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無音少女 初稿(3)

 



   1


 白く輝くおうまさんの背中に乗って、行ったこともない大地を駆け回る旅はたのしかった。きれいなお花畑や川のせせらぎに癒されて、一番高い山のふもとよりもきれいな景色をずっと見ていられると思ってた。


 はえている淡い緑色の草たちが、次第に深緑色に変わっていく。透き通るような空の色も煙のように暗い雲におおわれて灰色に変わっていった。大空から大地に雷が落ちてくる。ごろごろという音に、あたしは耳をおさえる。乗っていた白いおうまさんは、前足を何度も何度もばたばたさせて、体をぶるぶる震わせていた。はげしい揺れで、背中からふるい落とされちゃった。柔らかい草の上、ここは違った山のふもとだった。


 おうまさんはなにかにおびえているみたい。山のあるほうにだれか立ってる。女の子だった。服も着ていない、小さな、女の子。ぼさぼさしたほうきの、えに腰かけて飛んでくる。ほうきを飛び降りた女の子はおうまさんの背中にまたがってる。おうまさんの白かった毛並みはたちまち真っ黒になり、女の子はおうまさんの首を絞めるように抱き締めて、そこを離れようとしなかった。


 あたしはそれを近くでみていた。おうまさんが山のふもとへ静かに歩きだしていく。でも、空のかなたから、からすさんが飛んできた。大きくて、黒い翼を広げて、裸の女の子のまわりをぐるぐる回って、おうまさんの背中から降ろそうとしているみたい。


 森の方からは、真っ白な毛でおおわれたくまさんがよっつのあしで地面をけりながら、すごい勢いでおうまさんの目の前にやってきた。二本のうしろ足だけで立ち上がって、大きなからだを広げ、女の子をいかくしている。


 からすさんの動きにこまった裸の女の子は、おうまさんから降りるしかなくなって、しろくまさんと向かいあってる。その子は、からすさんとしろくまさんをすごいこわい顔でにらんでいるの。あたしはそれを見ているのがいやになって、関係ないところを向いて歩いていこうと思った。そしたら、からすさんが飛んできて、あたしの肩に止まった。それで、人間にもわかるような言葉で話しかけてくるの。


「あの女の子は――」




 目が覚めると、じぶんの部屋だった。ノートを枕にしてねていた。開いてみると、あの人の書いた字でいっぱいになっている。みじかい小説になっているんだけど、この文章の書き方が、あたしのよく読んでいるケータイ小説の人とすごくよくにてる。なんだかおかしいけれど、ちょっとさびしげで。でも、人違いだと思う。ノートの小説はこんなにきれいな終わらせ方なんだもの。あたしの知る「かとうりすう」は、絶対こんな小説を書かない。


 この部屋にあいつはいない。ときどき、彼女を連れてくるときもあるけど、いつもおそくまで外で遊び回ってる。あたしは部屋にいてもやることがないから、よくねむる。いろんな夢を見る。おうまさんの夢を見る。風を切るあの感覚が忘れられない。だけど、とられちゃった。あの女の子はワダチちゃんにそっくり。


 ワダチちゃんとは通っている学校がずっと同じで、小学校から仲の良かった年上の女の子。同い年みたいに接してくれてふたりでよく遊んだ。中学校の子たちからは、一年生の時から年をとらない女の子だから「まじょ」って言われてた。気がつけば、あたしの方が先に大きくなっちゃった。それからは仲の良かったあたしに対してもいろいろぶつかってくることがあって、もうおはなしもしなくなっちゃった。もともと気のあわないところもあったから、さびしくなかった。


 このごろは、ワダチちゃんがあの人と一緒にいるのを見かける。あの人は夢の中に出てくるおうまさんみたいで、あたしを遠くに連れ出してくれるかもしれない男の子。でも、このノートを返してもらってから、会うこともなくなった。あたしと一緒にいるとき、うれしそうにいろいろな話をしてくれるの。あたたかい雰囲気のする人。


 でも、ワダチちゃんの方があの人を必要としているようにみえる。あたしは別にそれでもいい。この世界には音が無い。色もない。真っ暗な森のように、いつまでも光がささない。からっぽなあしたがつづいている。




 高校生になってから変わったことがある。給食がないの。お昼には、みんなお弁当を持ってきてごはんを食べているから給食当番がなくてらくらく。でも、おなかすいた。ここは中学校よりも広いから、よくいろんな場所を散歩する。同じ空なのに、見る場所によって全然ちがく見えるんだ。学校には、いろんな空がある。


 教室には知っている人もいれば、知らなかった生徒もいる。同じ年に生まれた男の子や女の子が集団を作ってかたまっている。あたしにも話し掛けてくる女の子がいたけど、話したいことも特にないから退屈になる。そのうちもういいやって、どこかいっちゃった。窓側の席だから、あたたかくて眠くなっちゃう。うたたねしてたら、男子があたしの胸を触ってきたことがあった。わるふざけなんだと思うけど、すごく気持ちわるかった。みんながげらげら笑ってたから、周りにある机を夢中でひっくり返してやった。


 次の日に上履きがなくなっていて、ここもたいして変わんないんだと気がついた。


 学校にきてもたのしくない。廊下のすみでぼーっとしていると、あの人が会いにきた。


 あたしの上履きを探してくれた、背が高くて、すこしおせっかいさんな男の子。うれしかったのか、はっきりわからないけど、お礼にお気に入りのシャーペンをあげた。この人は、ほかのだれだれとはちがう感じがする。このまえなんか、お腹が鳴ってたからって、お昼ごはんを持ってきてくれるの。はずかしくて、もらう気にならなかった。毎日いろんなパンやおにぎりを持ってくるんだ。ちょっとおかしい。そのうち、持ってこなくなった。それでいい。食べてもきっと、またお腹がすく。だからなるべく動かないでいる。教室にだれもいなければ、あたしはこういうだれもいない場所にくる必要もないの。でも、男の子の隣にいるのもちょっとだけたのしい、のかな。


 ワダチちゃんがそこにあらわれたときから、あの人には近づかないようにとお願いされた。あたしから近づいたわけでもないのに、すごくおこってた。でも、そんなこと気にしないでふつうにすごしていた。男の子ともいつもみたいにおはなしをした。なんだかすこし元気がないみたい。 


 テスト前に、先生から前髪が長いと言われた。すこし前髪を切った。


 その日の帰り、上履きをはきかえようとしていたらあの人のことを思い出した。革靴をはいて帰るとき、ちょうど彼がそこにいた。じぶんでもよくわからないけど、呼びとめていた。顔をあわせたら、自然とおはなしするようになっていて、やっぱりたのしい。帰りのことを気にしてさびしそうな顔をするから、ノートをかしてあげた。そのあと、 遠くからワダチちゃんが来た。まだ帰りたくなかったけど、帰ることにした。


 中間テストが終わったあとは、昼休みでも教室にいた。同じ教室の人たちよりワダチちゃんの方がずっとめんどくさかった。廊下を歩いてたら、あの人がくるよりもはやくにあらわれて、自慢をするの。キスをしたとか触ってもらったとか。だからなにっておもう。それなのに、なんだかあたしもさびしいような気持ちになってきて、胸のおくがくるしい。


 かとうりすうの小説に「風薫る鈴蘭」という作品がある。そこでは、男の子が女の子のためにがんばるんだけど、女の子がひとりで先にどこか遠くへいってしまって、男の子も死んでしまうの。あたしも、どこか遠くへいきたい。そうおもうことがある。彼が必死に魔女と戦っているけれど、そのあいだに女の子は人知れず消えてしまう。


 あたしには、なにができるというのでしょう。


 ワダチちゃんの話すあの人は、まるで別人のようで、輝きを失った真っ黒なおうまさんみたいなの。あたしは、本当はどこにも存在しない、無音の少女。それなのに、彼だけは靴をはいていないあたしの姿を知っていて、どこまでも遠くへ連れ出してくれる。おうまさんの背中はあたたかくて、がっしりとしていて、はだしでも安心して進んでいける。


 また戻ってきて。暗い森のおくに戻されてしまう前に。


 あなたはおうまさん。あたしはあなたのばしょ。


 待つことしかできない。




   2


「オオガラスはワタリガラスとも言われ、イギリスではアーサー王が魔法で変えられた姿との言い伝えがあるわ」


 クジョウは、スズメ目に分類されるらしい、大型カラスの話をしている。


 過去にスズメを殺してしまったことがあり、僕は鳥が好きではなかった。話は小学生低学年にさかのぼるが、飛べなくなった小鳥を庭先の、水に浸されたバケツに入れて遊んでいたら、動かなくなってしまった。表現できない感情に襲われた少年の僕は、その鳥を家から離れた所の地面に埋めて、「すずめのはか」と書いた板を置いた。数か月後には、付近の貸し家を利用する人のための駐車場になっていた。むくろは完全に分解されただろうけれど、僕の書いた墓は工事に当たっただれかによって捨て去られたのだと思う。


「ポー(※)の詩の中にもオオガラスは出てくるの」

※エドガー・アラン・ポー。十九世紀の、アメリカの小説家、詩人。


 そこに出てくるオオガラスは人間の言葉を話せるらしい。結末は言わなかったが、とにかく孤独な詩であると述べた。ポーという詩人は不遇の死を遂げたが、オオガラスのしゃべった言葉とは異なる命運を生きるはずだったのに、と締めくくった。「ネバーモア」と、含みのある言い方をし、僕をじっと見つめている。


 まったく興味の湧かない文学の話が終わると、すぐ自分の席に戻っていく。もう一か月以上の付き合いだから、お互いそれが日常の一つだと判っているはずだ。それでも僕には理解できなくなった。どうして、そこまで関わり続けてくるのか。気があるのだとしても、見返りは一切ないのに、馴染みの人間であろうとするのはなぜだろう。女は男に満足させられてこそ幸せを感じるものではないのか……。あれ、僕なんでこんなことを。


 とにかく、彼女の振る舞いは僕の性格に起因するものだろう。深刻な顔をしてわざとおかしなことを言ってみせたり、トートロジーを愛しそれを乱用してみせたり、あらゆる技術を用いて人の気を引こうとする孤独な性質が情けを生んでいるのだ。いや、さらに判らなくなった。トートロジーは尊いのであり、僕のものでもなければ、君のものでもない、だれのものでもない。


 こんなつまらない人間である僕は教室から出て、廊下を歩いていた。このところ、あの子には会えていない。一年生の彼女のもとへ会いに行くわけではなく、単に歩いているだけだ。この後、学校が終わったらバイトがある。


 同じ事を繰り返すのが退屈だから 、なにか代わり映えがほしかった。


 ミチさんは今頃どうしているだろうか。そういう事を考えながら廊下を回る。あの子の物静かなところは、僕の幼馴染と似ている。その子には、小学生の頃に片想いしていた。低学年の時は、なんの前触れもなく遊びに行くことがあった。家が隣近所で、朝にちょっと見掛けるけれど、高校が違うからまったく関わらない。僕が言いたいのは、幼少期から女の子の好みが大きく変わっていないかもしれないということだ。その幼馴染の場合、ただ人見知りなだけかもしれない。それでも寡黙は賢さにも見えた。多くを語ることが不利に働くことがある。女子はおしゃべりを好むが、必ずしも多弁ではないからこそ、その神秘性に魅せられる。


 もっとも、僕の思いは遠回りを始めて、あるべき行き先をすっかり見失ってしまった。ふと、歩いていた特別棟を抜けて、体育館の方へ出てきた。ボールの弾む音がして、そちらを見てみると三年生の男子生徒たちが試合形式でバスケをしていた。クラスマッチが近いからか、このところよく見掛ける。


 それから僕は普通棟の靴箱まで引き返して、体育で使う用の運動靴に履き替えて、校庭へ移動した。そこには鉄棒がある。学ランを脱ぎ、それを隣の鉄棒に引っかけて、ワイシャツ姿になる。精一杯手を伸ばしても届かない高さの鉄棒に、僕はジャンプしてぶら下がる。力一杯腕を使って、上半身を鉄棒の上まで運び、両脚を前後に揺らして勢いをつけて、空中逆上がりを無駄に何回転も行う。ついでに、前回りも同じようにぐるぐる行う。上半身を支えた状態で片足ずつ持ち上げて、鉄棒の上に座る。このくらいの高さでも僕は一種の恐怖感を抱く。しかし、見通せる範囲は広く、良い眺めだった。だれも居ない校庭が見渡せる。なんだか物寂しくなり、そこから慎重に飛び降りた。


「見事なものね。私ではとてもできそうにないわ」


 校庭の入り口にある体育倉庫の陰から声がした。鉄棒のある方へ、眼鏡をかけたクラスメイトが歩み寄ってきていた。僕は柄にもなく謙遜して、その場を立ち去ろうと試みた。


「よく出歩いていると思ったら、いつも鉄棒をしに来ているの?」


「今日だけだよ。時々、風を感じたくなるものさ」


 快晴の空が広がり、運動場にはそよ風が吹いている。


 この時期の生暖かい、だるい空気が好きじゃない。一年後、僕はここに居ない。そこの空気が一年前より良いなんて保証もない。鉄棒をいくら回っても時間は不可逆で、いずれここから居なくなるのも定まっている。そう実感すると、なおさら怖くなってしまう。避けられない孤独な宿命を。そうして感傷的になると、あえて一人を好んだ。この痛みは決して他人には解らない。


「進んで一人になりたがっている人に限って、オオガラスを求めているものよ」


 足を止める。


「何が言いたい?」


 すると、彼女は「大鴉(おおがらす)」という詩の続きを話した。


 ネバーモアとは、作中に出てくるオオガラスの名前であり、その詩を特徴付ける語でもあるそうだ。そこでのオオガラスは非常に不気味な存在として描かれているが、実際はそうではないと語る。ネバーモアは「絶望」のファクター(因子)なのだという。難しい話はよく解らなかったが、つまりは不安や孤独の内側には、あえて自分から絶望に歩み寄っていく性質が見られると話していた。その末に、自分自身もファクターと同化していくのだと丁寧に教えてくれた。


「しかし、カラスは太陽に最も近い鳥とも言われていて、しばしば太陽神の使いとしても描かれる。日本の神話では太陽の化身としてヤタガラスが居て、中国の神話では太陽に棲む金色の鳥、三足烏(さんそくう)が居るわ。絶望のファクターというよりは、人を導く神聖な存在にも思える」


 ヤタガラスや三足烏は太陽の黒点に由来するという。クラスメイトは、遠くの電柱に飛んでいく小型のカラスを目で追いかけながら、つぶやく。「賢さとは、常に人々の欲するものである」と。それが勉強をするきっかけであった、とも。


「知恵の乏しい人でも、一人の知識人が居るからこそ、その人との交わりで気付けることがある」


 僕は憤慨した。彼女の傲慢に。彼女の、人を見下した態度に。


 校庭を後にする時、女はこうも言っていた。


「絶望や孤独は、あなただけのものではないの……。ごめんなさい」


 僕はもうこの人とは関わるつもりがなかった。




 また別の日の放課後。


 数時間のアルバイトを終え、夜の九時頃から、僕はバイト先の先輩の家にお邪魔していた。体を休めるという意味合いでも、この集まりは必ずしも無駄ではない。畳の匂いがする、貧しい世界に居ると、人間界の行き止まりを感じさせられて、僕はますます気分が悪くなりそうだった。この子が居なかったのならば……。


「シロクマがね、すっごく大きくて、よく泳ぐの! です」


 オオクラさんは、小さい頃に両親と行ったらしい動物園での話をしている。僕も小学校の修学旅行で動物園に行った記憶がある。しかし、そこのホッキョクグマはあんまり印象に残っていない。フラミンゴやクジャク、ハシビロコウなど他の動物の方がずっとよく覚えている(鳥ばかりだ)。


 母親について尋ねたら、「幼少期に親が離婚したから居ない」と、けろっとした顔で答えた。僕の家にも母親が居ないのだと伝えると、一緒だと言って笑っていた。おふくろは、二人の子供が就職して、三人目の僕が高校に上がったのを契機に、家を出ていった。その後、父と二人暮らしみたいになり、ケンカをするはめになった。よくよく考えてみたら無責任な話かもしれないけれど、思春期の最中(さなか)に感じ取った事としては、「男と女なんてそんなものだ」と十五才らしからぬ割り切りをした。


「時々、寂しくならないですか?」


 そう聞いてくる女の子は神妙な面持ちで、すぐ隣に座っている。僕は親がそろっていなくても平気だったと本心のまま告げる。「そうじゃない、です」と言われた。オオクラさんは僕の肩に頭を預けて、じっとしている。


 アルバイトが終わり、ほぼ毎晩のように顔を合わせているに連れて、心身の距離感は縮まっていた。そのうち、彼女が抱いているであろう、寂しさのようなものが表出した。一緒に食事をした後のあの夜の様子が、はっきりと思い出される。この部屋に何か不可解なものが現れるでもなく、彼女はここに一人で居る状況に、おびえているように見えた。


 帰る時間が遅くなるのは僕にとって望むべきではなかったが、家に帰ってゆっくりしていると思えば、気にもならなかった。その代わり、家では食事を取り、入浴したらすぐに眠る。


「おいらは寂しい……です。学校ではみんなが居て楽しいけど、卒業した後は離れ離れになっちゃう。先輩も就職か進学かして、いつかはアルバイトをやめてしまうでしょう? おいらはきっと、今のところで働き続ける。生活はどうにかなる。でも――」


「心配のしすぎだよ。そのうち、いい人が現れるよ」


「こんなやつ、だれも相手にしない、です」


 オオクラさんは口をへの字にして、いじけていた。僕が突き放すような返答をすると、よくこういう顔を見せる。少々面倒くさい。この子に必要なのは僕ではなくて、一緒に居られるだれかなのかもしれない。


「一人だと生きていけないのを実感したんです。あの夜から」


 頭をなでる。


「先輩……」


 僕は自分を寂しがりだと思っていたが、競い合ってみたらこの子の方が格上の寂しがりなのは言うまでもなかった。その秘められていた一面に触れ、引き出してしまったのは他ならぬ僕であったのは否定できない。


「そう言えば、どうなったんですか。魔女? みたいな女の子とは」


 思い出したくないことを聞かれて、閉口してしまった。その様子を見たオオクラさんは座り直し、それまでの元気な雰囲気に戻って「やっちゃいますか」と右の拳で左のてのひらをなぐる仕草をしている。


 煮え切らない返事でごまかす。まだオオクラさんには言っていないが、その女の子とは付き合っていた。「カノジョ」というやつだ。一年生のあの子と会えなくなってから、僕は次第に、二年生のその子を好きであるように感じ始めていた。普通に彼女とだけ関わっていれば、怖いことは何もない。キスにも愛撫にも慣れた。


「付き合ったんですね! どんな人なんですか? どんな人!」


 僕は黙って、自分のケータイの待受画面を相手に見せる。そして、オオクラさんが隣からのぞき込む。


「うわっ。中学生、ですか……」


 ドン引きされた。同じ学校に通う後輩だと説明したら、嘘だと言って信じてもらえなかった。画面に写っていたのは私服姿のワダチで、横を向いて、キャスケットの帽子を押さえながら控えめにこちらへピースサインをしている。週末の日中に、駅の近くで一緒に散歩している時、街中で撮影した。そう、僕は自分のカノジョをケータイの待ち受けにする変態だったのだ。……そうではなく、だれかと似た、ワダチのそういう振る舞いを、好きになり始めている自分が居た。


 オオクラさんは自身の高い背丈を憂いながら、小柄な女子が羨ましいと言った。同い年のワダチとはいろいろと正反対で、相性が最悪だと直感した。性格を見たら、天然っぽいこの子よりも、恋に積極的なワダチの方が大人なのは彼氏の目線からはっきり解っていた。


「毎晩おいらと会ってるのをばらされたら、きっと一大事、ですね」


 この子もまた魔女らしい笑みを浮かべながら、僕を見詰めているが、本気でそう思っている口調ではなさそうだった。


「……了解、です」


 そう言うと、すぐ帰るように急かされた。


「もうここには来ないでください。さようなら」


 部屋を追い出され、僕は言われた通り、帰った。




 五月下旬の週末。約束の駅前で、いつものようにカノジョと待ち合わせをした。電車を使って遠くに遊びに行くことも増え、この日、僕たちはカップルがよく訪れる公園に来ていた。ワダチは気配りのできる女の子で、自分から飲み物を買ってきてくれたり甘い物を持ってきてくれたりする。そうした一途な行動には好感が持てた。それに応えるべきとも思った。


 一つの場所を見て回ったら、即座に元の駅へ戻って、タクシーかバスで彼女の家まで移動する。午後はそこで過ごす。僕が極力動きたくない性格なのを慮ってか、じっとしていられるように取り計らってくれるのだ。


 ワダチの部屋で二人きりになると、必ず口付けをした。僕はたかぶってくると、どう猛に相手の体をなでて、息を乱しながら求めた。性交渉に発展しそうにもなったが、それはしないように律している。万が一の事を考えたら、それをしてはいけない、と感覚で判っていた。しかし、それをしてみたいとも思っていて、常に葛藤が生じる。


「入れてもいいんだよ? どうせ妊娠しないから」


 ワダチはいつもそう言う。排卵、というものがいまだに来ておらず、それがなければ妊娠することがないと言い切っていた。前の彼氏とも、よくしていたと話し、気持ちいいのだという。ケータイの動画で見て、女性のそれがどうなっているのかは知っていたが、ワダチのそれは明らかに狭そうだった。指を入れても二本でやっとだから、僕のそれが収まるとは信じられなかった。


 彼女は僕のズボンと下着を下ろし、大きくなったそれを口に含んだり掴んだりしてくる。体から頭を通り抜ける刺激に、僕は思わず声がもれる。少女のてのひらの倍以上に大きな長さのそれを見ながら「どうしてもだめ?」と聞いてくるが、やはり僕は同意しなかった。その代わり、入れなければ、好きなようにしていいと言っておいた。


 最初の頃はすぐに、それが出てしまうことがあったけれど、段々と抑えるコツみたいなものが解ってきた。ワダチも無理に動かさないようになった。すぐ果ててしまうと、その分、僕の気持ち良くなる時間も短くなるから(顔に出てしまう)、慎重に気を遣ってくれる。最後には、彼女の口の中でそれを出すのだが、何のちゅうちょもなく飲み込んでしまう。どんな味がするか聞いたら、「ちょっと苦い」と言っていた。いつだったか、試しにそれを口移ししてもらったら、確かに苦かった。食塩水に苦味を加えたような、とろみのある液体だった。


 この日も、僕はそれを出して、ぼーっとしてしまった。気持ちいい。


「なんだかもったいないね。入れてみたら、もっと気持ちよくなれるのに」


「やりたいなら、他の男を見つけてきて、そいつとやればいいだろ」


 出した後は、性的な気持ちが一切なくなるため、僕は投げやりにひどいことを言ってみる。ワダチは「だれとでも気持ちよくなれるわけじゃない」と念を押して、大きさを失いつつあるそれを口に含んで遊んでいる。


 やがて、小さくなったそれを下着にしまって、ズボンを上げさせると、部屋を出ていった。行為が終わり、それを飲み込んだ後は決まってトイレに行くようだ。手もちゃんと洗ってくる。僕は少女のそこを触れるということが減ったので、触った時以外は手を洗わず、しばらく一人で部屋に残る。出した後に、一人きりというこの時間がなんだか嫌だ。


 部屋の主は、戻ってくる時に冷たい飲み物を持ってくる。それを飲んだら、またしばらくキスをしたり抱き合ったりする。彼女は僕のひざの上にまたがってせがんでくる。胸の膨らみがないため、少し退屈だった。バイト先の先輩には顕著な膨らみがあり、直接手で触ったことはないが、体を寄せる時に、水の満たされた袋のような柔らかい感触が伝わってきていた。あれを思い切り五本の指で触れたら、どんな気持ちなんだろう。その欲が現れたのか、ワダチの平坦な胸部を執拗に触るが、わずかな張りがあることくらいしか分からなかった。


「ごめんね。わたしの、全然大きくなくて」


 やけにしおらしくなるから、僕は後ろから抱き締めるついでに、服の内側から指で乳頭をかすかになで回すと、彼女は「あんっ」と言って、身をよじらせていた。




   3


「この前はごめんなさい。言い方が悪かった」


 女はだれかに向かって謝っているようだったが、僕は席を立った。


 昼休みは退屈だから、よく廊下を回っている。


 翌日には、クラスマッチという、学校内で学年を交えた球技大会が開かれる。毎年行われるものであり、二年に一度行われる体育祭とは違う。種目は少人数でできる競技になっていて、体育館でのバスケットボールとバレーボール、外でのフットサルと野球が行われる。バレーボールは女子だけの種目になっていて、野球は男子だけの種目になっていた。その他は男女別々になって行われる。


 休日に顔を合わせるワダチは、バスケに参加すると言っていた。僕はフットサルと野球が好きではないので、同じくバスケで参加する。クラスの男子の中でも背の高い方だが、シュートやドリブルが得意ではないから、どうせディフェンスやパス回しに終始するだろう。得意なのはテニスだが、そこにこだわっても仕方がないから、潔く恥をかく覚悟で望もう。


 この日は特別棟の階段付近でだらけていた。あの子が居たら、と想像を巡らす。他の子の彼氏になったのだから、たとえ居たとしても二人きりの場所で会うのは違うだろう。天井を見たり窓の外を眺めたり、そろそろ飽きた。


 一階まで降り、特別棟を出て、渡り廊下を歩いていく。後方の体育館からボールの音が聞こえてくるが、気にしないで普通棟へ向かう。外に出るべく革靴に履き替え、校舎を出ていった。手始めに駐輪場の周りをうろうろした後、校舎前を散歩してみる。敷地が広いから、ゆっくりできそうな場所もいくつかありそうだ。ふと、校舎の窓を見つめる。教室の窓側に居る女子生徒と目が合った。


 そこに居たのか。


 しばらく見つめ合っていたが、僕の方が先に目を逸らし、そのまま校舎裏まで去った。


 日陰になっているところで座り込む。あの子が教室に居た。僕は知らず知らずのうちに嫌われてしまったのだろうか。そうだとしたら、少し目元が熱くなった。求められるとうまくいくのに、自分から求めようとしたらうまくいかない。そんな気がした。


 僕を好いてくれた人も、いずれ僕を好きじゃなくなって、どこかへ行ってしまう。だれも僕の苦しみを解らない。いつだって一人。いつまでも一人。ずっと一緒に居られるわけじゃない。見ていられる時間だって限られている。だから、現実が余計に重くのし掛かってきて、交際相手ができても手放しに喜べるほど楽天的になれなかった。




 学校が終わり、アルバイトが終わり、夜になると僕はまっすぐ帰るようになった。あのアパートには行かない。何かにおびえている女子の表情が鮮明に残っていたけれど、来るなと言われた以上、立ち寄るつもりはなかった。


 夜九時半には自宅に着き、食事や入浴を済ませたら、もう十時半になっている。


 翌日も学校がある。しばらくしたら寝ないと朝起きられない。朝になると、祖母が外から大きな声で起こしてくる。それがとにかく嫌で仕方ない。祖母は四時頃には起きているみたいで、洗濯や家事をしてから仕事に行く。じじいは五時頃に起きて新聞を読む。僕は早く起きるときもあれば、遅刻するときもある。六時起きが早い方で、八時を越えたらもう遅刻。


 寝る前は、ケータイでインターネットを見るのが習慣になっていた。この日は、ちょっと寂しかったからカノジョ……ではなく、メル友の青にメールを送った。すぐに返事をくれるときもあれば、何日か経ってからの時もある。今回は夜のうちにメールが返ってきた。一方で、あのカノジョとは週末によく会っているから、用事もないのにわざわざメールで話す気は起きない。


 青は、女性の割りには男性のような堅い文章を書く女の子で、短文より長文に寄る傾向がある。時々、写真付きのメール(写メ)を送ってくれて、それが他の人とは違い新鮮だった。写真は室内や景色を撮ったものが多く、生活感や解放感が伝わってくる。メール友達とは漠然と短文での会話をするだけだったのに対して、この人だけは真剣さと誠実さが随所にあった。


 また、この人になら、自分の抱えている複雑な恐怖心を包み隠さず話せた。会ったことがないからか、内面的な悩みを打ち明けても気が楽だ。この頃、僕は一人きりで居ることに強い不安を感じる。中学時代に片想いしていた相手に恋人が居ると分かった時や、親しくしていた文通友達から見限られた時、そして新しい恋人ができたまさにこの時など。何かに気を許したら、その後に大きな仕返しが待ち構えている。安心させてくれる存在など、どこにも居ないように思える。


 青は、僕の感情を「人が人であるから抱く不安」と説いた。だれしもが持っているであろう、一般的な不安なのだという。そうだとしたら、みんなが救われない孤独に苦しんでいることになる。青もまたそうなのか。そう問い掛けるメールを送ったら、数十分くらいして返事がきた。



To: ゆうしゅん

From: 青

Date: 201X年05月2X日

Sub: Re:Re:Re:

――――――――――――――

君はほかの人に比べて鋭

い感性があるのだと思う

。私もそういうところが

あるから、よく周りの人

とは隔たりを感じている

。でも、いくら悩んでも

変わらないことは考えな

いでいた方がずっと楽な

のかもしれない。


私も君みたいに考え込ん

でしまうから、そのつら

さはよくわかるのだけれ

どね。


時間があるとき、

また電話しよう?

    - END -

――――――――――――――


 副題である「Re:Re:Re:」は、元々「無題」だったものが「Re:」に置き換わっていき、やり取りしていくに連れて、それが増えていく。副題の字数上限に達するとRe:はそれ以上増えなくなるのだが、そうなる前に僕は増殖したRe:を全部消して無題に戻してからメールを送るようにしていた(放置しておくのがなんか嫌)。しかし、青とのやり取りは文が長いから、一日に交わすメールも少なく、Re:はそこまで増えていかない。


 三年生になる前に、彼女とは何度か通話をしている。堅苦しい文章とは違い、普通の女の子という感じだった。声が特別高いわけでもなく、同世代特有の音程を備えていて、成人女性ではないのは明らかだ。LINEやSkypeというサービスを利用しているらしく、そちらの方が料金が安く済むからと勧められるが、ガラケーではそれらのサービスが十分に利用できないか、まったく使えない。スマホやタブレットを買おうかと考えるが、親の同意なく携帯電話の契約内容を変更できないため、実現の見通しは立たない。


 その晩は大してやりとりできなかったが、気は紛れた。メール友達が居ると、それだけで支えられているようで余裕が持てる。一年生の頃は、とにかく人数が居ればいいと思っていたけれど、話し相手がほとんど居なくなってからは、だれと関わるかを考えるようになった。青は、数多く居た中でも、僕に最も近い価値観を示してくれる、理想のメル友だった。性別や年齢を偽る人も居そうな状況で、通話をしてくれる人は特に珍しかった。僕がしゃべり下手を改善できたのは彼女の功績にもよる。




 翌日、学校ではクラスマッチが行われた。


 これまでの数日、体育の授業では試合形式の練習が続いた。僕は相変わらずの運動音痴で球技全般は不得意だった。兄がサッカーを得意としていた影響で、僕も中学時代は昼休みによくサッカーを行っていた。一人でリフティングをしていた。だから、バスケよりはフットサルの方が得意なのだ。しかし、顔にボールを当てられたくないからやらない。


 クラスマッチとは、学校の貴重な丸一日を球技に費やすという素晴らしい行事だ。半分は皮肉ではなく、まあほどほどにそう思う。勉強ばかりやっていたら、精神が病んでしまう。とにかく、体育館で開会式が行われ、閉会式のある午後三時頃まで、我々生徒は競技に明け暮れるさだめにある。運動部らしき生徒たちは意気揚々とした態度で臨んでいるが、運動が得意ではなさそうな人たちは浮かない顔をしているようでもある。僕のクラスは進学志望の学生が大半を締めていて、半数以上が運動部に所属していなかった生徒だ。


 屋内と屋外の競技の参加者に分かれ、学年と組を問わず、各種目の行われる場所へ散っていく。対戦の組み合わせは、前日までにくじ引きで決まっていて、勝ち抜き(トーナメント)形式で試合が行われる。各競技で優勝した組は閉会式で表彰される。


 体育館の壁側に控えて、生徒たちはコート外から試合を観戦する。バスケでは、一つのクラスから二組が出場する。僕のクラスは、バスケ経験者が数名居るチームと、バスケがそこまで得意ではないチームの二組。ちなみに、僕は後者に所属している。


 同級生たちとは少し離れ、バスケの試合を見ていた。違う色の体操着を着ている、一年生や二年生の生徒たちも散らばっているが、クラス毎に固まっている。舞台がある向こう側のコート外には、長そで長ズボンの体操服姿のミチさんが居るのを見つけた。屋内の種目に出るらしい。なかなか視線が離せず、みとれてしまう。向こうもこちらに気付いて、しばらく見詰め合っていた。


「あの一年生が、例の?」


 眼鏡をかけた女子生徒が話し掛けてくる。この子は、バスケの試合が一定数消化されてから試合が行われるバレーボールに出場する。バレーボールは各クラスから女子の一チームだけで、バスケより試合数が少なく、暇を持て余しているようだった。


 僕は答えず、話し掛けてきた女子から距離を取った。


「ユウシュン! 一緒に試合見よ」


 半そで半ズボンの女子生徒が駆け寄ってきた。細くて小さい手足の露出によって際立つ彼女の体格は、一般的な高校生には見えない。交際相手である僕は、あらゆる意味でその内面も外見も知り尽くしている。学生らしからぬ想像をする。それとは裏腹に、人前でくっついてくるカノジョを隣の方にどける。


 試合は男女で順々に行われる。一年生でも結構強いチームが居たり、バスケ部の居るチームは当然のごとく強かったり(公正を期すため、一チーム当たりに参加できるバスケ部の人数に制限がある)。学年混合にも関わらず、どの学年同士でも実力は拮抗していた。


 数試合か終わり、僕のチームの出番だ。対戦相手は同学年のチームだった。こちらの構成は、比較的運動のできるAくんがポイントガード兼フォワードで、僕の次に身長の高いBくんがシューティングガード兼センター、ドリブルが意外に上手なCくんと体の動きがやや堅いDくんと僕を含めた三名はパス回しやインサイドでのデイフェンスを任されている。僕は身長があるからシュートがまあまあ打てるが、試合になるとほとんど入らないので過度な期待をされたくない。


 ジャンプボールでこちらの先攻から試合が始まると、Aくんが主導となって、チームは敵陣に駆け出していく。知っている女子たちがすぐ近くで応援してくれている。コート上での僕は違和感を探すことに集中していた。おかしな動きをしている選手が居たら、洞察力と観察眼で、先回りしてパスカットをするのが得意だった。周囲の生徒から腕の長さを驚かれるが、自分ではこれが普通なので別になんとも思わない。そのうち僕がセンターのような役回りを引き受けることになって、バスケの経験のあるBくんが何本かシュートを決めてくれた。敵に張り付かれていなかった僕にもボールが回ってきたが、放ったシュートはどれも入らなかった。


 一試合目はAくんとBくんの活躍で勝てた。


 次の試合では、いかにも強そうな生徒の居る二年生のチームと当たる。どうやらワダチの居るクラスだった。試合を間近で見ていたその少女は、離れた距離に居た選手の手前でスティールした場面を挙げて「かっこよかった」と大絶賛してくれたが、シュートが決まらなかった僕は愛想笑いで受け流す。自分のクラスよりも、個人的にユウシュンを応援する、などとこっそり言いながら、ワダチも試合の準備に向かった。


 残された僕はまた反対側のコート外に居る一年生を見ていたが、あの子は変わらぬ顔で、試合の準備を始めている生徒たちを見ているようだった。ふと僕は体育館から出て、出入り口からグラウンドを眺める。外では、男女がそれぞれ分かれ、小さめのゴールを設けてフットサルの試合をしている。ボールを蹴る音に兄貴の姿が思い浮かんで、消える。


 兄貴は僕より年が結構離れていて、高校から自転車で帰っていく姿を、僕は小学校の帰り道で何度も見掛けた。その横顔はどこか笑っていて、声もなく身振りもなく走り去っていく。言葉数の少ない彼は、小学生の時からサッカークラブの習い事をしているみたいで、中学に上がるまでは、おふくろから特に気に入られていたようだった。 しかし、思春期を迎えてからの兄貴は、おふくろと大きな衝突があったみたいで、二人が話している姿はほとんど記憶にない。おそらく、激しやすいおふくろの暴言で、彼の自尊心が傷付けられるかなにかして、親子仲がこじれたのだろう。おふくろには、僕も幼少期から手酷くやられた。きょうだいの中でも勉強や運動に優れ、特に自信家の性質があった兄貴は、おふくろからの言葉が強く効きすぎてしまったのかもしれない。出来損ないの次男が受ける「ばか」とは違い、背負わされた期待や重荷に応え続けようとした結果、それを最も近くで見ていたであろう母親にすら認められなかったのだとしたら、相当に哀しい話だ。


 グラウンドのサッカーボールを目で追っていると、かたわらまで近付いてくる足音があった。


「さっきの試合、見てたわ。シュートは、受け取ってから構えるまでの一連の動作を、大きく変えることなく保ち、姿勢が適正な形に完成してから打つとよくなる。ボールの渡った後のイオギくんは、いつも不自然な動きをしているから、シュートフォームがしっかり定まっていない」


 同級生がダメ出しをしてきた。しかし、その指摘は不思議と嫌みがなく真摯に受け取れた。丁度気にしていたことだから、その意図がしっかりと耳に届いてきた。


「この前は本当にごめんなさい。あなたを下に見ているつもりはないの。あれは一般論として述べたつもりで、あなたがそうであるとは――」


「ありがとう。僕の方こそ悪かった。ねじけた態度を取っていた」


 素直に謝ると、クジョウは僕の左腕を掴んで上にあげさせた。僕の利き手が左であることを見抜き、姿勢の修正を図っているようだった。どちらの腕がドリブルをしやすいという明確な差はないが、右手をよく使う癖がある。とっさのシュートも右手で押し出すように打っている。じつは、左腕および左手の方が狙いを定めやすい。しかし、その姿勢に至るまでの感覚が追い付かず、意識しなければ正確なシュートを打てなかった。


「シュートを打つ時は、なるべくこの動作に近付けること。打ちづらかったら、少しずつ直していくといい。でも、余裕がなければ無理に直さなくていいわ。次の試合も頑張って」


 そう言うと、すぐに体育館の方に戻っていった。その足取りは心無しか軽い。


 僕も体育館に戻ると、女子のバスケの試合が始まっていた。ワダチはチームメイトの中で最も背は低かったが、部活動をしていただけあって、危なげなくドリブルしながらパスを送っている。シュートをする機会はほとんどなかったが、コートを走り回る姿が健気で、周りの生徒たちの視線もそちらに集まっていた。デイフェンスでは、相当に鍛えていたであろう脚力を活かした瞬発力や跳躍で身長差を補っている。接戦だったが、経験者の強みもあって、ワダチたち二年生チームは三年生のチームに勝った。


 試合が終わると、ワダチは僕の方に駆け寄ってきて、運動でほてった体を擦り寄せてくる。何かを要求する眼差しで見上げてくるから、僕はただ一言「かなり目立ってた」と指摘した。目がうるうるし始めたので、「だれよりも輝いていた」と言い直す。すると、人目もはばからず、汗でやわやわのシャツを密着させて抱き付いてくるので、隙を見計らって抜け出し、一刻も早く体育館の出入り口へ避難した。


 続いて僕らの二試合目は、二年生チームとの対決だった。


 明らかにバスケに慣れているような動きをしていて、現役部員ではなくても、一人一人がおそらくバスケの経験者なのかもしれない。僕は、のほほんとしているDくんを誘って、敵五人の中で一番動きの鈍重そうな大柄男子のSくんを目当てに作戦を立てた。DくんにSくんを集中して見張ってもらい、僕はもう一人のディフェンダーの、やけに動き回るTくんを見ると役割を決めた。自分チームのリーダー格であるAくんは、Bくんの他に僕にもボールを回してくることが増え、さっきよりはシュートチャンスが増したが、肝心なところで外してしまい、センターであるSくんに取られて、攻守交代する。


 劣勢のまま進んだ残り時間三分、自分が完全に自由になれる位置を積極的に見つけて、僕はパスを求めた。Bくんのロングパスでボールを受け取ると、クジョウに言われたことを意識し、ディフェンダーから距離のある、コートの角辺りから三点を狙いにかかる。まぐれかもしれないが、高めに放られたボールはリングの真ん中に向かっていき、何者にも触れられず、点数を獲った。その後もAくんが持ち前の運動能力でシュートを決め、Bくんもそれに続くように連続得点を取り、試合の流れは完全に逆転する。最終的な点差はわずか一しか変わらなかったが、僕たちの勝利はだれの目からもはっきりしていた。最後、相手チームにボールが渡り、なにを思ってか敵の一人が、ボールをゴールのボードに向かって無鉄砲に野球投げしていたが、限りなく鋭角なロングシュートがリングに入るわけもなく、ゴールから跳ね返ってきたボールがDくんの頭頂部を介して大きく真上に打ち上がり、ボールが空中にある状態で試合終了の笛が鳴った。


 上空から落ちたボールを見事に掴んで、Dくんは喜んでいた。僕も笑いながら一緒に喜んでいた。AくんとBくんも喜んでいた。Cくんはなぜか腹を抱えて笑っていた。彼だけはどこかおかしくなってしまったのかもしれない。


 午前中は早いペースで試合が回され、昼休みが始まる前にはバレーボールのコートが用意された。バスケと並行して、バレーボールも三試合ほど行われて、向こう側に座っていたミチさんもいよいよ競技に参加していた。彼女は飛んでくるボールをすくいあげるのが上手で、いつかの昼休みに会ったあの時の容姿端麗な一年生が得点を決めていた。あれは経験者の動きだ。勝ち上がったミチさんたちの次の対戦相手は、僕たちのクラスらしい。


 そろそろ鐘が鳴った。




 昼休みになり、外に居た生徒たちもみんな普通棟へ向かって歩いていく。人もまばらな体育館を出ていく一年生の元に、僕はすかさず駆け寄った。試合の様子を誉めると、彼女もまた僕の試合の様子を誉めてくれた。お昼ご飯に誘うが、「いらない」と言う。話が途切れると、少女はさっさと歩き去って行った。


「ユウシュン。浮気?」


 後ろから背筋の凍るような重たい響きの声がした。およそ少女の高い声を一番低域に落とし込んだ振動が鼓膜をなでる。振り向くと、歩んでくる足取りはそのままに距離感を縮め、舞台のある壁へ追い詰められた。


「よりにもよって、なんであんなやつに話し掛けてるの? 気持ち悪いし、かわいくもないし。ねえ、あいつのどこがいいの?」


 僕は恐れと怒りの狭間で頭を抱えた。あの子の世界は一言で言い表せるほど単純じゃない。ただちに理解できない深いところに、いつの間にか引き寄せられている。だけど、僕にはそこへ踏み込むこともできなければ、見離して視界から消し去ることもできなかった。また、胸の奥底から良くない気が高まり、少女の体に掴みかからんと手をふらっと伸ばしていた。


「イオギくん、お昼休みよ。行きましょう」


 友の声を聞き、我に返る。伸ばしていた手を引っ込めて、僕はクラスメイトの後に続く。少女から手を引っ張られたが、気にせず振りほどいて、体育館を出ていった。


 教室に戻ると、僕はお弁当に詰めてきた昼食を取る。具材はいつも湯せんで作るハンバーグやミートボール。あとは、すでに調理された、袋のきんぴらごぼうを別容器に入れて持ってくる。時間がない時はコンビニで買ってきたパンで済ませることもあるが、月々に親から寄越される金は一万円と限られているので、なるべく節約して、自分の小遣いを確保できるように努めなければならない。


 あと、クラスメイトのAくんから試合での活躍を誉められた。Aくんは勉強もできて運動もできる、凛々しい顔立ちをした男の中の男で、後輩の女子と一緒に帰っているのをよく見掛ける。学校行事では地味な役割しか果たせなかった僕ではあるが、今度ばかりはクジョウに借りができてしまった。当の彼女は午後の試合ではどう動くべきか、他の女子たちを集めて相談している。


 昼食を食べ終え、僕は教室を出ていく。


 やがて体育館に移ると、ワダチが一人でバスケをしていた。入り口でその様子を観察していると、ボールを何本かゴールに入れるが、最後の一投はリングの縁に当たって、こちらの方に転がってきた。そこでようやく僕の存在に気が付いたであろう少女が歩みを唐突に止めて、立ち尽くしている。


 体育館の靴を履いた僕は、おもむろにそのボールを使ってドリブルをして、向こう側のゴール前まで来てシュートを打つ。ところが、ボールはリングとボードの間に挟まってしまった。動かないボールを下から眺めていると、後ろから少女が歩いてきて、違うボールを使って、挟まっていたボールを打ち落とした。そして、黙ったまま歩き去る。


 僕はその後ろ姿に近付いて手を引く。


 しかし、手は振りほどかれた。


「触らないでよ」


 彼女は体育館に生徒たちが集まるまで一人で黙々とシュート練習を続けていた。その姿には不思議な既視感があって、初めて見る光景なのに、どこかで見たような気がした。




   4


「もう始まってるってよ。ほら、あの女子がすごいぞ」


 クラスマッチ、午後の部になった。午前中に敗退したチームは非常に手持ちぶさたな様子で試合を見ている。その感覚は部活動の試合の日に僕は度々味わっていたから痛いほどよく分かる。そうして時間を無為にするくらいなら、負けた者から速やかに帰ればいいと思う。だが、たかだか数分で終わる閉会式のためだけに、帰るに帰れず、暇を持て余した部員同士が駄弁に興じている光景はなかなか忘れられない。もっとも、僕は帰りの時間まで他の学校の試合を、その目で見ていたにも関わらず、強者の技を学習できなかったわけなので救いようがない。


 女子が活動的に動き回るバレーボールを、観戦している男子が多いようだ。僕もまた、自分のクラスの応援を口実にして、彼女たちの試合を舞台側のコート外で見ている。対戦相手は一年生のクラスで、ミチさんの居るチームだ。どちらかといえば、自分たちのクラスが勝ってくれたらいいと考えているが、一年生のチームにも少し肩入れしたくなる。


 長い髪を乱しながら動き回っているあの子は、ワダチの言う通り、やや奇妙に映るかもしれない。いわゆる「かわいさ」はないかもしれない。それでも僕は確かにそこで動いている彼女の存在に心を引かれ、離れられなかった。


 試合の状況は三年生チームが有利で、全体としての力の差が大きかった。クジョウは身のこなしが滑らかで動きに無駄がない。結んでいる髪もそうだが、体の柔らかそうなところも頻繁に揺れる。その度、辺りの男子は「おおー」という低い声と共に連帯感を表している。僕は絶対に参加しないぞ。……おおー。


 クラスメイトの女子たちは統率のある行動によって、明確な得点パターンが生まれ始めており、そのリズムを打開しなければ、一年生に勝機はなかった。その一年生チームはミスが目立ち始めて、険悪な雰囲気が漂っている。キャプテンの役割を果たしている、容姿端麗な女子がなんとか離れ離れのチームをまとめようとしているが、内部分裂は歯止めが効かず、ついには非の押し付け合いにまで発展していくようだった。ボールを取りこぼした人に舌打ちしたり、取れたのに取れなかったと非難したり、壮絶なやり取りだった。特に、ミチさんへの風当たりは強く、他の子の時より倍以上の怒号が飛び交う。浮かれていた男子たちはいつの間にか、バスケの方に去っている。


 試合結果は僕らのクラスが勝ったが、思い切り喜べるような空気ではなくなっていた。


 試合が終わると、クジョウは一年生たちをコートの外で呼び出し、説教していた。チームの失点はチームで分かち合うべきとか、試合に取り組む姿勢だとか、問題点を具体的に指摘していた。そういった、クラスメイトの実直さに僕は感動した。他の子たちは取り繕った表情や返事でやり過ごしていたが、ミチさんは相手の話にじっと耳を傾けている。一方で、キャプテンの子はまじめな顔立ちをして先輩の意見を聞き、最後に礼を言っていた。


 バスケの試合では、ワダチたちのチームが三年生たちと対戦している。残り時間は四分を切り、三年生はバスケ部の現キャプテンが居るチームで、ここでも力の差が圧倒的な試合展開だ。前年は、あのキャプテンが当時の三年生たちといい勝負をしていた。ワダチはそれまでのような機敏な動きをしておらず、すっかり気が抜けている。僕はバスケの試合が行われているコートの近くまで移動し、気力が失われゆく二年生の女子を応援した。その声が届いたのかは判らないが、他のチームメイトが抵抗を弱めている中で唯一、彼女だけは試合終了まで懸命に三年生たちに食らいついていた。


 二年生チームは大敗したが、僕は健闘した少女に歩み寄って「かっこよかった」と声をかけた。彼女はあっさりと、負けは負けだと言い放ち、平然と歩き去っていく。その後、体育館の外で一人うなだれていた。


 僕たちの試合になり、トーナメント表を見たら準々決勝だ。これで勝てば四位までに入れる。ここまで来ると残っているチームは当然強く、相手は二年生チームだが、ウォーミングアップでのドリブルは各人手慣れていて、寄せ集めの二軍である僕らが勝つのは難しそうだった。しかし、あの女の子の試合を見た手前、僕はあきらめずに戦い抜くことを心に誓った。


 ジャンプボールでは、相手チームの先攻から始まった。僕よりも身長の高いVくんがどんどん進んできて、早速ゴール下まで駆け込んでレイアップシュートで点数を獲る。攻守交代し、AくんとBくんが攻めていくが、二年生たちは均等な間隔で守りを固め、その最前線に居る、髪の毛が逆立っているWくんが積極的にボールを奪いに来る。僕は敵陣地の外側から攻めようと思い立ったが、ゴール下に居た眼鏡をかけたXくんにぴったりと追跡され、なかなかボールをもらえなかった。そうこうしているうちにVくんがまたしてもボールを奪い取り、ディフェンスが集まる前に、シュートを決める。Vくんの動きは間違いなくバスケ部のそれであり、僕ではとても歯が立ちそうになかった。点差が開いていき、あきらめかけていたとき、コート外から少女の声援がした。僕は勝てる気がしなかったが、Vくんの邪魔立てを何度も繰り返した。遊ばれていたとしても、あきらめに身を委ねなかった。その甲斐あってか、慢心したVくんがボールを落とし、僕は無茶苦茶なドリブルをして敵陣の一歩手前まで来て、最後の悪あがきをする。試合終了の笛が鳴る直前に、僕が左手で目一杯、天高く放り投げたそれは、アニメの一シーンのような軌道で、リングの真上に降りていき、床の上で大きく弾む。点数ボードには三点が加わった。点差は二〇から一七に変わった。


 僕たちのチームは当然のごとく、力の差を見せ付けられて負けた。


 試合後のあいさつを終え、体育館の外に出ていき、あえてだれとも顔を合わせないように努めていた。すると、背後から「かっこよかった」と聞こえて、負けは負けだと、正直に伝えた。


「やっぱりわたしたち、ちょっと似てるね」


 僕は昼休みの既視感に見当がついて胸を打たれた。少女のことがより身近に思えてくる。彼女はすぐにその場を去っていった。競争に負けたのと、一人になったのとで、僕は押しつぶされてしまいそうになった。


 クラスマッチの成績は、僕たちのクラスはバレーボールで優勝した。他の競技は違うクラスに勝ちを譲った。バスケの一軍チームは準決勝まで勝ち進んだが、Vくんたちの居るチームに僅差で負けてしまった。男子バスケの決勝は、現役バスケ部のキャプテンが居る三年生チームがVくんたちのチームを倒して優勝した。野球とサッカーについても他のクラスが成果を挙げた。


 表彰を兼ねた閉会式を終え、教室で帰りのホームルームが開かれた。生徒たちは体操着から制服姿に変わっている。体育館で競技の審判を務めていた、担任の先生は、クラスが一つでも優勝を取れたことを心から誉めている。これによって、僕を含めた教室のみんなは、クジョウという人間のすごさに改めて気付かされたことだろう。そんなことを考えていると、彼は僕の名前を挙げて「勝ち負けはともかくすごい執念だった」と甘やかしてくれた。


 放課後、クラスメイトたちが帰っていく。


 クジョウはいつものように教室で残っていくのかと思いきや、学校鞄を持って僕の席まで歩いてきた。バスケの試合について触れ、物事を最後まで続ける意志の素晴らしさを賞賛してくれた。僕のあれはそんな大したものではないが、そう言われるとうれしかった。


「今日は疲れたわ。家に帰って少しだけ休むわ」


 珍しく早めに教室を出ていき、僕もまた自宅に帰るべく廊下へ向かった。すると、教室後ろの出入り口付近に二年生の女子が居た。一緒に帰るかと問い掛けたら、黙って頷き、付いてくる。階段を降りていき、一階の靴箱までたどり着き、そこで革靴に履き替えて外へ出る。日は傾いてきて、夕刻が近付く淡い空色が見えた。


 駐輪場から自分の自転車を引っ張ってきて、校門を抜け、バス停までの道のりを二人で歩いた。


 部活動の事を尋ねたら、五月の頭には、やめたと言った。放課後は一緒に遊ばないかと誘われたが、僕は行けそうになかった。アルバイトがあり、行きたくても行けなかった。そう正直に話すと、少女は了承し、すぐ先まで迫っていたバス停の前に立つ。


 彼女は物静かな態度で、こちらを見ずに、別れ話を持ちかけた。付き合い始めて、二週間も経っていなかった。この数日の間でお互いの事がどれだけ判ったのだろう。僕は冷静に考えて、その申し出を受けようかとも思ったが、この一日を振り返ってみると、別れることができなかった。また週末に会おうという約束をして、バスで帰る彼女を見送った。




 その日のアルバイトには急いで向かった。


 疲れていたせいか失敗が多く、仕事に身が入らなかった。バイト中、頭が思ったように働かなくて、ぼんやりしてしまうことが時々ある。そういう日は働きたくない。働かせてもらっているのに働きたくないと思ってしまう。お店に来てくれるすっかり顔馴染みの人たちや人当たりの良さそうなおじさんおばさん。みなさんのおかげで僕たち従業員はお金をもらえる。一緒に働く先輩たち、店長も、一生懸命、それぞれの役目を果たしているように見える。彼らを引き合いに出して、自分の将来を考え込むと、ますます不安の色を濃くしていった。


 いつにも増して重い足取りで事務所に入っていくと、ロッカー付近の休憩スペースでオオクラさんが待ち構えていた。彼女とは帰り際にいつも話をする。特段、仲が悪くなったわけではないが、アパートに訪ねていた時期と比べて距離感はある。僕が仕事終わりのあいさつをすると、その返事をしつつ、学校での話を聞かせてくれた。この日、内科検診があったそうで、その医者が男だったため、いろいろと嫌な思いをしたらしい。僕は女性の胸の事とか考える気分でもなく(普段は好きだけど)、適当に聞き流した。


「なんだか元気ないみたい、です。なにかあったんですか?」


 僕の態度を察してか、気遣ってくれる。その温情をありがたく受け取り、将来への不安や自分の役割について悩みを打ち明ける。これから先、僕はどうやって生きていくのか。どういう位置付けの人間として過ごしていくのか。優秀なクラスメイトに相談したら、たちまち正しい意見を聞かせてくれるかも知れないが、この子の意見に関心があった。


「おいらにもありますよ、そういうこと。悩んでると、うまくいくこともうまくいかないような気がしてきて。でも、今を一生懸命に生きていたら、悩むことも忘れてるんだ。そうして、疲れて眠る。先輩と居ると、なんだかちょっとつらかったんだ」


 オオクラさんはすごくありふれた人だ。そう感じた。悩む時間すらなく、前に進むので精一杯みたいだ。そういう人たちに比べたら、僕は甘えきった贅沢な人間なのだろうか。立ち止まっている時間が長くなるほど、できることが減っていく。たとえ、望んでいない生き方だったとしても、とにかく走り続ける……。それがごくありふれていて、余計に虚しく思えてきた。アルバイトをしていると、人々のそうした生き方が、自分にも当てはまることを感じて、ここから逃げ出したくなる。


 バイトをやめたいと相談した。


 バイトの先輩は「寂しくなるね」と普段の口調で言い、いつ頃にやめるのかを聞いてきた。そこまで急いではいなかったが、翌月には、と答える。彼女は、相談事があればまた聞かせて、と言い残し、先に帰っていった。




 クラスマッチが終わり、時候はすっかり夏に入っていた。それまで学ランを着て学校へ行くところが、ワイシャツにズボンという姿に変わり、身軽になった。学ランは意外と重くて、しわや汚れに気を配らなければならないから、家に置いておくのが最も都合いい。ただ、ワイシャツの胸ポケットは、学ランほど深さがないため、ペンを差し込むには不向きだ。普段、そのポケットには学生手帳を入れるようにしている。


 学生手帳には、校則や校歌、学校の歴史が長々と書かれている。厚みはない。手帳のカバーには顔写真付きの学生証を挟み、校長先生に押印されたアルバイトの許可証も反対側に挟んである。学生証の写真は毎年撮られるのだが、二年生の時の写りが特に良くなかった。一年の時は色白であどけなさの残る面構えで、三年目の顔写真は一部の女の子に好かれそうな憂いを帯びた顔立ちをしている。なお、過去の学生証は自宅に保管してあるが、日付が古くなっていて効力はない。


 学校に来ると、自分のみならず、他の生徒たちもワイシャツ姿である。男子は学ランを着なくなっただけで、ズボンは冬仕様と、それよりも生地が薄めの夏仕様があるが、ぱっと見ただけでは分からない。僕が穿いているのは夏仕様だ。女子もまた上着のブレザーを着なくなり、ワイシャツ姿になるのだが、リボンやネクタイは依然として着けている。リボンを着けている人の方が多い印象だ。また、ワイシャツで、ブレザーの時よりも体の輪郭がはっきりうかがえるので、男子たちはきっとテンションが上がるだろう。


 気温が高くなってくると外に出たくなくなる。強い日差しにさらされて肌に良くない。授業では、先生たちもそれまでのスーツ姿からワイシャツ姿に変わり、夏の訪れは嫌でも認識せざるを得なかった。家に帰っても、用事がなければ、なるべく外を歩き回らずに過ごす。


 この日の午前中、衣替えに際して学年集会があり、学年別で体育館に集まって服装検査みたいなものが行われた。問題がなければ何も言われないが、髪が過剰にセットされていたり、元々の色合いとは違ったりしていると、学年主任や担任から注意を受ける。そうなることを判っているのに、不良みたいな生徒は居なくならない。生徒個人が自己主張や自由を掲げるのは大切な事かもしれないが、学校全体としては受け入れられざる思想なのだろう。僕も個人主義な面はあるが、学校に求められる義務を果たすことで、生徒としての自由を得られると知っているから、必要最低限の決まりはしっかり遵守している。授業態度は多少なめているところはあるが、減り張りを大事にしている点で、評価されてもいいと思う。


 昼休み、僕は教室で食事を済ませ、イスに座っていた。親しいクラスメイトもまた僕のところにイスを持って来ておしゃべりをしている。ワイシャツ姿だと胸の膨らみがなおのこと印象に残る。それを悟られまいと、なるべく彼女の顔を見るようにして、必死に耐える。やがて、恥ずかしくなり、僕は顔を逸らした。


「イオギくん、女性の胸は何でできているか知ってる?」


 それまでギリシャ神話のアポローンについて話していたかと思えば、急な方向転換にびっくりさせられた。僕は適当に「夢と希望」と答え、茶化してみたが、博識な女子生徒は即座に否定し、「ほとんどが脂肪で、あとは枝分かれした乳腺」と解剖学的な見地で淡々と語り始める。


 乳房(ちぶさ)の概要を一通り語り終えると、僕の目をまっすぐと見詰めながら言った。


「なぜ、そうした部位にこだわるのかしら」


 腕組みをしてその部位を強調させながら、問い掛けられたものだから、僕はあわてふためいて、最適な返答がすぐには思い付かない。助け船が出されたのは、その直後だった。クジョウが教室後ろの出入り口に人が居るのを見掛けたらしく、来訪者の存在を指摘する。廊下側の自分の席から振り向くと、そこにはワダチが立っていた。


 友人関係の窮地から抜け出せた事を、あの質問とは(ある意味)無関係な二年生の女子に伝え、感謝を述べつつ用件を聞いた。何も知らない彼女は戸惑いを見せたものの、手招きをして僕の頭を引き寄せる。耳打ちをして、「来て」と誘われた。


 カノジョに案内されるまま、階段を降り、一階から繋がっている渡り廊下を歩き、体育館の陰まで連れていかれた。生徒の気配がほとんどなく、風が吹き抜ける、開放的な場所だった。夏服姿でも長い髪を背中まで下ろしている後輩は辺りを見回しつつ、もじもじしている。僕は背の高い図体(ずうたい)が目立たないよう、しゃがみこんで体育館の壁に寄り掛かる。


 ワダチは耳元でこそこそと話した。


「わたしにも来たの」


 なにが来たのか聞くと「女の子」が来たのだそうだ。言っている意味はよく判らなかったが、あどけない顔をにこにこさせながら、ハイタッチを求めてくる。立ち上がってそれに応じると、大げさにも抱き付かれた。シャツをぐっと掴み「こわいよ」と連呼している。


 僕は女の子の髪をなでて、落ち着かせた。


「好き」


 少女は、交際相手である僕がすでに判りきっている事を口にした。今さら言われなくても判っているが、そう言われるとなんだか安心する。この時のそれは、心からの言葉なのだと、声色や表情でよく伝わってきた。よく分からないけど、おめでとう。


 そう心の中でつぶやいた。




   5


「先輩が居なくなるとおいらさびしー、です」


 アパートの一室でごろごろしている年下の女子が、やけに思わせ振りな声を出す。同性から激しく嫌われるようなあざとい声色だ。すると、僕から見て右側の、この部屋の左隣に繋がっているだろう壁から大きな「ドゴッ」という音がした。彼女は声の大きさを抑えて、もう一度同じ文句を唱え始める。


 この日は金曜日で、学校から帰った後、アルバイトに行き、仕事が終わると、バイト先の先輩であるこの子に食事へ誘われた。前回のように身の上話をしたり、悩みを聞いてもらったり、あとはクラスマッチやクラスメイトについて学校の話などをした。ここに連れてこられてから、もうしゃべりっぱなしだ。


 余談だが、ファミレスに行って、僕はカルボナーラを、彼女は担々麺を頼んでいた。今度も先輩のおごりということになり、食事代を払ってもらった。味は、ナポリタンの時と同じで価格相応だった。強いて言うなら、玉子の持つとろみとチーズの酸味が、弾力あるぎとぎとした麺に絡み合って、口の周りを黄色く染めながら、確実に口の中で細分化されて広……とにかく同じだ。


 週末はカノジョと会う予定があるため早く帰りたいのだが、おごってもらった手前、なかなか言い出せず今に至る。切りのいいところで脱出を試みたい。ワダチに知れたら、浮気だなんだと騒ぎ立てるに違いない。


 駄々をこねていたオオクラさんは、酔った人みたいな面倒くさい感じで絡んできて、バイト先の愚痴を話し始めた。なんでも、主婦層の従業員たちからこき使われるみたいで、その人の名前を挙げて「自分でやれっつーの」とご機嫌ななめになり、ぷりぷりしていた。小一時間、一方的に付き合わされ、ようやく激しさが収まってきた。


 突然、メールの着信音が鳴った。「泪のムコウ」のサビ部分が聞こえてきて、だれからだかすぐ分かる。ポケットからケータイを取り、画面を確認すると、案の定ワダチからだった。この頃はメールのペースが緩やかなので、邪険にせずちゃんと読むようにしている。内容は翌日の事だった。



To: ゆうしゅん

From: 軌ちゃん

Date: 201X年06月0X日

Sub: だいすき!

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こんどの土曜日だけど

ゆうしゅんのおうちに

いくね q(*´ω`*)p


9じには

ついてるようにする!


おやすみ

( *・ω・)ノシ

    - END -

――――――――――――――


 会う時の予定をワダチが決めるのはいつもの事なので、その通りにする。家まで彼女が遊びにくるのも気にならない。その時刻には、祖父母は昼まで仕事で出掛けているし、おやじも家を空けている。


 軌(わだち)ちゃんというのは、僕の携帯電話に登録されている名前だ。「ちゃん」付けにしてある。その場のノリだ。メル友とは違い、本名のアドレスを登録するときは「さん」を付けることもある。ちなみに、オオクラさんの電話番号は「大蔵大臣」とふざけて登録してある(アドレスは交換していない)。あと、自分の名前が「ゆうしゅん」とひらがなで登録してあるのは、堅くならないようにするためだ。なにより「優」の字が自分でも好きじゃない。


「カノジョさんからですかー? あー、もうこんな時間。スイマセン、先輩。おいら、今日なんだかしゃべりすぎました」


 ケータイで時間を見たら、そろそろ十一時になるところだった。僕は荷物の入ったショルダーバッグを持ち、立ち上がる。オオクラさんもまた立ち上がるが、顔に出やすいせいか、悲しげな目をしている。彼女は玄関先まで見送ってくれて、僕はすぐ近くに停めて置いた自転車に乗って走り出した。


 バイト先から帰る時は、僕が小学生だった頃に六年間歩いた道を通る。幼馴染みの子とはずっと同じ登校班だったから、まさしく幼馴染みなのだが、それらしい進展は一切なく卒業の日を迎えた。通り道で、違う高校に通う親友の家も、わずかに見える。


 小中学校での腐れ縁の彼とは、時々連絡を取り合っていた。この頃は勉強で忙しそうなので遊んでいる余裕はないようだ。中学を卒業してから関係も大して良好ではない。高校一年の時は、互いに携帯電話を見せびらかし合ったが、メールでは返事もろくにくれず、電話してもほとんど出ないし、うまくやり取りできていない。仮にも幼馴染みで、同じ名前をしているのに、どこか馬が合わないところがあり、小学生の時から隔たりはあった。あいつは僕の事を友とは思っていないのだろうか。数少ない、僕の理解者だから、薄情にはしてもらいたくない。


 およそ六年前を懐かしみながら自転車をこぐ。夜道は恐ろしい。街灯が照らしているとはいえ、人気がなく、点滅している信号が不気味だ。車は一台も通らず、見慣れた道を進んでいく。数年も経つと、建物がなくなっていたり、新しく建てられたりすることも多い。家々の明かりは消え、街は寝静まっている。背後から何かが迫っているのではないかとも思える錯覚にさいなまれつつも、広い庭が特徴的な家に帰ってきた。


 風呂上がりの祖母が体にタオルを巻いて、母屋へ歩いてくるところだった。孫と顔を合わせると、帰りが遅いのを心配していたが、座敷の奥に引っ込んでいった。家の前には大型トラックが泊まっていて、おやじの居るリビングは電気が消えている。僕もそろそろシャワーを浴びて寝よう。自転車を車庫の片隅に停め、家に入っていった。




 翌朝、目が覚めた。部屋の時計を見ると、午前九時を一〇分ほど過ぎていた。マットレスの上に敷かれた布団から慌ただしく起き上がる。


「おーはよっ。ユウシュン」


 寝床のそばに、私服姿のカノジョが座っていた。キャスケットの帽子は取っていて、白のタンクトップに、黄土色をした丈の長い薄手の服を着て、暗めの(深緑っぽい)ロングスカートはすっかり定着している。短いスカートを穿いている時がない。


 自宅は基本的に施錠しない家なので、だれでも入れてしまう。それなのに泥棒が入ったという話をあまり聞かない。無駄吠えの多い番犬が屋内外に居るため、それが理由かもしれない。僕が戸惑いぎみに「電話してくれればいいのに」と言ってからケータイを確認してみると、着信履歴が軌ちゃんで埋まっていた。


「待ちきれなくて。ユウシュンに早く会いたかった」


 ワダチの座っている横には大きめなトートバッグの他に、レジ袋が置かれており緑茶が入っている。彼女にしばらく待つように伝え、寝巻き姿(私服)のまま一階に降りて、洗面所で顔を洗った。うがい手洗いも済ませ、二階に戻る。今さら見られても恥ずかしくはないので、女子の居る前で部屋着から普段着に着替える。


 待たされていた少女は脚を崩して、部屋の中央に敷かれている長座布団の上で座っている。僕の部屋は家具が少なく、あるのは勉強机と寝具、そこそこ高価な薄型テレビが乗っている台くらいだ。クローゼットには制服が引っかけてあるほか、押し入れの地べたにはいろいろな私物が入っている。古い教科書やノートは燃やして処分した。使えそうな国語の教科書や資料集だけ保存してある。


 休日は大体、ゲームをやる。一人だとPSPやニンテンドーDSを好んでやる。二人居る時はスーファミ(スーパーファミコン)で遊ぶ。幼い時は、きょうだいとそれでよく遊んだが、彼らとは関わることが次第に減った。僕はスーファミというより64やゲームキューブの世代なのだが、据え置きのゲームを新調することが全くなく、古い機種でやり過ごしていた。本音を言えば、プレステ2でSIRENをやったりWiiで呪怨のゲームをやったりしたいのだが、高価な本体を買うのは金欠学生にとっては敷居が高い。


 携帯型の方が本体もソフトも安価で、学生でも手が出しやすく、PSPでモンハンをやったりDSでラブプラスをやったりするのが流行っていたみたいだ。僕はそのどちらもやったことがない。PSPでは武装神姫や初音ミクの音楽ゲームを黙々とプレイし、DSではロックマンエグゼ5DSやサバイバルキッズを漠然とプレイしていた。


 スーファミで二人だと、スーパードンキーコングやマリオカートなどで遊ぶのが無難だと思うが、どちらもそこそこ難易度が高い。MOTHER2やかまいたちの夜を、おしゃべりしながらプレイするのに終始する。対戦系のゲームをやると、ワダチが勝てなくてかわいそうだから、結局一人用のゲームで数時間遊ぶ。この日はロックマンX2をプレイした。前作で自爆したゼロが再登場するので、その辺りまで進める(そこまでいくともう終盤)。


「ここの曲好き」


 テレビの画面を見ている少女はそうつぶやいた。


 プレイしてから一時間半くらい経ち、八体のボスを倒し、複数のステージで構成される、敵の本拠地に差し掛かったところだ。その一面と二面は共通の音楽が流れる。これがいいのだという。


 三面の、トゲ地帯を抜けた先の、下へ降りていく左側の壁沿いに現れるライト博士から昇龍拳を習得し、頭上からブロックを落としてくる筒状のボスキャラ、アジールと戦う。ロックマンは基本的に横方向に攻撃する手段しかないのだが、敵から獲得した武器を使えば上にも攻撃できる。X2の武器は、シャボン玉を放ったりゴミを四散させたり、複数の刃を真上に飛ばしたり車輪のトゲを八方向に飛ばしたり、上下に操作できる十字型の武器などもあるため、ボスが頭上に居たからといって必ずしも致命的ではない。それに、そういった武器に頼らずとも、燃える拳で真上に飛び上がる昇龍拳を使えば、すぐに方(かた)が付く。強さで比べたら、一面のバイオレンの方がずっと手強い。


 ロックマンシリーズ恒例の、八体のボスとの再戦をし、高威力の昇龍拳で順々に破壊していく。五面でようやくゼロに会える。五面は、元々八つのステージのうちの一つで、そちらから選んでも最終決戦の仕様になる。ちなみに、そこで流れる音楽は一番最初のステージと同じである。本来なら中ボスが現れる場所で、復活したシグマとゼロが待ち構えている。ここで、八つのステージの中盤に現れる三人を倒しゼロのパーツを三つとも取り戻していたら、すぐにシグマとの戦いになるが、一つでも欠けていたらゼロと戦わされる。いずれにしても、シグマを倒してゲームは終わる。今回はゼロのパーツが揃っているので、シグマは偽物のゼロを連れて登場する。その後、復活した本物のゼロが現れて、偽物を破壊する。シグマは一旦逃げるが、ゼロがエックスに道を示し、基地の奥へ去っていく。ゼロが開けた穴に向かって、昇龍拳を使って降りるのが僕個人としてのポイント。


 紆余曲折あり、シグマを倒した。シグマはX2より初代の方が強いと思う。爪と雷撃は厄介だが、弱点となる武器がしっかりあって、空中での機動力を活かして対処すれば楽に倒せる。昇龍拳さえ当てたら、呆気なく倒せる。一ミリでもダメージを受けた状態だと、昇龍拳を使えなくなるので、回避はしっかりする。


 お昼前の十一時半には一段落してスーファミの電源を落とし、腰掛けていた布団に横たわる。ホラーゲームの方が盛り上がるのだろうけれど、僕はマイペースにその時やりたい作品をやっている。少女はずっと隣でゲームを見ていた。上着を脱いで、その場でじっとしている。僕が近寄って後ろから抱っこすると、ひざの上に乗ってくれる。彼女の体は僕と同じ方を向き、軽い体重が下腹部にかかる。


「いつまでもこうして居られたらいいのに」


 しみじみ言われると、こちらも離れるのが惜しくなる。


「ワダチのおうちの人が許してくれるなら、うちに泊まってもいいよ」


 彼女はしばらく黙り込んで、やがて鞄のポケットから携帯電話を取り出した。スマートフォンというやつだ。画面を一瞬だけのぞき込み、僕には見えないようにして仕舞う。「今日はいい」と距離を置かれた。それまでとは目に見えて減退してしまった何かを察し、僕は名残惜しさと一つのあきらめを見詰めていた。


 午後になり、僕たちは昼食を取る。ワダチはお弁当を作ってきてくれたみたいで、持っていた鞄から大きめの箱を引っ張り出す。外から祖母が昼飯の事を聞いてきたので、僕は二階の部屋の窓から「要らない」と報告する。休日は昼を食べる時と食べない時がある。


 お弁当は本格的な盛り付けで、具材も主菜や副菜のバランスが整っていて、特にホウレン草はしょうゆが丁度よく染みていておいしかった。おかずにはハンバーグや鮭が入っていて、見た目から明らかに既製品とは違い、よく作り込まれている。ここまで用意するのは大変じゃなかったかと尋ねたら、少女はそれをあっさり否定し、母に作ってもらったと述べた。


「わたしも料理をするようにってうるさく言われるけど、なんかめんどくさくて」


 学校のお弁当も毎朝、母が作ってくれるそうだ。ワダチのおかあさんは専業主婦で、副業で料理教室の先生もしているらしい。おとうさんは有名企業に勤務しているらしく、実質共稼ぎの家庭のようだ。それを聞かされて、彼女の金銭感覚には納得する。


「女の子は料理できた方がいいのかな……?」


 時代によって求められる能力は変わってくる。僕のおふくろはあまり料理をしない人だった。彼女よりも二十年以上先に生まれている、父方の祖母は料理が上手だ。できて当然のように、毎日何かを作る。だが、完成品が売り出され、外食も広まっている現代では、必ずしも料理をする必要はない。自炊をすることが最も安上がりなのは理解できるが、仕事で忙しい現代人は時間を優先して、外食で済ませるのも一つの選択肢だ。細かい性格の僕は意外と上手に料理をできるかもしれないが、下ごしらえや道具の使い方が不器用なのでやらない。


 料理に秀でた女性はそれだけで家庭的な魅力があり、男性が憧れる要素でもある。女性の社会参加が推進されゆく現代では、そこまで重要ではないと思うが、持っていれば強みにはなるだろう。そう僕が伝えると、ワダチはよく頷いて、一つの提案をしてきた。


「今度からユウシュンのお弁当を作ることにする。お昼前に一緒にお弁当を食べよう?」


 もちろん僕は了承し、ワダチの持ってきてくれたお昼ご飯を完食した。彼女も少し口にしていたが、食が細いようだった。


 食事の後は二人でくっつき合う。少女の柔らかな質感を持つ肢体を包み込み、そこにある確かな生命を全身で受け止めていた。この温かみは人の体内に流れる命が保っている。この重みは決して交じり合わない孤独を知らしめていた。他人の体が自分の体と溶けて合わされば、満たされるのか。お互いの欠損を埋め合うように、何度も抱き締める。


 一時間以上そうしていた。午後二時を回り、僕はまたスーファミをやろうかと、ロックマンX3のカセットを取り出す。彼女はお手洗いに行っているところだった。持ち主が不在の時に、例のスマホが振動する音が聴こえてきた。


 ワダチが部屋に戻ってきて、僕が電話の事を教えると、鞄からそれを取り出し画面を見ている。その表情は焦りとも憤りとも見えて、無言のまま座布団の上に腰を下ろす。僕はゲームの電源を入れるところだったが、話し掛けられたので手を止める。


「ユウシュンはわたしのこと、好き?」


 なぜそれを聞くのか、僕が尋ねたら、「やっぱりなんでもない」と言った。


 付き合ってから、この子の良いところも悪いところも数々見てきた。怒りっぽくて嫉妬深いところはお互いに似ているし、孤独に怯える寂しがりなのに強がるところも恋しくて、心引かれる。感情的になるとわがままなのが厄介だけど、僕の事を一途に好いてくれるのは一緒に居て判る。負の感情を包み隠さず表してくれるから、そういうところはむしろ好印象であり、嫌いではなかった。


「ワダチ」


 僕が呼び掛けると、彼女はこちらを見た。目が合ったのを確認して、肩に手をかける。好きかどうかは言葉ではない。その答えを、ただ一つの方法で示した。


 キスの最中、少女は突然息を乱して、泣き出した。


 僕は顔を離し、わけを聞く。それでも何も言わずに、涙を流していた。


 それから抱擁を再開したが、彼女の態度は一向に晴れ晴れとしなかった。午後三時を過ぎると「用事がある」と言い残し、僕の元を去っていった。




 違和感があったのはその日だけではない。


 日曜日はワダチと会えず、次の週になった。月曜日の学校の昼休み、ワダチは長かった後ろ髪を首の辺りまで切った姿で現れた。髪型はショートになり、運動部の雰囲気がする。暑くなるから鬱陶しくなって切ったのだろうか。印象が様変わりして、あどけない顔がより際立つ。愛らしさはある。


 渡り廊下の近くに中庭があり、そこに点在するベンチの一つを選んで、昼食を共にする。彼女は小さめな弁当に詰められた玉子焼きや唐揚げを食べている。僕が渡された方に入っているのは、形のいびつなハンバーグや個性的な形をしたニンジン、今にもちぎれそうな切り込みの多いウインナー、ブロッコリーなど。あと、小さいおにぎりが二つ入っていた。二つの弁当を見比べたら、作った人が違うのは一目瞭然だった。


「おいしい?」


 味は悪くなかった。見映えこそ指摘できる箇所は多いが、食べてみて不快に思う点はない。だれかのために何かを作ってきてくれるのはそれだけで価値のあることだと誉め、おいしいと伝える。少女は恥ずかしげもなく僕に愛の言葉を述べる。


 それから髪型の事を聞いてみると、ぎこちない笑顔を作り、何年か振りに切った、と振り返っていた。初めての昼食なのに、あまりうれしそうじゃない。食べ終わると、お弁当を片付けて、すぐにその場を去っていってしまった。




 同じ日の放課後、駐輪場で帰る準備をする。


 ふと前を向くと、中庭の方に歩いていくワダチが見えた。あの子、帰りは決まって僕のところに来るのだが、何か変だった。鞄を荷台に縛り付けた自転車から離れ、そちらに歩いていく。


 普通棟の陰、中庭の端で二人の生徒が立ち話をしていた。少女と話しているのは、クラスマッチでバスケの強かったVくんだった。彼は二年生の体操着を着ていて、これから部活に行くのだろう。僕の居る渡り廊下からは遠いので、彼らの話し声は聞こえなかった。しかし、ワダチの表情は穏やかではない。Vくんは学校鞄から取り出したスマホを持っている。それをまた鞄に仕舞うと、会話が終わったらしく、中庭を出て体育館の方に歩いていった。


 少女はうつむいたまま、渡り廊下に合流する。近くまで来て、僕が立っているのに気が付いた。何を話していたのか尋ねると、「なんでもない」と言って通り抜けようとする。僕はその手を掴んだが、恐ろしい速さで振りほどかれた。


 その後、家に帰ってからバイトへ行く前に、自室に置いてあるケータイで、ワダチにメールを送ってみたが、すぐ反応するはずの彼女は返事をしてこなかった。




 間もなく梅雨に入り、天気が崩れる時期だった。あの日以来、ワダチは学校に来なくなった。




   6


「イオギくん。顔色悪いわね。ちゃんと食べてる?」


 雨が降ったり降らなかったりする六月中旬。僕は自転車をこいで学校まで来る。悪天候での登校には慣れているから苦でもない。僕を苦しめるのは失恋後の激しい胸の痛みだった。ワダチの居る二年生の教室に行ったら、そこに居た彼女のクラスメイトの女子からは幾度とも休みだと言われ、メールをしようとも一向に返事が来ず、絶縁状態になっていた。


 僕の見立てでは、あの男子生徒に何らかの関わりがあるはずだ。競技をしたため、彼のクラスがどこかは知っている。しかし、具体的な解決策はなく、行動にも踏み出せず、教室で僕は二の足を踏んでいた。食欲が湧かず、何も食べずに昼を過ごすことも増えた。彼女の家に行き、見舞いくらいしなければ……。だが、最初の給料が出るまではお金に余裕がなかった。頭を抱えるしかない。


「頭を抱え込んで、悩み事?」


 最も仲の良いクラスメイトは低い体勢から僕の顔を見上げてくる。隠す理由もないからワダチの事を相談した。学校に来なくなってしまったこと。男の子と話していたこと。細かいところまで、なんでもしゃべった。すると、賢い彼女は、すぐにVくんとワダチの間にいざこざがあって学校に来れない理由ができたのだ、と推察した。僕がその「いざこざ」について質問すると、眉をひそめ声を小さくして言う。


「痴情のもつれじゃないかしら。心当たり、ある?」


 僕は何も聞いていない。中庭で見掛けるまで、あの子が他の男子と関わりを持っていたことすら知らなかった。彼女の性格からして彼氏に対する不義があるはずはない。他のだれかを好きになった様子もなく、一貫して僕を愛してくれた。


 それとも、過信しすぎなのだろうか。僕の前で見せている顔はすべて偽りで、もう一つの隠された顔があるのだとしたら……。それこそ魔女だ。他の男と興じている様を想像すると、怒りが沸き起こりそうだった。だめだ、信じてあげないといけないのに、思い浮かぶ情景が悪い方向に移り変わっていく。


「……二年生の彼が関わっているのは間違いなさそうなんだ。でも、彼に直接問い詰めたところで警戒されるだけかもしれない。ワダチ本人から真相を聞きたいけど」


 クジョウは腕組みをしながら考え込んでいた。さすがの彼女でも、すぐに解決策は浮かばないようだ。金銭的な理由でワダチの家まで会いに行けない事を伝えたら、クジョウはお金の貸し借りだけはしないと断言した。僕も始めから資金の援助は考えていない。


 ふと何かが頭の中でひらめいた。僕は席を立ち、教室から出て、廊下を歩いた。


 階段を降りて一年生の教室まで向かう。長らく足を運んでいなかった所に来た。すると、クラスマッチのバレーボールでキャプテンをしていた、容姿端麗な女子が顔を出して用件を尋ねてくる。今回は探している人がそこに居て、僕と話している女子が手引きする前に窓側から入り口の方まで歩いてきた。対応してくれた女の子は教室の仲間の元へ戻っていった。


 教室の入り口で僕は少女に二、三質問した。ワダチについて聞いたら、僕が予想していた通り、旧知の仲であると告げられた。学校に来ない彼女の様子を見てきてほしいと頼み込むと、即座に断られてしまった。二人の仲が良くなさそうなのは僕も知っていた。それでも三つ目の質問をしたかった。


「あたしには関係ない。……あの人のことを大切に思うなら、あたしに頼らないで」


「待ってくれないか。最後に一つだけ聞かせてほしい」


 自分の席へ歩き去ろうと背中を向けた少女に僕は三つ目の質問をした。彼女はこちらを見ずに耳を傾け、やがて肩越しに顔だけを向けて答えた。


「あの人はそうじゃない」




 教室に戻ってきて、僕は自分の席で考え事に没頭する。三つ目の質問はワダチの根幹に関わる事柄だった。だが、あのように断言された。そう分かると僕の気持ちは軽くなった。


 僕が戻ったことに気付いたクジョウはこちらまで来て、どこに行っていたのかを尋ねる。一年生の所だと教えたら、合点がいったようで頷いていた。ミチさんにした質問の内容についても情報を共有した。




 何かが足りない放課後、アルバイトがあった。雨に降られながらも雨衣をまとい学校から自宅に帰り、制服を私服に着替え、また自転車をこいでバイト先のスーパーに行く。


 六月に入ってから遅刻が増えた。店長からも指摘されていた。雨が降るとなおさら時間が掛かるため、間に合わないことが多い。事情があって遅れたとしても風当たりが強くなる。私情では人を納得させられず、間に合ったかどうかだけで判断された。集団には集団のルールがある。仕事の妨げになる僕なんかここには必要ない。


 雨の日だからと暇になるわけもなく、仕事は面倒くさくてだるかった。業務に慣れれば慣れるほど時間が長く感じられて、より多くの仕事ができるようになるのは疲労も増えることを意味していた。能力の低い人でも働いた時間分の給料がもらえるのに、必死になって働くことに意味があるのか僕には今一つ解らない。終(しま)いには、お店からいいように使われるだけと逆恨みしている。店長や先輩たちから冷たい目で見られている自覚はある。それでも小さじ一杯程度の責任感だけが僕に労働を行わせていた。それは何かの拍子でスプーンからこぼれ、空っぽになってしまうのは明らかだった。まだ僕は厚かましく仕事をこなせる。惰性で業務に当たっていた。


 仕事の終わる午後九時には精神的な余力がほとんどなくて、身も心も疲れきった状態で店の裏側に入る。自分のタイムカードを手に取り、機械に通す。溜め息が漏れた。


 事務所では、オオクラさんがイスに座って店の雑務をしていた。商品の値段の書かれている紙を切り貼りしている。特売日になると頻繁に値札を入れ換える。従業員で手分けして行っているのだろう。まだ帰らないのか聞いたら、区切りが着くまで雑務を続けるそうだ。僕は仕事のエプロンと名札をロッカーに投げ込み、荷物を取ってさっさと歩き出す。


「先輩、やけに機嫌悪い、ですね。何かあったんですか?」


 よく話をするよしみで僕は懸案事項をそれとなく打ち明けた。すると、イスから立ち上がって、ひどく興奮した様子で迫ってくる。後ずさりして距離を取る。しかし、まだ帰らないようにと指示された。その勢いに負けて、大人しく立ち尽くす。仕事熱心な先輩は机の上の仕事を手短に片付けた後、ロッカーに向かった。それから帰る支度を済ませ、再び僕のところに戻ってくる。自身の鞄から取り出した二つ折りの財布から一万円札を抜き、紙幣を僕に渡す。


「先輩、これ使って! です。後悔しないように、できることを、してください!」


 返すのはいつでもいい、と付け加え、店の外へ走り去っていった。


 僕には強い意志が宿った。




 後日の放課後、学校に自転車を置いたまま僕はバスへ乗り込んでいた。アルバイトを無断で休む覚悟で、自宅とは逆方向へ行く。降りたバス停からしばらく歩き、見慣れたコンビニに到着する。そこを起点に、あの子の家へ向かった。目的地までおよそ二〇分かかった。


 家の裏側には、二台停まる大きさの車庫に乗用車が一台停まっている。僕は正面の門から呼び出し用のボタンを押した。対応したのは女性だった。聞き慣れない声だった。玄関のスピーカー越しに、ワダチの親しい友人だと彼女に伝える。了解を得て、扉が開いた。現れたのは髪を後ろに縛った壮年の女性だった。初対面だが、顔を見てあの子の母親なのだと直感する。出迎えてくれた婦人は僕の身なりを見た上で、早速家に入れてくれた。


 まず、居間に通され、ソファーに案内された後、お茶を出してもらった。ワダチの母は立ったまま、娘の登校拒否を嘆き、謝った上で礼を言ってくる。僕は慌てて立ち上がり、受けた謝罪に謙遜した。彼女は自信に満ちた表情をした、できる感じの女性で、僕が家に上がってから常にその目を光らせ、油断はなかった。こちらが改めて学年と名前を自己紹介すると、ワダチの母もまたマクラギコズエと名乗った。


 コズエさんは来訪者の小手調べが済んだのか、ワダチを呼んでくると言い残し、居間を出ていく。階段を上がっていく足音が聞こえる。それから階段を下りてくる二人の足音を聞いた。ソファーに座っていると、居間のドアが開き、コズエさんとパジャマ姿の少女が入ってくる。母は台所に移り家事を始めた。娘は僕の隣に腰掛けた。


「なんで来たの」


 声に明るさはなく、今にも消えそうな弱々しい響きだった。心配だったから来たと答える。そして、学校に来ない理由を聞いた。ワダチは体調が良くないとだけ言った。


 ふと、屋根の方から水滴の打ち付ける音が聞こえ始めた。


「なにで来たの」


 ワダチは窓の外を気にしながら聞いてくる。僕は学校からバスでこの近くまで来たと伝えた。居間の時計では、午後四時半を回るところだった。


「気を付けて帰ってね。もう来ないでいいから」


 途端に「その言い方はないんじゃない?」と台所の方から聞こえてきて、少女は「っせーな」と小声で毒づいていた。


「一人で悩んでないで、僕にできることがあれば、なんでも言ってほしい」


 僕が言えるのはそれだけだった。会話を切り上げ、ソファーから立ち上がる。居間のドアの前で一度振り返ると、かたわらに居た女の子は座ったままひざを抱えて固まっていた。廊下へ出て行くと、コズエさんが見送りに来てくれた。


「あの子はあんな事を言ってましたけど、また来てもいいですよ。ユウシュンくんなら、普通に会話できるみたいですし」


 ワダチが家族とどういう関わり方をしているのか肯定的には捉えられなかった。もう一度ここに来ても、おそらくあの少女に巣食っている障害は取り除かれないだろう。僕は社交辞令で「機会があれば」と言い、マクラギの家を出た。


 雨衣は自転車と共に置いてきた。雨が強くなる前に、来た道をたどり、バス停まで走る。バスが来るまで大して時間はかからなかった。


 バスで学校付近に戻り、駐輪場まで駆けて、屋根のあるそこで雨衣を着た。荷綱を用いて自転車の荷台に学校鞄を縛り付ける。雨が降っている時は、その際にビニール袋で鞄を覆う。準備を整え、自宅へ急ぐ。


 この日は午後六時くらいに帰宅した。


 すでに予定より一時間以上遅れていたが、帰宅した僕は私服姿になり、また雨衣を着てバイト先のスーパーへ出掛ける。たとえ労働時間が短くなっても、いつもより強い責任感が足を動かした。降る雨は学校付近でバスを降りた後から、水滴の落下が耳で感じ取れるほどの強さになっていた。日没の暗さと雨衣の帽子で視界が悪くなり、わずらわしい。


 スーパーに着くと六時半を越えている。事務所に店長が居て、僕は覚悟を決めていたが、思いのほか風当たりは強くなかった。脱いだ雨衣を店の裏口に置かせてもらい、仕事の支度を始める。この日のバイトは二時間程度しかできなかった。遅刻した気まずさもあり、居心地の悪さを覚えながら業務に当たっていた。夕方の混雑時間で、仕事着姿のオオクラさんが忙しなくレジで商品を読ませたり操作したりしている。僕は時間毎に決められている業務を行い、夜九時まで働いた。


 業務を終えて九時を少し過ぎた頃に事務所へ戻ると、もう店長は居なかった。彼は八時には退勤し、残りの時間はパートやアルバイトスタッフが店頭に居る。九時に帰るのは高校生である僕ともう一人……。


「先輩、今日は休むのかと思ってた、です。どうでした?」


 放課後にあったことを包み隠さず伝えた。大きな進展はなかったけれど、ワダチに会えて僕の不安は和らいだ。しかし、障害をいかにして取り除くべきか悩んでいる。


 この日、僕がここに来た最大の理由でもあるオオクラさんに、借りていた一万円のうち九千円を先に返し、残りは給料日になってから渡すと約束した。また、彼女は店長に僕の欠勤をあらかじめ伝えておいたと説明した。どうりでわずかに優しかったわけか。


「おいらにできることがあれば、なんでも言ってください!」


 気の利く後輩に親しみを覚えながらも、申し訳ないと遠慮する。断られても一歩も譲らず、何かさせてほしいと迫ってくる。にらみ合っていても仕方ないので、クジョウに相談した情報を共有する運びになった。オオクラさんは「やっちゃいますか」と言って右の拳で左のてのひらをなぐる仕草をしている。前々から思っていたが、このご時世に暴力で解決できることはたぶんないと思う。


「おいらにいい考えがある! です」


 そう言うと、全身に余計な力が入っている女子は破天荒な作戦を提案してきた。僕は冗談半分にそれを聞き、その晩は寄り道をせずにバイト先から家へ帰った。




 翌日も曇天だった。


 この日はバイトがないので、放課後はクジョウに例の件をどうすべきか更なる助言をもらうつもりだった。朝の、始業前の時間をわずかに借りて、前日のワダチの様子をクジョウに細かく報告した。明晰(めいせき)な頭脳を持つ彼女は即座にある仮説を打ち立てて、そうだった場合の解決法を述べる。


「相手の家柄にもよるけれど、彼の両親にその事実が明らかになれば、彼の持っているそれは即刻破棄されるはず。……それが既に別の媒体にコピーされていたら厄介ね。解決にならない」


 便利な時代になった反面、不便を感じる。知られたくない情報が悪用される。男女に関わることなら、なおのこと質が悪い。たった一人の悪意が一生消えないだれかの傷を拡散し、大勢の目の前に晒(さら)し続ける。そして、個人によって共有されたら半永久的に残り続ける。


 ワダチとVくんの関係性について、僕が独り言混じりに疑問を呈していると、クジョウは唐突に切り出してきた。


「イオギくんはあの子の事をどれくらい好きなの?」


 僕は憤りそうになったが、質問の意図に興味を持たざるを得なかった。マクラギワダチへの恋慕が自発的に始まったとは言い難く、それを繋ぎ止めている感情に一点の曇りすらないとは必ずしも言い切れない。


 問いに続けて、こうも言った。


「私は『あの一年生』がイオギくんの好きな人だと考えていたわ。困っているあの子を助けたい気持ちに偽りはないはずだけど、関係を終わらせるなら今ほどの好機はない」


 散々な言い様だったが、僕は決して怒らなかった。クラスメイトの顔付きと声色には一切の邪念がなく、一人の友人としての気遣いが感じ取れたからだった。しかし、このような形での決別は望んでいない。別れるとしたら、その時はお互いにわだかまりがなく、きれいに終わりたい。本当に愛し合っていたのなら、別れ際も二人は笑顔でいられるはずだから。


 僕が自分の考えを伝えると、クジョウはかぶりを振って冷たく諭した。


「だれもがイオギくんのように考えたなら、事件なんか起きないわ。実際、個人の間や法廷で男女が対立する事なんか珍しくないの。だからこそ、その感情が本物なのかどうかしっかり見極めてほしい。あなた自身のために」


 この女子は実直な物言いをする。それが相手の反感を買い、誤解を生んでしまう。知識を鼻にかけているように見えて、なおのこと関われる人間が限られてくる。幼稚で感情的な人ほど、彼女とはうまく付き合えないだろう。僕はクジョウの心配をした。正面から主張できるのは強さだが、正論を許容できない人間には嫌われてしまう、と。


「忠告、どうもありがとう。私もそれは自覚してる。たとえ、嫌われてしまうとしても、なるべく嘘をつかないでいたいの。弱さに身を委ねて楽をしたくない。正直者が馬鹿を見る世の中だと大人は言う。だけど本当にそうかしら? 悪事を働けば因果応報、いつか自分に返ってくる。そのリスクを冒(おか)してまで楽をしたい? 正直に生きて損をしても、後ろめたさがなく生きていられたら、それはとても素晴らしい事」


 やはり、この子は強い。




 昼休みになり、僕の食欲はそれまでより存在感を示していた。しかし、あいにくお弁当は持ってきていない。中庭で彼女と一緒に食べた日を思い出すと、涙が出てきそうになった。


「やっぱり今日もご飯抜き? これ、あげるわ。私一人では食べきれないから、食べて」


 親しいクラスメイトは小さめな、お弁当の包みを差し出し、僕の机の上に置いた。彼女は席に戻って、自分用の昼食を取り始めるところだった。本人はああ言ったが、これは明らかに、自分以外のだれかのために用意されたものだ。具材やご飯の量は少なく、野菜や惣菜の均衡が取れていた。特に、鮭の歯応えが最適で、作り手の力量が伝わる焼き加減となっていた。冷めていてもちゃんとおいしい。


 食事を終えると、弁当箱にフタを被せて、使った箸を箸箱に入れて、それらが重なっていた元々の状態に戻し、ランチクロスに包む。弁当を持ち主に返却しようと思っていると、彼女の方から自身のイスを持って、こちらの席までやってきた。


「ごちそうさま。これ、じつは僕のために作ってきてくれたんじゃないか? なんとなくそう感じ取れたのだが……」


 クラスメイトは「そんなことはない」と言い放ち、断固として認めたがらなかった。お弁当箱を受け取りつつも、朝の話の続きを始めた。


「二年生の彼にも同等の弱みがあったとしたら、この問題は交渉の余地がありそうね」


 弱みについて尋ねると、「それを知られると現在の自分の立場を損なうおそれのある事実」と簡潔に教えてくれた。察するに、Vくんの場合は部活動をやっているから、彼の所業が部内で広まれば、それこそ確固たる弱みとなるだろう。しかし、現段階の彼がワダチに何かをしたという証拠はない。


「確証が得られるまでは迂闊に手出しできないわ。まだ動くべきではない」


 昼休みはVくんに関する課題をとにかく考え尽くしたが、彼の住所や連絡先さえ知らないので話が進まなかった。クジョウによると、出身校さえ判れば、ある程度は絞り込めるらしい。同じ部活の生徒に聞くのが近道だが、ワダチの恋人である僕がVくんの周りをあれこれ詮索していると知られるのは避けたい。できる事と言えば、放課後のVくんの様子を遠くからうかがうくらいだ。この日はできたとしても、アルバイトのある日はできない。




 その日の放課後、今にも雨が降り出しそうで、空模様は良くなかった。僕の心中も晴れない。クジョウと一緒に教室で残っている。


 ふと、廊下を歩く女子の姿が目に入ってきた。もしかしたら、と思い廊下へ出てみる。その一年生もこちらに気が付いたみたいで、目が合った。夏服でもロングスカート姿の少女は僕の前まで歩いてきて、手を引っ張ってくる。僕は繋いだ手の温かみに心がじわじわと溶けていくような感覚がした。会話もなく、二人で階段を降りていき、一階の靴箱まで連れてこられた。少女は手を放し、出入り口の先を指差す。


「あなたを探している人が門の近くに居る。あたしは帰る」


 一年生は素っ気なく自分の靴箱の方を向いた。その瞬間、背後から僕のクラスメイトの声が聞こえた。


「ちょっと待って。少し聞きたいことがあるの」


 いつの間にかついてきていたクジョウがミチさんに駆け寄って、耳打ちをしている。少女は帰ろうとしていた足を止め、廊下に引き戻す。クラスメイトは僕を一瞥(いちべつ)して、女子二人で僕たちが歩いてきた方へ去っていった。


 僕は靴を履き替えて、「探している人」が居るらしき方向へ歩いていった。


 学校の敷地から校門を通り抜けると、門の近くに背の高い短髪の女子生徒が傘を持って立っていた。彼女が着ているのはこの学校の制服ではないが、その顔には見覚えがあった。同時に、忘れかけていた、前夜の破天荒な作戦を思い出して、僕は念入りに問い掛けた。本気なのかどうか。


「けりをつけましょう! です!」


 下方の空気を蹴る仕草をしているが、「けり」とはそういう意味ではないことくらい僕にだって判る。だが、この子は本気のようだ。せっかくなので、僕はこの子の作戦とやらに賭けてみようと考えた。




   7


「先輩の匂いがします」


 着替えを終えた後輩が自身の制服を抱えながら公園の公衆トイレから出てきた。ここは僕の通う学校に程近く、天候の都合か、人通りが少ない。彼女は長そで長ズボンの、僕の体操服を着て、頻りにそでの臭いをかいでいる。特に汚れていなければ、二日に一回の感覚で洗濯をするが、この日は体育で使ったから、僕の臭いがするらしい。恥ずかしいからやめてほしい。男女の体格差を考えたら、ぶかぶかになるはずだが、オオクラさんは女子にしては背が高い方なので、上下とも3Lの僕の体操服をかろうじて着られている。じつを言うと、やせ形の僕には、ズボンは2Lでも良い。大きいサイズのズボンは腰回りも大きく作られている場合が多く、制服にしてもベルトをきつく閉めないとずり下がってしまう。親父の体質が遺伝したのか、肉をあまり食べないで育ったからか、ひょろひょろなのだ。


 ときに、女子にわざわざ自分の服を着させたのは「作戦」のためだ。オオクラさんがバイト先で聞かせてくれた内容に、体操服の貸与が含まれていた。彼女が我が校に潜入する準備として、この格好で三年生になりすます。作戦の概要は至って単純だが、この子にすべてを任せるのはあまりにも心許ないので、一旦教室で集合しようと思う。クラスメイトから助言を得られれば、成功確率は飛躍的に上がる。


 公園を出てから再び学校に引き返す。その際、制服姿と体操服姿の二人が一緒に居ると不自然なので、僕たちは時間差を空けて、なおかつ職員室の位置に気を配りながら、校門を通り抜けた。駐輪場で待ち合わせをし、他の生徒たちが辺りに居ないことを確認して、靴箱に移動する。


 他校の生徒が上履きを持っているはずもなく、彼女は靴下のまま階段を上がっていく。僕が女の子を教室まで案内する途中で、三年生の教科担当の教師が廊下の先から歩いてきた。階下の職員室に向かうだろう彼に見つからないよう、彼女を上階へ向かわせて、僕は一人で三年生の教室に向かう体裁を取る。歩いてきた先生に白々しいあいさつをしつつ、階段の入り口で擦れ違う。しかし、あいさつを返した彼は降りていくではなく、上がっていった。最悪の事態を想定し、僕はおそるおそる三年生の階へ向かった。


 そこで、先生は既に三年生の教室へ入っていき、程なくして出てきた。僕の居る方ではなく、職員室側に近い方の階段に歩いていった。廊下が見える階段の入り口を見渡しても、オオクラさんは見当たらなかった。屋上に続く階段を上がっていくと、施錠された扉の入り口で彼女がうずくまっていた。


「なんかすごい楽しい! です」


 オオクラさんは思い切り目を細めて、弾けるような笑顔を見せている。冗談じゃない。僕は先生に怒られた後の恐怖心を考え、生きた心地がしなかった。半ば強引に女子の腕を引っ張りつつ階段を降りて、なるべく早く自分の教室へ戻った。途中で、居残っている違う組の生徒に見られたが、気にしない。学年のほとんどの生徒を日頃よく見ている先生とは違って、違う組の生徒と頻繁に顔を合わせない人たちでは認識に差があるから、オオクラさんが他校の生徒だとも気付かないだろう。


 自分の教室へ戻ると、二人の女子が席に着いていた。僕たちの足音に気が付くと、クジョウは立ち上がって、こちらまで近付き、体操服を着た女子を注視する。


 「へえ、この人が先輩の言っていたクラスメイトか。こんにちは、オオクラです」


 初対面の後輩が事務的なあいさつをすると、クジョウはどこか物々しい面構えで彼女と目線を合わせていた。一分を超えるかどうかの長い間があり、あいさつはさておき、唐突に話し掛けてきた。


「イオギくん、どうしてあなたは……」


 皆まで言わなかったが、自分の席に引き返していき、勉強の続きを始めるようだった。その後ろの席に座っていた少女は微動だにしていない。ところが、僕の隣に居た後輩はクジョウの近くまで早足で歩み寄り、「シカトですか」と食らい付いた。


「あなたはなぜここに居るの? 私はあなたに用はない。面倒事を起こす前に即刻帰りなさい」


「はあ? こっちが下手に出ていれば偉そうに」


 険悪な空気になりつつあった。僕はすぐさま二人の間に入って、オオクラさんを離れた席へと落ち着かせた。クジョウのあれは良くも悪くも平常通りだ。まず、悪意はない。初対面の子がどう思ったかは想像に難くないが……。


 教室に沈黙が訪れると、今度はミチさんが突然立ち上がり、僕の目の前まで歩いてきた。もう一人の不機嫌な後輩は不服そうにこちらを横目で見ている。


「スグリさんには『借り』があるから、一度だけあなたに力を貸す。でも、あたしを頼るのはこれ限りにして」


 クジョウはちらりと僕たちの方を見ている。どのようにしてミチさんを説得したのだろうか。それは想像に難すぎて見当もつかない。どうやら既に作戦が伝授されているようで、腕を引かれる。触れられる度に胸が苦しくなる。しかし、僕はここに居る全員にもう一つの作戦を共有するため、歩き出す一年生を制し、三人の中間にイスを持っていき、話し合いを呼び掛けた。


 破天荒な作戦概要を口頭で伝え終えたら、特にクジョウが激しく反発した。


「それでは彼がスマートフォン以外の媒体にデータを残していた時に最悪の事が起こるでしょうが。第一、暴力を是認したら、私たちまで共犯みたいじゃない。やるなら、一人で勝手におやりなさい。イオギくんとも無関係の格好でね」


 問題の作戦とは、Vくんが部活終わりに一人になったところを闇討ちしてスマホを奪い取り、証拠となるデータを没収するというもの。クジョウの言った通り、不安は残るので、僕も最初に聞かされたときは本気にしてなかった。だが、オオクラさんも譲らず、主張する。


「その時はその時。何もせずに考えてばかりじゃ身動きできないし。それで解決できればいいじゃない! 大体、その男子だって、先輩のカノジョさんに暴力を振るっている疑いが濃いわけですよね? こらしめられて当然です」


「緊急避難……か。でも、それが許されるのは彼が本当に違法行為をしていると認められて以降でなければ、報復で与える損害への違法性が阻却されないわ。最悪、誤想避難であなたが罪を背負うことになる。もっと良い考えがあるから、そちらの案にしない?」


「避難訓練の話、ですか? なんだかちっとも解らないのですが」


 クジョウはうなだれて大きな息をついた。「つまり、あなたのやろうとしている行為は現状では犯罪として処理されるの」と平坦な表現に改めた。「緊急避難」については僕もよく知らない。オオクラさんは腕を組み、首をかしげている。


「証拠を押さえてからなら、あなたの作戦は有効になる。だから、あたしがその男子に近付く役割を任されている」


 そう言ったのはミチさんだ。そして、この場に居ただれよりも、僕が最も動揺させられたように思う。この子にそんな危険な事をさせようと考えていたのか。身を乗り出してクジョウに意見しようとした直前、今度は僕の方が制された。


「あたしなら大丈夫」


 僕は何も言えなかった。




 この日は作戦を四人で共有し、解散となった。クジョウは学校が閉まるギリギリまで教室に残るらしい。僕は他校のあの子を見送るため、日が落ちて暗くなる前には帰るつもりだった。一番先に教室を去った、体操服姿の彼女を校門に待たせている。


「僕、嫌だよ。ミチさんに何かあったらと思うと怖いよ……」


 二人は階段の入り口で歩みが止まった。作戦では、この子がVくんのカノジョになるために動き出す。むろん、別れる前提だ。女にだらしない男ならば、交際相手の質や人数にこだわらず、難なく作戦の前段階は達成されるというのが、頭脳明晰な立案者の見立てだ。もしも、ミチさんが他人のカノジョになったら、僕たちは人前で堂々と会話ができなくなる。


「泣かないで。役目を果たしたら、すぐ手を切るから」


「きっとだよ……」


 僕はその場にうずくまった。その間に帰ってくれたらいい、と思いながら壁に寄り掛かっていた。


「スグリさんに聞いた。あなたの好きな人」


 まだ帰っていなかった。かたわらで涼しげな響きの声が聞こえる。


 クジョウめ、ミチさんに何を言ったんだ……。僕は隣を見ることもできず、床だけを見つめていた。


「あなたが本当にそう思っているのだとしたら、あたしはうれしい。生きていて良かった」


 まるで、別れの言葉のようだった。僕はすぐに立ち上がって、そちらを向き、言った。一人の少女の名前と、人に対して軽々しく使わない、ここぞという時のための言葉を。言われた相手がこちらをしっかり見ている。


「この件が片付いたら、僕と、付き合ってほしい。ミチさんと一緒に居たい」


 僕は自分の気持ちが体の外に出たのを感じ取った。おそるおそる、少女に向かって両腕を彼女の肩幅くらいに開いて伸ばす。拒絶への不安や、彼氏としての責任感、様々な感情が交錯して、あと一歩のところで、動けそうになかった。


「いいよ」


 その一歩の間隔はミチさんが踏み出したことで埋まり、僕は思い切りその両肩を抱き締めようと決心した。が、その時にもう、階下から足音が近付いてきていた。


「イオギ、まだ居たのか。おっ、なにやってんだ?」


 担任だった。言葉にならない口惜しさが脳内を駆け巡った。態度には出さないようにして、「これから帰るところだったんです」とごまかし、僕たちは階段を降りていく。彼は教室の様子を見に来たのだろう。


 一階まで行き、二人は靴箱で靴を履き替える。校舎を出て、僕は再びミチさんと向かい合った。もうそういう雰囲気ではなくなってしまい、言葉も出ない。


「残念だったね」


 その通りだ。僕はとにかく上半身の力が抜けて、ぐったりとうなだれた。


「「…………っ」」


 急に目の前が真っ暗になり、口元に柔らかいものが触れた。わずか一秒ちょっとの出来事だった。その正体に気付いた時には、少女は僕から一歩下がっていた。


「またね」


 そう言い残し彼女が体育館の方に去った後も、しばらく、僕の心臓は壊れたかのようにおかしくなっていた。苦しすぎるくらいに、全身に鼓動が響いてくる。




 それから、駐輪場に置いてあった自分の自転車に鞄を縛り付け、それに乗って校門に移動した。すっかり待ちくたびれていたであろう女子が立っていた。よく見ると、もう制服姿になっていて、貸していた体操服を返された。


「先輩、遅い! です」


 僕は待たせていた女子に謝る。すると、後輩はクジョウへの不満を語り始めた。


「なんかムカつくんですよね、あの態度。馬鹿にされているみたいで、なるべく関わりたくないタイプ、です」


 気が済むまで言わせてあげた。僕も時々、あのクラスメイトの言動には気になるところがある。悪気はないと判るようになるまで時間が要る。オオクラさんが一通りの不満を言い終えると、僕たちはバス停へと歩き出す。天気は曇りだが、雨は降っていない。校門から停留所まで歩いていく時に、彼女は学校を五時間目の終わりから早退してアパートに帰り、バスでこの学校に来たのだと話していた。作戦の内容はともかく、その行動力には感心した。


「先輩って、あの女の子の事が好きなんですね」


 いきなり言われて、何のことだかすぐ分からなかった。「物静かな子がいいんだ」とつぶやいているのを聞き、ようやく気付いた。この場では否定も肯定もせず、なぜそう思ったのかこちらから尋ねる。


「勘、ですかね!」


 冗談めかした言い方をしている。


「なんて。……分かりやす過ぎるんです、先輩は。どうしてあの子がカノジョじゃないんですか?」


 そう言われても、納得できる理由が見つからなかった。


 ワダチの事は、彼女の魅力を知るに連れて、好きだという気持ちが芽生えたのは確かだった。ミチさんと居る時に感じるのは、それとは似ているようで違う。ワダチが喉の渇きを潤してくれる水分だとしたら、ミチさんは体を動かす酸素のような存在……か? 喉の渇きは耐えることができるとしても、酸素が足りなくなると立っていることすらできなくなる。しかし、酸素は常に体の中を駆け巡っているのに、目に見えないから、苦しくなるまで消えてしまっていることに気付けない。喉の渇きは自覚すればするほど、水分が欲しくなるから、酸素とは違った意味で重要だ。


 僕は二人の違いを頭では判っていても、説明しようとは考えなかった。オオクラさんはそういった講釈にうんざりするのはよく判っていたから、こう答えた。


「その時、だれを好きなのかは、その時になるまで気付けないんだ」


 バスがやって来て、他校の女子生徒は帰っていった。車体側面の、開いた扉から乗車し、こちらを振り向くでもなく、後ろの方の座席に腰掛ける。バスは僕の帰る方向へ走っていった。


 帰り際、オオクラさんは最後に言い残した。彼女自身にとっては「今がその時」なのだと。




   8


「ユウシュンが好きなのはわたしだよね」


 隣に座っている少女は軽快な口振りでそう言う。学校で僕はカノジョと昼食を取り終えたところだった。二人は中庭のベンチに座り、梅雨がすっかり明けた七月の青空を見上げている。六月の終わり頃、ワダチは登校拒否から立ち直った初日の朝から、真っ先に僕の居る教室へ現れた。パジャマ姿の時とは変わって、曇りのない弾けるような笑顔を浮かべていたから、僕は懐かしさと安堵を覚えた。その日の放課後、学校の周辺を一緒に出掛けて、日が暮れるまで街中をぶらぶら歩き回った。


 前よりも背が伸びたようで、ほんの少しだけ大人びている。髪型が短くなってからワダチの外見は幼さを強めていたが、時々思い詰めたような顔をする。長髪に比べ、目元や口元の表情がはっきりするので違和感があればすぐに分かる。


 体育ではプールの授業が行われ、屋外ではセミの声が聞こえる。日差しの強さは真夏を表していた。ワダチが戻り、二人きりでよくお弁当を食べる。見映えは良くないが、おいしい手作りの料理を味わう。その味に親しみを感じるようになっていた。夏休みには海に行ったり、祭りで花火を見物したりしたいと、話が盛り上がる。


「ねえねえ、最近ね、胸が大きくなってきたんだ。触る?」


 少女はワイシャツから、かすかに膨らんで見える部分について言った。たとえ相手がカノジョだろうと、学校で女子の胸を触ろうとは思わない。クラスメイトやバイト先の先輩のを見慣れている僕には、彼女の膨らみをパッと見ただけでは解らず、適当に「これからが楽しみだ」などと誉めてやった。すると、ワダチは腰に手を当てながら「えっへん」と胸を張っていた。よく見れば、確かにちょっとだけ大きくなっている。本当によく見ないと、気付かないくらいの差だ。


 ここ数日、ワダチと過ごしている間でも、あの子のことを考える時がある。


 あの放課後に口付けを交わしてから一度も会っていない。同じ学校に通っているはずなのに、まるでもう居ないような気がする。このまま会わずにいたら、忘れてしまうのだろうか。なんとなくそんな心配が脳裏を過った。僕に限ってそれはない。彼女からもらったシャーペンは毎日使っているし、「いいよ」って言ってくれた。


「ユウシュン? 何考えてるの?」


 そう言われてドキッとした。落ち込んだ声の抑揚が一瞬、ミチさんと重なった。


 ワダチはミチさんに近い。顔や性格は別人だが、共通の雰囲気がする。言葉では言い表せない。一緒に居ると感じ取れる温もりのようなものが、僕の心を優しく撫でる。それは暗くて、ゆらゆらと揺れている。ワダチは上手に使いこなしているが、ミチさんは完全に引き出せていない。


 僕はごまかした。五月の給料で何を買おうか考えていた、と。じつを言うと欲しいものはバイトを始める前から決まっている。


「嘘だよね」


 何かを悟ったようで、途端に機嫌が悪くなった。こうなったワダチは厄介だ。僕は黙り込んだ。答える意志がないのを判ったのか、続けてしゃべりかけてくる。


「前にも言ったけど、わたし、処女じゃないんだ。初めては、付き合っていた先輩。でも、やったのはその人だけじゃない」


 突然の重たい話題に戸惑った。彼女の口を閉じるべきなのか、このまま聞いてやるべきなのか迷った。その先を聞いたら、きっと僕らは穏やかではいられない。少女の唇は一切の邪魔立てを受けず、焦げ臭い言葉を生み出していった。


「放課後にここで会っていたあの男も、その一人だった。もう会うつもりもなかったのに、いろいろな手違いがあって脅されていた。動画をネットにばらまかれたくなかったら、言うことを聞けって」


 ワダチの口からVくんの話題を聞いたのは初めてだった。彼女は身を震わせながら、汚点とも言える事実を次から次へと吐き出した。


 僕と付き合い始め、クラスマッチを終えてしばらくしてから、過去のVくんとの行為を隠し撮りされていたのを知らされたのだと。そのせいで、したくもない行為に何度か付き合わされたのだと。その際に髪の毛を汚されたのだと。髪を切った後も、行為の催促は続いたのだと。学校に行きたくなくなったのだと。再び登校するようになっても、僕に対して罪悪感が残っているのだと。


「中には出させなかったけど、生だったから。もしも、妊娠してたらって思うと、すごく怖かった。ユウシュンとは、したことがないから、違う男としたってことがバレる。なにより、そんな状態でユウシュンとキスしたり触れ合ったりしても、気持ち良くなれなかった」


 結局、妊娠はしていないと判ったそうだ。次の生理というものが来たらしいことを伝え、ようやく学校に来る覚悟ができたとも話していた。


「わたし、もういいんだって思った。ネットに動画ばらまかれても、ユウシュンに嫌われても。元々は全部自分が悪いんだから。でもやっぱり最後くらい、一緒に過ごしておきたいなって」


 何かが引っ掛かった。「最後」と聞いて背筋が冷たくなった。そして、思い詰めたような、あどけなさに不釣り合いな、苦悩に満ちた絶望の表情に、僕はじっとしていられなかった。勢いよく、隣の少女を抱き寄せて、必死に唱えた。「死なないでくれ」と、何度も、何度も。


 すると、ワダチは「くすくす」と渇いた笑い声を耳元で響かせた。


「死なないよ? こんな汚い女とは、もう別れたいでしょ、ってこと。……なに、そんなに、焦ってるの……えっ、うっ……」


 泣いていた。それに驚いて小さな体から手を放すと、ワダチは僕の膝の上に頭を預けて、ベンチの上で体を横にした。


「いつまでもこうして居られたらいいのに」


 聞き覚えのある言葉に、僕の心は騒がしくなった。


「もうユウシュンとは関係ないところで生きていく。短い間だったけど、ありがとう。……別れる」


 ワダチは自分から、「別れ」を宣言した。僕は彼女に確認したが、目を閉じてそのままの体勢を維持しながら、撤回しなかった。




 ワダチと別れた日、放課後にアルバイトがあった。


 二か月もやっていたら一通りの仕事はできそうなものだが、僕は元々の能力が低いからか大きな進展はないように見えた。相変わらずレジ業務をやる機会は少なく、品出しや清掃を主軸に業務を割り当てられている。もう店長は僕に何かを言うこともないし、周りの従業員も話し掛けてこない。近いうちにやめるだろうと予感していた。


 カノジョと別れた僕はそれだけで気分が落ち込んでいた。当たり前のように顔を合わせていた人との「楽しみ」がなくなったのだ。一緒にバスケをしたり、付きまとわれたり、触り合ったりしたことを、遠い昔のように感じる。


 仕事中なのに、ふと涙ぐんでしまった。客が少ない今のうちに、さっさとレジ周りの床掃除を終わらせてしまおう……。


 午後九時になり、仕事終わりの事務所にて。タイムカードを機械に通して、いつものように、重い足取りでロッカーへ向かう。そして、いつものように、この人が居た。


「先輩、さっき泣いてましたよね。おいらで良ければ、力になりますよ」


 仕事終わりにも関わらず、有り余る元気をたたえた表情で見つめてくる。ここで本当のことを話したら、面倒なことになりそうだから婉曲に伝えておいた。親しい人が遠くに行った、という具合に。


「先輩……」


 明らかな同情を見せ、ファミレスに行こうと誘われた。この日は、厚意を素直に受け取ろうと思った。


 オオクラさんに、借りていた残りのお金は給料日にしっかり返した。ちなみに、五月の給料はおよそ四万円くらいだった。それだけまとまったお金を手に入れたのは人生でも初めてで、正月のお年玉でもそれを超えていなかっただろう。お金の使い道といえば、過去はゲームばかりだったが、最近は通販で音楽CDを買おうと考えている。前々からそう決めていた。インターネットの同人音楽で好きなアーティストが居て、その人のCDを買いたい。


 ファミレスで、オオクラさんと食事をした。もう何回目になるだろう。幾度となく、このお店に来て、話したり食べたりした。この日の注文は僕がミートソースで、彼女はオムライスを頼んでいた。味の方はわざわざ言うまでもなく、感銘を受けるほど上品ではないが、庶民が食べるのには十分な味わいだった。手作りのお弁当にはさすがに勝てない。……思い出したら、また泣きそうになった。


「先輩? どうしたんですか。今日、変ですよ!」


 僕は何も言わず、食事に集中した。


「今日はうちに泊まってもいいですよ?」


 寂しがりのオオクラさんはそれで喜ぶかもしれないが、僕はどうだというのだろう。ミートソースを食べていると、ナポリタンを頼んでおけばよかった、と不思議な後悔に苛まれた。いずれにしても、ぎとぎとした麺を食べるのに変わりはない。彼女の食べているオムライスもおいしそうだった。


 僕が父親のことを尋ねると、「帰ってくるのは夕方です」と断言していた。どうやら昼と夜が逆転しているらしいことを教えてくれた。日中は専ら外出したきり帰ってこないそうで、日没前はオオクラさんに会うために帰宅してから、またどこかで泊まってくるそうだ。あのアパートはエアコンもなく暑いので、余程のことがない限り帰って来ないのだという。


 たとえ泊まれたとしても僕は一度家に帰らないといけない。祖母が心配しているだろうし、制服も鞄も家に置いたきりだ。そう話すと、オオクラさんは衝撃的な意見を述べた。


「それじゃあ、今から一旦解散して、先輩は家に戻ってから、おいらのアパートに来て、です。明日はうちのアパートから登校できるように準備をする、です」


 どうあっても僕を泊まらせたいらしい。そんな手間な事、普段の僕ならば即却下しただろう。だが、寂しいという気持ちは偽れなかった。オオクラさんの食べているオムライスをちょっと食べさせてもらい、それから食事を終えると、会計を割り勘で済ませて、解散となった。


 店の外に停めていた自転車に乗って、早速僕は自宅へ向かった。暗い夜道なのに、ちっとも怖くなかった。何かに守られているような安心感に包まれていたから。ものの二〇分ほどで帰宅した。翌朝はこれに四〇分足した上で、学校へ出発する時間を考えなければならないだろう。


 庭に自転車を停めると、離れに居た祖母に、友達の家に泊まってくると報告した。時間が遅いことを心配していたが、携帯電話を持っている事と、翌朝また一度帰ってくる事を約束し、どうにか説得した。もしも、僕が女の子だったら、こうはいかなかっただろう。自転車に学校鞄を積み、リュックにワイシャツとズボンを詰めて、携帯電話を持って再び出掛けた。


 お弁当は……もう作ってもらえないから、朝のコンビニで何か適当に買っていこう。




 夜道の往復は思いのほか苦にならなかった。体はしっかり疲れているのに、心はどこか癒されていくような気がした。目的のアパートに着いた僕は、建物の物陰に自転車を置き、鞄を持って、オオクラさんの部屋の前まで移動する。物音で気付いたのか、こちらが触れるよりも先に扉は開いた。住人の後ろ姿を追うように、僕は部屋に入る。


 彼女はキャミソールのような上と、かなり丈の短いゆったりしたパンツの、露出の多い寝巻き姿だった。髪はわずかにぬれているようで、首にタオルをかけている。鞄とリュックを部屋の壁際に置かせてもらいつつ、お風呂について尋ねた。この部屋には浴室がない。


「バイトのない日は銭湯を利用することもあるけど、いつもは、あれ、かな」


 大きめのたらいが台所の端の壁に立て掛けられている。まだ水気がある。彼女は半ば自虐的に「こんなところだから」と言った。僕はとっさに、この場所はそこまで嫌いじゃないと慰める。


「本気にしちゃうよ。馬鹿にしてくれた方が気楽……です」


 かわいらしく照れている住人は、二人分の布団を用意してくれた。小綺麗な布団よりも、横に並んだ二つの布団に特別の意識が向いた。便宜上、僕は私服姿のまま寝させてもらうことになったが、せめて顔や手足くらいは洗わせてもらった。


 時刻はとっくに夜十一時を回っていたので、遊んでいる暇もなく二人は床に就き、消灯した。布団の間隔は、部屋の間取りが狭いのもあってか、そんなに離れていなかった。隣で横になっている女の子がこちらに寝返りを打つと、目が合った。まだ起きているのは暗がりからでも判った。


 この部屋の雰囲気が妙に恐ろしげだと言ってみると、彼女は「やめてよ」と意外な反応を示していた。そうして、わずかに僕の布団に近付いてきた。


「先輩に何があったのかは聞きません。でも、ここにはおいらが居る。できることがあれば、力になる、です」


 小声でやり取りをしている。僕が冗談混じりに「こっちにおいで」と言ったら、オオクラさんはもぞもぞと布団の中を泳ぐように、二人の間の境界線を越えて、こちら側まで渡ってきた。夏仕様の、薄手の掛け布団を網に見立てて、入り込んできた人魚を捕らえる。僕の気分は、さながら漁師だった。


「どうしちゃったの、先輩。今日はなんだか、いつもと違って、よく構ってくれる……です」


 僕は寂しかった。この時、その理由を話そうとしたが、やっぱり話さなかった。教えたら、この子に余計な期待を持たせてしまうかもしれない。報われる確証もないのに望ませるのは、人一倍寂しがりな彼女には酷だ。あえて、何も言わずに手を握った。淡白な接触に反応して、オオクラさんは肩を寄せてきた。髪先からシャンプーの匂いが香る。


「先輩が居ないと、おいら、だめになりそう。あの時だってそうだった。先輩が居なかったら……。一人は嫌だ」


 痛いくらい強く共感できた。僕もそれに近い心境だった。人間は一人で生きていられない。どんなことがあるか判らないから、助け合い、支え合うことで安心を得る。一人で孤独に死を迎えるなんて、考えただけで悲しくなる。


「ぎゅーってしてほしい、です」


 僕はすぐかたわらに来ていた女の子と、体を横にしたまま向かい合って、控えめに腕を絡ませた。彼女はそれに強い力で応じてきて、僕は胸の鼓動が速くなるのを感じた。それは自分の心臓からなのか、この子の心臓からなのか、あるいは両者の心臓からなのか、知るよしもなかった。いずれでも構わない。


 寂しさが抱擁を心地よくしてくれた。




 夜は明けた。くっつきあっていた二人の体は溶けて合わさることなどなく、元通り、二つに分かれた。離れるのが惜しいけれど、やはり僕たちはこのようにして、個別の体で生きていく。午前五時前に起床した僕は、眠っている彼女を起こさないように制服へ着替え、書き置きをしてから部屋を立ち去る。オオクラさんが不在になった一方の布団を畳み、その上には「またバイトで会いましょう」と書いた紙が添えられていた(紙の余白に、デフォルメされたカエルの絵が描かれている)。


 その後、僕は家に帰ってから祖母と顔を合わせ、携帯電話を自室に置いたら、朝食を取り、いつも通り学校へ向かった。




 ワダチとの交際を解消した後、期末テストの期間が終わり、一学期もそろそろ大詰めだった。バイト先でのオオクラさんはいつにも増して、元気な笑顔で仕事をしていた。変化は様々なところで起きていて、このままのんきに夏休みを迎えるはずもなかった。


 ある日の昼休み、僕は一年生の教室へ足を運んだ。そこには雰囲気の異なる、あの子が居た。いつもの容姿端麗な女子が、彼女を僕のところまで呼んでくれた。数週間振りに会った、少女の外見は一言で「凡庸」だった。スカートの丈は長くないし、前髪はすっきりしていて、薄く笑顔を浮かべている。つまり、他の女の子と同じような雰囲気を放つだけの存在に成り下がっていた。かつての彼女は、もっと異質な光を放っていたように思う。


「ああ、イオギ先輩。あたしに会いに来てくれたの?」


 ミチさんを教室の入り口から連れ出して、階段の入り口まで付いてきてもらった。


「あの後、彼(Vくん)とはどうなった?」


 七月に入っても、まったく把握していなかった。この子がどういった付き合いの中で過ごしているのか。これ以上目を放したら、きっと原形が残らないくらいに変わり果ててしまう。一般的へ近付くのが悪いことだとは思わないが、怖いのだ。心惹かれた頃の彼女が消えてしまうようで。


「先輩たちが予想していた通り、あの男の子がワダチちゃんの弱みを持っていたから、あたしがそれを手に入れて、フユミがいろいろ頑張って彼を懲らしめた。それであたしはカレと別れてもう会ってない。これ、どうぞ」


 スカートのポケットから何かを取り出した。デジタルカメラなどでよく使われる、SDカードだった。それを差し出され、受け取ると、そこに例の動画が入っているのだと教えてくれた。


「こんな大事なものを、なぜ僕に渡す?」


「あたしが持っていても仕方ないから。ワダチちゃんに渡すでもいいと思う。イオギ先輩から渡された方が喜ぶでしょう。わからないことがあれば、スグリさんに聞いてみたら? あと、あたしが関わったことはワダチちゃんには内緒にしてね」


 明朗なミチさんは自身の教室へ淡々と歩き去っていった。席の場所は、窓際から真ん中の列に変わっていて、他の女子生徒と仲良さそうに話している。廊下の隅から教室での彼女の様子を見て、複雑な気持ちになった。


 もらったSDカードをやさしい力加減で握って、その場を去った。


 教室に戻ると、クラスメイトが僕の席の近くに来ていた。この教室でも席替えは行われていたが、僕の席は元々の廊下側から大きな移動がなかった。その席に着き、大事な記憶媒体を机の中に仕舞っていた国語の教科書に一時的に挟んでおいた(国語の教科書だけは毎日、学校に持ってきている)。


「随分と怖い顔をしているわね」


 僕の視線を指してそう言っているのだろう。ならば、心当たりはあるはずだ。無言で出方をうかがっていたら、彼女は「移動しましょう」と言い出した。


 そして、誘い出されるように教室を出て、歩いていくクラスメイトの後を追う。廊下を行き、階段を降りて、一階にある靴箱で上履きから革靴に替えた。強く照り付ける日差しを避けるように、屋根のある渡り廊下をたどっていく。前の方に体育館が見えてきて、その横を回り込むと、校庭の入り口に続き、少し離れた所に鉄棒があって、近くに体育倉庫がある。目視で、倉庫は鍵がかかっていたし、体育館や校庭に人の気配は感じ取れなかった。


 体育倉庫の日陰で立ち話が始まった。まず、僕の方から、最も気になっていることを聞く。すると、クジョウは悪意のない、善意もない、鳥類を思わせる細い目でこちらを捉え、口を静かに開いた。


「あの子は十分に仕事をしてくれた。おかげで、問題になっていた証拠を掴み、最悪な事態は未然に防いだ。ただ、オオクラって子が必要以上に暴れるものだから、後が大変だった。彼は不登校になってしまったわ」


 それについては少し聞いた。聞いていた話との食い違いはないから信じても良さそうだ。僕は更に質問した。それが、ミチさんのあの様子とどう関わっているのか。また、なぜ彼女たちだけでVくんに止めを刺したのか。


「結論から言えば、イオギくんのため。彼の持っていた証拠は相当に醜悪な内容となっていた。私たち女子から見ても、とても衝撃的で、あなたには関わってほしくなかったの」


 それは本人から聞いた。ニュースやネットで時々話題になる、いわゆるリベンジポルノと言われるものだ。交際していた男女で、特に男の方が、相手の女性の体や行為中の、映像や音声で記録されたものをインターネットや公衆の面前に流出させる嫌がらせを指してそう呼ばれる。情報化が進んだ現代の犯罪として、被害が深刻化するに連れて、それを罰する法律もできたくらいだ。


 しかし、その証拠は皮肉にも僕の手に渡ってしまった。他ならぬ、功労者の手によって。それを僕が教科書に挟んでいる段階で、既に察したらしいクジョウは念を押して言った。


「私たちにできることはない。あとは、あなたの手で彼女にそれを渡してあげれば、問題は終息するでしょう」


「大体の話は判った。……もう一つの質問について教えてくれ」


 クジョウは珍しく口ごもり、即答はしなかった。その代わり、ささやくように「知らない方がいいわ」と忠告してくる。僕は知らないままでいられなかった。常に進み続ける時間を止めておけないのと同じように。前に進みたい。


 しつこく食い下がって問い詰めると、ついに教えてくれた。


 クジョウの働きかけによって、ミチさんがクラスメイトたちから悪く見られないよう、彼女自身も次第に周りに馴染む方法を実践するようになったのだと。その結果、Vくんが彼女に気を許すための素質を手に入れて、「体を張って」目的を見事に為し遂げたのだとも。


 直接そうだとは言わなかったが、僕にはほとんど判ってしまった。


 あの子が僕に口付けをして去っていった後から、もう手遅れだったのだ。