抱き締め合った後、目が覚めた彼女と連絡先を交換し、身の上話で互いの理解を深めた。二日目はバスで家の近所まで来て、僕の部屋でゲーム(スーファミ)をして夕方まで過ごした。そののち、泊まりたいと言っていたが、早々に帰らせた。三日目は彼女の部屋でいろいろあった。
三日目にあったことが、僕をさいなんでいた。二人きりの部屋で、執拗なまでに誘われた末、少女の体を触った。初めて、普段隠されている、あの部分を触った。そうまでして僕に劣情を抱かせようと躍起になっていたが、ついに暗く湿った狭いそこへ男性の象徴が入ることはなかった。体を反射的に震わせている少女の姿を見て、興奮と好奇心で気が狂いそうになりながら、自分の体から芽生える欲望にずっと抵抗していた。
できることなら、もうワダチとは関わりたくなかった。僕が僕ではなくなるような気がした。この子と関わっていたら、自分が何か違う存在になってしまう。そんな気がした。
「最近、冷たいよね。もしかして、わたしじゃなくて、あいつとしたの……?」
絶対にない。
「そうなんだ。だからそうやって怒るんだ」
ミチさんは違う。
「どうだったの? 気持ちよかった?」
黙れ。
「うっ、もっとして……。ねえ」
気持ちわるい。
「あっ、う。……ユウシュン」
見るな、僕を見るな。
「…………ふふ」
僕は女の胸ぐらを掴んで、その背中を渡り廊下の柱に何度も打ち付けていた。最低な暴力を痛がるふうでもなく、笑顔を浮かべながら僕に掴みかかってくる。魔女が実在するのならば、こういう顔をしているのかもしれない。
その場に情けなく泣き崩れたのは僕だった。
「どうしてユウシュンが泣くの? ねえどうして」
イオギユウシュンは弱い人間だ。いつも自分勝手で、だれかのために生きようとすらしない。気持ち良くなれるのであれば、ためらう必要なんかないのだ。目の前にあるすべては自分のためだけにある。そう思っていた。それなのに、損得とは関係なく、大切にしたくて、失いたくない存在がいることに気付き始めていた。
よろよろと立ち上がり、僕はミチさんの向かった方へ歩いていった。
ワダチは連休明けから部活動には行っていないようだった。性格が一変したのもその時期からだ。帰ろうとしたら、ほぼ毎日駐輪場で話し掛けられる。メールもたくさん送りつけられるから、そのアドレスに対して、受信するフォルダを指定して一括削除している。文面は大体、関心の湧かないような日常会話で、夜なんかは一分刻みで送られてくる。
昼休みは、僕が校内を歩き回っているのもあり、三年生の教室に来ること自体なくなったみたいだが、その日初めてミチさんと居るところを見付かってしまった。
陰鬱とした学校生活はすでに始まっていた。
ミチさんとは再会できず、気乗りしない放課後、テスト前最後のアルバイトに来ていた。これを終えたら、しばらく勤務はない。業務に取り組む姿勢はたどたどしく、動きにも切れがなかったように思う。先輩たちからは冷たい視線で見られている気がして居づらくなった。客に商品のことを聞かれ、その案内ができた時は、人の役に立てて少しうれしかった。小さな子供が売り場を走り回っていたが、やがて親と一緒に帰っていった。業務の終盤になると、カートの片付けや床の清掃を任される。人もまばらになってきて、店内の雰囲気は物寂しい。こうして一日が終わっていく。
数時間の勤務が終わり、僕はバックヤードに入っていった。タイムカードを機械に読ませて、帰る支度を始めようとした。その矢先、事務所にはオオクラさんが居た。ぐったりと机に頭を伏せているので、寝ているかのように見えたが、息が荒く、頬が赤かった。通り掛かりに、体調を伺った。「うん」とか「大丈夫」とか言っているが、ろれつが回らず、意識がぼんやりしているようだ。店長は先に帰ってしまい、他の従業員は閉店まで店頭での業務をしている。だれかに相談すべきか悩んでいたが、彼女自身がそれを拒んだ。
「迷惑かけたくない、です。少し休んだら、帰れるように、なるから……」
ふらふらと立ち上がるが、見ていられなかった。ロッカーから自分とオオクラさんの荷物を取り、帰り道まで介抱した。お店の裏口から出て、最初は遠慮していたが、次第に肩を預けるようになり、歩くのも難しい足取りになった。ついには背負われることになった。オオクラさんは成長著しい体なので、ひょろひょろの僕がおんぶしても速くは移動できなかった。
曲がり角や目印になる建物など、かろうじて伝えられた指示を元に、スーパーから一キロメートルは離れていない、近所でもないが遠くもない木造アパートにいざなわれた。一階の、最も右側の部屋へたどり着き、そこの扉上部に部屋番号と「大蔵」という名字の書かれている札があった。部屋の電気は点いていない。背負っている、後ろの女子から鍵を渡され、扉を開ける。すると、畳の匂いが広がってきて、入り口の台所や便所を除けば、突き当たりに一室あるだけの、狭い間取りの部屋だった。
玄関先で、体の熱い人を背中から下ろすと「ここまで来ればもう大丈夫」と言われて追い出されそうになったが、帰るに帰れず「なにか手伝えることはないか」と食い下がった。万が一、ここで倒れたきり大事があったら、その責任は僕にもある。せめて、連絡先くらいは確認しなければ気が済まなかった。
お布団を敷くのを手伝った。着替えを始める時は、さすがに部屋を追い出されたが、布団に入るまで見届けた。父親が一人居るそうだ。帰ってこないのか聞いたら、「今朝お金を渡したばかりだから……」と言った。お金がなくなったら帰ってくる人だとすぐに想像できた。「でも、帰ってきたら大変だから、先輩は早く帰った方がいい」と勧められた。念のため、連絡先を聞いてからここを立ち去ることにした。
電話番号を交換して、何かあったら連絡するように言っておいた。オオクラさんから礼を言われ、僕は足早にその部屋から出ていく。どんな父親なのかを想像しながら、自転車を置いたままだったスーパーまで戻った。
7
「実存的な交わり、すなわち愛しながらの戦いを経て、私たちは実在することができ、包括者と出合う」
神を肯定した主体性を説いたキルケゴール、神や真理を廃し永劫回帰(繰り返される今)にある断ち切れぬ虚無を肯定的に見つめたニーチェ、世界と共にある道具としての存在(=ダス・マン、ひと)が持つ懸け替えのない死そのものを認識できることこそが真の人間性だと説いたハイデッガー、社会を構成する他者によって奪われた自己を見いだそうとしたサルトル……。
教壇を隔てた黒板にはそれぞれの哲学者の思想が書き記されており、クジョウはヤスパースの実存主義について語っているところだった。彼は主観と客観を切り離すのではなく、一括することで実存が導きだされるという突飛な考えを持っていた哲学者だ。
実存主義で主要な五人の考えの中で、彼女は、正しいかどうかは考えないで、ヤスパースの考えが最も受け入れやすいと話していた。倫理の話である。選択科目であり、解りにくい用語がたくさん出てくるので、もしかしたら理数系くらい厄介かもしれない。とはいえ、僕は理屈をこねるのが好きなので、哲学者の言葉がちっとも解らない、というわけでもなかった。
テスト前の週に当たる放課後。僕たちは教室に残ってテスト勉強をしている。昼休みにはミチさんと会えず、精神的に余裕があるわけでもなかった。クジョウのいう「愛しながらの戦い」によって、どうにか限界状況を乗り切ろうと試みている。
哲学者が純粋に追い求める理論に、僕は一定の信頼と尊敬を抱くものの、思索や講釈に尽くしたところで人生にはなんの変わりもないように思える。世界の仕組みや実存がどうであれ、生物としての死は確実にあり、哲学者たちとて常人の何千倍の思索にふけり、偉大な言葉を遺しても、やがて死ぬ。しかも、そうした回りくどい理屈を知らずに生きている人間の方が多い。専門家である彼らの唱える理論が実在したところで、地球に住む大勢には果てしなく関係のないことだ。
僕がそういう思考停止を口にすると、クジョウは黒板前から歩いてきて、机越しに身を乗り出して、顔を近付けてきた。
「人は考える生き物なの。その頭で文明を築き、その頭で今の生活を手に入れた。考えなくして人間は進化しないのよ。そして、彼らの実存主義は人々が生きていく上での指針ともなりうる。ニーチェの思想はナチスに利用されてしまったけれど、あなたのニヒリズム(虚無主義)は、あらゆる無意味の前でも一生懸命に生きていける、超人としての素質もある。生をおろそかにせず、その一瞬を大切にしなさい」
その気迫に圧倒されつつ、僕は「はい」と返事するしかなかった。
空席が多い教室は普段よりも広く思える。日が暮れていくと、外の暗さに対して室内の照明が際立って、廊下の闇が色を濃くしている。イスに座って、机の上の教科書を見下ろしている。集中が続かず、いつの間にか違うことを考えている。
「なにか心配事? この頃増えたわね」
クジョウは僕の席の近くにイスを持ってきて、自身のノートをぱらぱらめくっている。相談するほどの事でもなかったので、なにも言わずにやり過ごした。そうして、午後六時の予鈴が鳴った。ホームルームと清掃が終わった後に、ロッカーから机の横に移動してあった、学校鞄に勉強道具を詰めて、立ち上がる。
クラスメイトに一言、帰る旨を伝えて、その場を去った。教室から廊下に出ると、引き戸のそばの暗がりに何かが見えて、僕は思わず後ずさりした。
「ユウシュン。一緒に帰ろ」
この日、駐輪場には行かなかった。二時間以上教室に居た。この人物はいつからここに居たのか。それは考えたくなかった。言葉を失い、立ち尽くしていると、その様子を見ていたであろう同級生が、僕の居る教室の出入口まで歩いてくる。彼女もまた暗闇に居る生徒の存在に気が付くと、辺りにはしばらく沈黙が支配した。
「いいですねー。先輩はユウシュンと一緒に居られる時間が長くて。わたしも三年生が良かったなあ」
クジョウは僕に耳打ちをした。もう帰っていい、と。
気の抜けていた僕はその声で前に歩き始めた。後ろから「待って」という声も聞こえたが、だれかが近付いてくる気配はなかった。階段を降りて靴箱まで移動する。怖かった。暗い廊下よりも、あの少女の闇に浮かぶ笑みが。
靴を履き替えて駐輪場に移動しようとしていた。部活動はどれも休みの期間になっていたから、学校に残っている生徒はほとんど居ない。外から、電気の点いている教室が見える。正体の分からない不安がよぎった。その瞬間、僕は靴箱に引き返していた。靴を上履きに替えて、階段を駆け上がる。息を乱しながら、電気が点いたままになっている教室の、廊下へ戻ってきた。
まだ二人はそこで立っている。僕の姿を目にした一人は驚きをその目に宿していて、もう一人は邪悪な笑みを向けてこちらを振り向いた。
「どうして帰らなかったの……」
足は立ちすくんでいたが、クラスメイトには一言、謝った。そうして、少女を連れて、この場を後にする。階段を降りていく最中、その子は僕の腕に寄り添っていた。一階まで来て、廊下から目につかない階段下の真っ暗な物陰で、僕は彼女を壁に追い詰めた。そして、なぜ付きまとうのかを問い詰めた。
「愛しているからだよ?」
ワダチは僕の好きなところを話し始める。途方もない孤独を抱えていることやバスケがそこまで上手ではないこと、変にまじめなところ、怒りっぽいところ、泣き虫なところ、怖がりなところ……。全部欠点なのに、そのすべてが好きだと言われた。
キスをした。乱暴に、両手を押さえつけるように、目の前の子にキスをした。口の中で舌を絡ませて激しく求める。すると、心の奥でずっと引きずっていた重荷が降りた。そのまま彼女のスカートからワイシャツのすそを引き出して、中に着ているTシャツの内側に手を入れて肌を探っていると、上階からだれかが走って降りてくる音がした。
慌てて僕は後輩から離れ、立ち去ろうとしたが、その人は追い付いていた。ワダチはシャツのすそを仕舞いながら、キスの最中の、目を細めてうっとりした表情を保ちながら、僕だけを見詰めている。居合わせたクジョウは眉ひとつ動かさず、立ち止まって、後輩の姿を刮目していた。次に、僕の隣まで歩み寄り、言った。
「深淵にのぞかれ、あなたはもう……」
さらに、小さな声で、その続きを言い残し、職員室に続く廊下へ去っていった。
僕は、怪物になってしまった……のだろうか。
テスト期間に入ると、学校は数時間で終わり、特に用事がなければ帰宅するよう担任の先生から言われていた。斜め前の席のクラスメイトはあの後も変わらず、話し掛けてくれる。しかし、僕にはどこか後ろめたさがあり、それまで通りの調子ではなく、気のない返事をしてしまう。
中間テストの出来はいうまでもなく、解った問題より解らない問題の方が多かった。総合的にみて平均点は六〇より上はないだろうと予測する。留年になる心配はないが、成績への劣等感にはさいなまれ続けた。優秀な生徒への羨望によって、自分の矮小さを痛感する。
その日のテストが終わり、教室を出て靴箱に移動する。そこには、僕の会いたいと思っていた一年生が居た。だけど、その子を前にしても、昼休みの時のように口を開けられない。靴を履き替え、外に出ていく。駐輪場を目指すべく歩み出した直後、後ろから、聞き覚えのある女子の声が聞こえた。
「待って」
振り返る。さっきの一年生が歩いてきていた。気のせいかもしれないが、前髪は少し短くなっているようだった。
靴箱の入り口から少しだけ離れた、校舎の軒下の隅で、テストの話をした。彼女は聞くに終始して、時々相づちを打ち、自身も、そこまでよく解けなかったと言う。そういう子に限ってできていたりするんだよ、と僕が陽気にからかってみせたら、頬をわずかに膨れさせながら否定していた。そのお顔を見ていると、僕は自然に笑みがこぼれる。少女もまた、目をわずかに細めていた。なぜだろう、胸の辺りが温かくなってくる。
放課後の予定について尋ねてみると、これから歩いて帰るそうだ。「いつ、また話せるか」と気を揉んでいたら、「学校に居れば会えるよ」と当然の返事をされた。そういう意味ではなくて、できればもう少し関わっていたいのだと素直に伝える。
すると、彼女はいつかの時のように肩から提げている学校鞄の中を探って、なにやら帳面を取り出した。多目的な用途に使える無地の物であるらしく、僕もこういうのは小学生の頃にお絵描きや漫画を作るのに使っていた。それが何であるか本人に尋ねると、忘れた時用の予備のノートだと教えてくれた。時間割りを間違えることがたまにあるらしい。そんなうっかりさんの、頼もしい一品を手渡された。それを僕に渡して平気なのかと遠慮がちに問い掛けたら、テスト期間では使う用事もないから、と言われ、意図を察した。
「このノートに何か書いてくれば、いいのか」
少女は頷く。僕は大切な帳面を自分の鞄の中に入れた。そして、時間割りはしっかり見ておかないと教科書がなくて大変だろう、みたいなお節介を言った。彼女は、教科書は重いから毎回持って帰っていないと告げた。テスト期間中はさすがに持って帰るらしいが、普段は教室のロッカーに置いているのだという。ちゃんと持って帰るように説教したら「はいはい」と聞き流された。それから、教室での様子について聞こうと思っていたが、その子の視線がわずかに僕の後ろを向いている。
その刹那、だれかが駆け寄ってきて、背後に飛びかかってきた。
「ユウシュン! 遅いよー。待ってたのに」
あからさまに僕との接触を演じていて、それを見せられた女子生徒はすたすたとその場を立ち去った。校門の方へ歩いていき、横断歩道を渡って、そのまま見えなくなってしまった。
僕の見ていた存在にあくまでも不服を唱える少女は、しつこくキスをせがんできた。あの夜のそれは、僕には初めての経験だった。してしまったら、なかなか抜け出せなくなりそうな、魔の味わいがあった。だが、今回は、くっついてくる後輩を静かに引き剥がして、駐輪場へ歩いていく。
「今、おうちにはだれも居ないよ?」
いかない。
「本当はしたいくせに」
またこれだ。
「早くわたしと気持ちよくなろうよ……」
いやだ。
「くぅ、くるしい。……あっ、はぁっ」
その目、やめろ。
「はあ、はあ、やばい……」
僕は女の胸ぐらを掴み、そのまま持ち上げていた。四〇キロも超えていないだろう小さな体を地面に向かって投げつけた。そいつは倒れたきり、しばらく動かなくなった。それを見て、頭に登っていた血の気が引いていくような感覚がして、すぐさま駆け寄って抱き起こす。
「ばあっ!」
「うわっ」
驚きのあまり、腰を抜かした。心臓が止まるかと思った。
後輩は情けなく座り込んでいる僕の足元に素早くまたがって、胸の辺りへ耳を当ててくる。「やだ、すごくドクドクしてる……」と無邪気に実況していた。全身に力も入らず、その子をどかすこともできなかった。
結局、僕はその子とキスをしてから帰ることになった。
テスト期間中の放課後は、毎日、人目のつかないところでキスをさせられた。それが自分の意志によるものかとさえ疑うくらいに、僕は深淵に塗りつぶされてしまったのだと思う。
唯一の救いとして、家に帰った後にあの帳面を書くことで僕は残りわずかな自分らしさを感じていられた。あの子と僕が登場する漫画を描いたり、明るい日常の小説を書いたりした。直接会っていないのに、会っている時のような気持ちになれた。
帳面を借りた後日の帰り、靴箱で待っていた一年生にそれを返却した。
その次の日の帰りにまた靴箱でそれを渡された。学校から自宅に戻り、自分の部屋でそれを開いてみると、意味深長な詩が書かれていた。
『ばしょ』
たくさんの目が こっちをむいている
たくさんの手が あたりを動いている
たすけて といったら きてくれる?
ここにいる といわなくても
なぜかあなたは そこにいる
ながいながい 夢をみていた
今ある世界も 夢だったら
さめないで まだみてたい
どこか遠くへ つれていって
あなたは おうまさん?
あたしは
続きの部分は破られていた。なんというか、想像もつかないような世界が見えてきそうだった。まだ僕の名前ははっきりと教えていなかったけれど、この「おうまさん」って、僕の名前を意識しているのだろうか。
僕は自分の名前が好きではなかった。名前負けしているし、他と比べて特に優れているわけでもない。二人のきょうだいに勝っている部分が一つとしてないから、生まれてきた事を疑問に思うことがある。……それでも、こんな僕でも、生んでもらえたから、イオギユウシュンとして、人と関わることができるのだと考える。それだけは生まれてきてよかったと思える理由としては充分だ。
この頃、現実での問題が表面化してきて、創作であるケータイ小説を書けなくなっていたけれど、あの子の詩を読んでみたら、無性に何かを書きたくなった。
“タイトルは「風薫る鈴蘭」。少年は少女と一緒になるために、鈴蘭の花を探して回ります。その旅路で、悪い魔女に何度か妨害されますが、これを打ち倒し、ようやく花を持って会いに行きます。ところが、彼女がすでに遥か遠くへ旅立ってしまったことを知らされます。絶望した少年は鈴蘭の毒で死んでしまいました”……という話だ。
テスト期間中は勉強をせずに、ずっとそれを書いていた。ちなみに、悪い魔女には明確なモデル(基となった人)が居る。最終的には、少年との戦いの末、彼を災厄から助けるようにして死んでしまう。一説によれば死んでいないらしい。……構想を練り直して、確実に始末させよう。
実際の僕は、悪い魔女に勝てそうもなかった。いけないと判っていることなのに、どんなに痛め付けて振り払おうとしても、反ってそれがなまめかしさを強めて、互いが同調していくようだ。キスをしている間、僕の頭の中では背徳感と快楽が争い合って、心から満たされるわけではないのに、その術中に思考を汚染されていった。
一学期の中間テストが終わり、放課後のアルバイトが再開された。ワダチからの要求をかいくぐって、どうにか家まで帰ると、制服を私服に着替えてから自転車で出掛ける。二十五分くらいあれば目的地に着く。勤務は午後五時から開始なので、四時二十分には家を出る。学校から帰ってくるのが四時くらいなのでゆっくりしている余裕はないのだ。
お店に出勤すると、およそ二週間振りにオオクラさんと会った。体調を聞くと、もうすっかり治ったそうだ。顔色も悪くはない。今度お礼がしたいと言われたが、そこまでされるほどのことではなかったため丁重にお断りした。ところが、丁重にお断りされた。すなわち、お礼をされるのは避け得なかった。意外と強引なところがあり、そういう女子の頼みにはすぐ屈するのが僕の欠点なのかもしれない。
アルバイトに入ってから間もない僕は依然として、他の従業員たちよりたくさん働けるわけではなかったが、それまでは手一杯だった事でも余裕を持って取り組めるようになった。他の業務はからっきしだけれど、床の清掃は上手になったと思う。それでも店長にもっと速くやれと言われた……。給料日は翌月の末だから、まだお金が入ったわけではないが、欲しいものを買った後の事を考えてわくわくしてきた。早く聴きたいな。
仕事が終わる午後九時になり、僕はバックヤードに戻る。重々しい足取りなのは変わらないが、タイムカードを読ませる。
「おつかれさま! です。先輩」
もう荷物を持っていて、すぐに帰るような体勢である。僕があいさつを返すと、急かされた。事情を聞くと、これからどこかにご飯を食べに行こうと誘われた。時間の事を心配してあげたら、遅くなる前に帰るだろうし、一人じゃないから大丈夫なのだそうだ。何か引っ掛かる物言いだが、渋っていても仕方ないので店を早々に出た。言われた通りにオオクラさんの向かう場所へ付いていった。
出勤した時に比べて外は真っ暗で、街灯が歩道を照らしている。勤務先のスーパーの近くにファミリーレストランがあり、そこでご飯を食べようということになった。未成年者は保護者の同伴がなければ、十時までに帰ってくれ、みたいなことが受付の隅っこに書かれていた。あと、ここは二十四時間営業らしい。
三十代くらいに見える女性従業員に案内されて、入り口に近いボックス席……っていうのかな、四人掛けのそこでオオクラさんと向かい合うように座った。おしぼりで手を拭いて、メニューを見る。いくら庶民向けのレストランといっても、外食のメニューはどれも値段が四〇〇円を越えるものばかりで、なかなか判断が下せない。良くてサラダだが、わざわざ外食で頼むのもどうだろうか。
優柔不断を見兼ねた彼女は、おごると言い出している。いくらなんでも女性にお金を出させるのはどうなのか。そう言ったら、「今時そんな古い考え方気にしなくていいの! です。おいらは、出してもらうのが当たり前なんて思ってない、です」と半分キレられた。年下なのに、ここまで姉御肌な一面を見せられて、断れるわけもなかった。潔く自分が食べたかったものを注文しようと決めた。テーブルにあるベルを鳴らすと、先程の従業員が注文を取りに来た。
料理が来るまでの間、オオクラさんとおしゃべりをした。彼女は体育が最も得意で、走るのが好きらしい。中学の頃はバレーボール部でキャプテンをしていたという。この子の身長と髪型から推察すれば明白なことだったが、僕はあえてその可能性を考えないようにしていた。余談だが、僕の姉貴も中学ではバレーボール部のキャプテンで、自宅の庭でたまにサーブの練習をしていた(勉強をしている印象の方が強く残る)。あと、この場ではまったく関係ないが、姉貴の名前もミチ。
高校の球技大会(クラスマッチ)では、クラスのバレーボールチームで参加するのだと、うれしそうに話していた。こんなにも運動好きな彼女が部活動をしていない理由については、あえて触れなかった。その代わり、家での過ごし方をそれとなく質問する。
「おとうさんのこと? ああ、特に何もないよ。おいらの方が力つよいし、酒や賭け事は好きだけどそういう感じの人じゃないから、です」
話がまったく噛み合っていないようだから、もっと分かりやすく質問をし直した。
「ああっ、うん……そういうことか。おうち帰ったら、ご飯食べて、体を洗って、歯磨いて寝る、みたいな。ほとんど一人暮らしみたいな感じだよー。遊びに来る?」
いたずらっ子みたいな微笑を浮かべて聞いてくるが、僕がおとうさんに鉢合わせても困るだろうし……。真剣に悩んでいると、「冗談だよー?」と大きめな声で打ち消しつつも「来てもいいけどね」と小さくつぶやき、どっち付かずな態度だった。
今度は僕のことに話題が移り、学校での悩み事を打ち明けた。どうしたら、悪い魔女の誘惑に勝てるのだろうか。婉曲な表現を使ったので、だれがなにをしてくるかまでは言わない。その少女から精神的に支配されている現状を伝えた。
「じゃあさ、おいらたち付き合ってるってことにしちゃえば? だれかの彼氏ってことなら、あきらめるんでない?」
それは余計に危険だろう。はっきりした競争相手が現れると、略奪しようと必死になるのではないか。提案の欠点を指摘すると、オオクラさんは納得した様子だった。彼女は作戦を考えるのが、そこまで得意そうではない。
「じゃあさ、もうその人と付き合ってしまえばいいんでない?」
それは……。どや顔でこちらの顔をのぞき込んでくるが、僕にはそうしたくない理由があった。だが、それを言葉に表すことができる状態でもないため、漠然と「嫌だ」としか言えなかった。そうするくらいならば、むしろオオクラさんに協力してもらう方が救いはあると思う。
会話をしていたら、女性店員が料理を運んできた。僕が注文したのは、赤いつやを放つ麺が特徴的なナポリタンだ。オオクラさんは野菜の具材が乗っているカレーを頼んでいた。肉料理を注文しない辺り、もしかしたら僕たちは気が合うのかもしれない。味はこれといって可もなく不可もなく、自分の舌がこえているわけでもないため、一通りのものを口に入れたらひとまずおいしいとは思うが、美味の本質としてはなんだか足りていない気がする。つまり、価格相応の味なのだろう。トマトの酸味が、弾力あるぎとぎとした麺に絡み合って、口の周りを赤く染めながら、確実に口の中で細分化されて広がっていくのを感じ取れた。たぶんおいしい。
二人は、ものの一〇分くらいで食事を終えた。数分くらい無言の時間があって、落ち着いたら、正面に居たオオクラさんがテーブルの、斜めに切り込まれた筒状の伝票立てに収まっている、紙製の伝票を手に取った。それを合図に、僕たちは会計に向かった。店員が店の奥から来るまでの間に彼女は「外で待ってていいよ」とさりげなく気を遣ってくれた。女性に会計させている男は、その逆の状況に比べて格好悪く見えてしまうのが、判っているのだろう。そういう配慮のできる優しさにぐっときた。
外で待っていると、オオクラさんもすぐに店内からやってきた。一旦スーパーに戻り、お店が閉まるまでに自分の自転車を回収した。それを押しながら、彼女を例のアパートまで送っていくことになった。「走って帰るから平気!」と意気込んでいたが、「どうせ一緒なんだから」と食い下がっておいた。
街灯が照らす夜道を歩いている女子は、おんぶのことを恥ずかしそうに話しながら、再度お礼を述べてくる。重量感について感想を伝えてみたら、珍しく言葉数が少なく、何も言い返してこなかった。
アパートまで着くと、この日もあの部屋は電気が点いていないようだった。
「寄ってきます?」
もちろん僕は断ろうとしたが、もう少しだけ話していたい気分だった。
扉が開くと、やっぱり畳の匂いが広がってきた。奥の一間に通されて、年季の入った畳の上に腰掛ける。オオクラさんは、水を入れていたやかんをガス台のコンロを使って温めている。お茶を入れてくれるそうだ。丸テーブルを挟んで、僕は部屋の奥に居て、彼女が出口側に座る。背面には窓があって、カーテンは付いておらず、すりガラスから灯りが外に漏れている。
やがて、お湯が沸くと、住人である女子が慌ただしく台所へ戻り、湯飲みを持ってまた戻ってきた。卓上に置かれた、少女趣味なキャラクターの印刷された陶器には、緑茶が満たされている。僕は猫舌なのですぐには飲まず、数分かしてから口を付けた。お行儀よく正座している彼女に、家の人がどのくらいの時間に戻るのか尋ねると、バイトに行く前とか学校に行く時とか、に帰ってくるらしい。
「どこかで泊まってくることが多いんよ。今日もたぶんその人の家だと思う」
ここで寝泊まりしていて不安がないか聞くと、はっきりそうとは言わなかったが、否定もしなかった。
「でも、この前は、帰ってきたら大変、って言ってなかった?」
「そんなこと言ったかな。先輩の帰りが遅くなるのも……だから……で」
口ごもっていて最後までは聞き取れなかった。
僕はそろそろ帰ろうかと腰を上げた。すると、「あっ」と制止された。一旦座り、立ち上がると、また「あっ」と制止された。具体的に理由は言わないが、そういうことなのだと心情を察した。一人だと怖くて眠れないのか、と冗談半分を言ってみると、うつむいたまま黙り込んで、満更でもないような反応をしている。むしろ、こちらが怖くなってしまい、部屋の天井や台所を注意深く観察する。なぜだか寒気がしてきた……。
「って、そんなんじゃないってば……! です。先輩が嫌じゃなければ、たまにここに遊びに来ればいいんでない? その魔女が気になるならさ。無理に、とは言わないけんども」
温情には感謝したいが、それはそれでどうなのかと考えざるを得ない。夜が深まっていく中、さすがにこれ以上の押し問答をしていても、らちが明かないので、僕はまた来ることを口約束しておいた。そうしたら、思いのほかあっさりと帰らせてくれた。
その夜、自宅に着いたのは午後十一時頃になってしまい、入浴を済ませてからすぐに寝た。オオクラさんの違和感には気付いていたが、その要因に心当たりが持てず、戸惑うしかなかった。