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無音少女 初稿(4)

 



   1


 からすさんはあたしに教えてくれた。魔女の正体は純粋な欲望だって。だれかをじぶんの思いどおりにしたいとか、そのだれかを使って気持ちよくなりたいとか、あの女の子はとにかくすっごくわるいんだって。おうまさんが黒いのは欲望にふれちゃったせい、って言ってた。しんえんをのぞくとき、しんえんもまたこちらをのぞいている……だったかな。そういうことがあったみたい。意味はよくわからないけど。最初、あたしはおうまさんが暴れうまになっているのを見ていることしかできなかった。でも、しろくまさんがおうまさんの前でごろごろ転がって、一生懸命なにかをしようとしてる。そこでじっと立っている裸の女の子に効果はなさそうだけど、おうまさんは落ちつきを取り戻して、ちょっとだけ色があわくなった。でも、完ぺきに白くは戻らない。そのあいだ、からすさんはあたしやおうまさんたちの様子を空から見おろしていた。しろくまさんは、いよいよ女の子に牙をむいている。争いが始まる前に、からすさんがおりてきて、あたしに話し掛けてきた。


「あなたなら、あの魔女を追い払うことができる」


 そういうと、あたしの着ている薄手のワンピースを、くちばしでやさしくつついた。


 からすさんはおうまさんを白くする方法をあたしだけに話してくれた。どうしてなんて悩んでいても、ほかになにも手だてはなかった。あたしはじぶんの服を脱ぎ、おうまさんの近くにいる、裸の女の子に着させてあげた。すると、あたしが魔女になった。魔女はみんな服を着ていないんだって、からすさんが言ってた。


 おうまさんが白くもどっていくのを見届けて、意識が消えていく。そのとき、からすさんが言った。


「得ることは、すなわち失うこと……。いってらっしゃい、無限の虚無へ」




 はっと気が付いたら、まだ夢の中だってわかった。だって、見渡す限り闇がずっと、ずっと広がり、足もとには草がはえている。高い木々がまわりを囲む、暗い、暗い樹海だった。またもどってきたんだ。……ひとりぼっちで歩いていかないといけないのかな。でも、後ろからなにか追いかけてくるような気配はなかった。洋服を着ていないあたしは、黒い風で枝を揺らしている樹木たちと仲良しになれそう。


 もう歩かなくていいんだ。ここは暗くて、こわいけど、すごく居心地がいいの。


 足の裏で草がおおっている地面をふんでいる。あたしの足だったはずのものが、地面につきささってる? 胴体は上へ上へ高く伸びて幹になり、頭だった部分はぱかっと開いて、その中にある脳の血管が細かく枝わかれして広がって、はっぱになっていく。


 なにも感じない。あたしは樹海の一部になった。「だれのばしょにもなれなかった」




「いやあっ!」


 起きると、こわくて声が出た。最悪の夢だった。


「うるせえぞ」


 部屋の隣のスペースでねているきょうだいの声がして、ちょっと安心した。


 まだ暗い。朝になったら学校にいく。あたしは高校生。樹木じゃない……。昼休みのことが思い浮かぶ。心配性な男の子の顔。懐かしい気持ちになる。まるで、たくさんの時間を一緒に過ごした相手に会っているような、親しみがあった。3週間くらい続いためんどうごとはとっくに終わらせたのに、あの人の顔色は晴れなかった。それもそうだよね。あたしがあたしではなくなってしまったのだから。以前のあたしとよく関わっていた彼なら、しっかり気付く。


 クラスマッチでバレーボールの試合があり、あたしのクラスの対戦相手だった三年生のクジョウスグリ先輩は非の打ち所のない、堂々とした人。試合中、キャプテンのナカザワとあたし以外のクラスメイトたちが失敗の責任を押しつけ合っていて、すごくいやな雰囲気になってた。スグリ先輩はあたしの思っていたこともそうだけど、もっと貴重な意見を言ってくださった。そのあと、あたしのところにあらわれて、きづかってくれた。「困ったことがあれば、力になるわ」その日、先輩が味方をしてくれたおかげで、クラスメイトたちがあたしを攻撃することも減ったんだと思う。ほんのすこし借りができた。


 じめじめした時期の昼休みには、あの人があたしの教室まで会いにきたと思ったら、ワダチちゃんのことを心配してた。もうこないでほしかった。でも質問には答えた。最後に「根っからの悪人なのか」と聞かれた。そうじゃない。中学のころ、ワダチちゃんも、あの暗い樹海から抜けでようと必死だった。まわりの木々がどれだけさざめこうとも。


 それからべつの休み時間に、スグリさんもあたしに会いにきた。クラスマッチ後の、学校での調子を尋ねられた。教室にいる時間は増えたけど、前みたいにからまれることはなかった(会いにきてくれる三年生のおかげかな)。「顔付きと性格を変えただけで、人間関係は良くも悪くも変わる」スグリさんがそう言ってた。最初はわけもわからず、言われたとおりのことをしてたら、クラスの人たちが次第にやさしくなっていくのを感じた。いつの間にか、あたしも周りの人にやさしくしていた。また借りができた。


 あの人とは距離を取りたいと思っていたのに、あたしは3年生の教室にむかわなければならなくなった。帰ろうとしたら、校門前で通りすぎていく生徒に声をかけている女の子がいたから。通る人のほとんどを呼び止めていたから、あたしも声をかけられた。女の子は、見覚えのない制服を着ていて、あの人の名前を出して、彼を呼んでほしいとお願いしてきた。


 彼を校門にむかわせたまではよかったけど、スグリさんに交渉を持ちかけられた。協力してほしい、と。先輩は、それがうまくいったら彼がワダチちゃんと別れることになると予言した。リスクがあるのは前もって知らされていた。でも引き受けた。それをあとから聞かされたあの人は、あたしを心配してばかりだった。最後まで反対してくれていて、うれしかった。スグリさんの言ったとおり、彼はあたしのことを……。


 聞かされていた名前の二年生の先輩に近づくのは簡単だった。部活終わりに話しかけてみたら、すぐ気に入られた。放課後に顔を合わせるのが習慣になると、むこうから言ってきて、付き合うってことになった。付き合ってから一週間と数日が経って、打ちとけたかれと一度だけあれをした(本当に、一度だけ)。それからのかれは隙だらけで、扱いやすかった。ちょっと負い目を感じた。いくら好意をむけられても、どうせあたしたちは別れる。


 ワダチちゃんをおどしている証拠が見つかれば、それだけでよかった。問題のデータを最初に見つけたのは、かれの部屋で、あれをしている最中だった。聞いていた話ではスマホにあるらしかったけど、実際はデジタルカメラの中にあった。かれのスマホを持ち出せるタイミングはなかった。でも、部屋に置いてあるカメラは、いつも目に見えるところにあって、簡単に持ち出せた。次の日、週明けの放課後、テスト期間だけどスグリさんたちとカラオケで集まって、カメラにあった証拠を確認した(あたしとしているときの映像もあった)。うでっぷしの強そうなフユミは、さっそくウォーミングアップを始めていた。


 あたしたち三人が、かれの家の近くで、かれを呼び出す。スグリさんに指示されたとおりの手順(長い文のメッセージを送って、読ませるんだって)で、フユミがかれのスマホを取り上げる。その中にも問題のデータが入っていた。かれの自宅にいって、カメラに入っていた以外の、それらのデータもかれにすべて削除させた。もうないと思うけど、万一どこかにデータが残ってて、また悪用されるおそれがあったとしても、証拠はこちらが押さえているから情報ろうえいしたときにかれが発信源だとすぐにわかってしまうんだって。むずかしいことはわからなかったけど、かれのことを軽蔑する。フユミは、動画を撮られたワダチちゃんやあたしのかわりに、かれに痛みを与えていた。やりすぎなくらいだった。かれは男の子の弱点を徹底的に痛め付けられて、この世のおわりみたいな、いのちごいをしてた。




 すっかりしらけたみたいだった。


 男性とひとつになったこと、一度や二度じゃない。体の中になにかが入ってきて、お腹の下あたりにぶつかる。耳や鼻の奥に長いものを入れられたような不快感。彼らはどうして、そんなことに熱心になれたの? 


 もう、暗い森を逃げて回っていたあたしはいない。かれと付き合ったことでまたひとつ、草木に足を取られて、そこから動けなくなる。樹海で生きていくのもわるくない。


 あの人は今のあたしをどう思ってるんだろう。あの人の話す顔、泣いた顔、驚いた顔。思い出したらせつなくなる。でも、なんていえばいいかわからない。人前でじょうずにふるまえても、やっぱり苦手。気づいてくれたらいいのに。あのSDカード、あたしが違う男の子としてしまったのを知ったら、きっと今以上に嫌いになるでしょう。体は好きにされても、心までは好きにさせなかった、はずなのに。なにを言ってもたぶん届かない。


 再びねむる前に携帯電話を開いて、魔法のiらんどを見てみた。かとうりすうが新しい小説を書いていた。それを読むと、あたしはなにかを思い出しそうになり、なくしていた感情に出会う。でも、やっぱりじぶんから進むのはできなそうだった。


 愛が欲しいのかな。依存したいのかな。


 生きている理由がわからない。




   2


「わかった。夏休みになったら、私たち、会ってみようか」


 僕が了承すると、電話は切れた。


 青とは、しばらく連絡を取っていなかった。僕が思い出したようにメールを送り付けたら、二日以内には返事が来て、何通かやり取りをして、彼女の方から通話を誘ってきた。数十分に及んだ長電話では、お互いに学校での様子を話し合い、情報交換をした。青は「変わりない」と断じていた。一方の僕はワダチとの紆余曲折について過去のメールでも触れていたが、直(じか)の声でも意見を伺う。普通の男女っぽい関わりをした時間や、エロい事をし合った状況、リベンジポルノの恐ろしさなど。


 青は正直にありのままを述べた。「君が最もおそれていた結果になってしまったんだね」と理解を示しつつ、「それをしている時、どんな気持ちだったんだい?」とエロい事にも一定の関心を寄せていた。そこから「会う」流れになったのは、彼女が身の上話をした後だ。


 青にも片想いをしていた男性が居たらしく、彼の名前が僕と同じ「ユウシュン」だったことを伝えつつ、声色は一段と暗くなった。その男は僕たちよりも年上で、自殺願望があるらしい。僕は悟った。周囲の人たちは、死のうとするその男を巡って、心労が絶えないだろうと。青とて例外じゃなかった。彼女は彼との縁を切るかどうかで悩んでいると吐露した。「私が目を放したせいで彼が本当に自殺してしまったら」と心配を語った。


 何を言うか迷ったけど、僕は言った。「君まで彼の闇に侵されてしまったら、今度は君の周りの人が悲しむよ。たとえ彼と関わり続けても、それに比例して君の不安は増すだろうし。大丈夫。間違ってないよ」と。しかし、まだ青は納得には至っていない様子で「そうだね……」と戸惑いがちに返事をする。そして、会話が途切れ、沈黙が訪れた。会う打診をされたのは、その後だった。


 通話を終えてから具体的な日程を打ち合わせた。あと、僕は励ましの言葉を再三に及んで送った。メールの文面では、伝わりきらないようで悔しかった。その最中、夜もすっかり更けて、青の返事は突如途絶えた。寝たのだろう、と推測する。


 正直なところ、自殺志願者は死以外の解決策には関心が薄いのだろう。生きていくための方法が他にあると解っていても、あきらめきっているから聞こうとしないし、動こうともしない。何かある度に振り回されて、周りの人には迷惑な話だ。いっそのことさっさと居なくなってほしい、なんて思われても、文句は言えない。


 僕は自殺に対して寛容な姿勢では居られなかった。だれしもが死に怯えて、つらくても、面倒でも、明日を拝むために生きている……。それなのに自己都合で死んで、それまで関わってきた人全員の心を動揺させ、責任を感じさせる。その利己的な思惑で、だれかが一生消えない傷を負わされようとは、何事なんだよ。自分がつらいからって、他人を傷つけていいのか。たとえ、そいつにとんでもなく残酷な生い立ちがあっても、僕は自殺を絶対に肯定しない。


 死んだらそれまでだ。これから出会うはずの人、取り戻せたはずの幸福、たった一つしかない命への執着。生きていれば、失いたくない・失っちゃいけない・失えない、大事なものが必ずある。それを感じられなくなったら、感じられるようになるまであがくべきだ。あがけなければ、あがけるようになるまで十分に休め。


 青は彼のことが好きだったから、すぐには考えを切り替えられないかもしれない。ならば、せめて僕が黒い沼に足を取られそうな彼女を救い出してやらないと。手遅れになる前に少しでもあがく。


 メールを終えた後、芽生えてきた衝動の赴くままに僕はケータイで小説を書き始めた。題材は「生」だった。「せい」だ。


 生は命を意味する。僕たちはどこから来て、どこへ向かうのか。両親に産み出される以前、まったくの「無」だった。そこから性の交わりによって人間としての生を授かり、成長し、今に至る。子は親を選べないと聞く。僕の両親はお金の話でよくケンカをする男女だった。彼らは機嫌が悪い時もあれば、良い時もある。もっとしっかりした親は他所(よそ)を探せばいくらでも居る。しかし、二人は紛れもなく、僕ときょうだいたちの親だ。高校に上がって、就職を目前に控えている今でも家庭環境には満足してないけれど、母のように逃げ出したり独立したりできるとも思わない。生は幸か不幸か、なるようにしかならない。


“タイトルは「出口のない迷路」。少年は旅人です。平野や山、川、海へ歩き回ります。山では、着ている服や財産を山賊に奪われます。川辺で親切な老婆から服や財産を譲り受け、その対価として老婆の世話をすることになりました。数週間後、海に行って彼女の骨を撒きます。それから少年は現れた海賊に殺され、海に溶けていきました”……という話だ。


 そういう題名の作品は他にもありそうだが、人生を迷路になぞらえている。歩いても、歩いても、正解と言える行動は一つもない。そんな出口のない迷路に終わりがあるとしたら、唯一「死」だけである。人間の生なんて、こういうものだと思って書いた。何かをしようとしても、逃れられない不幸があって、一緒に過ごしただれかとの時間も永遠じゃない。そして、自分も唐突に死を迎える。だが、死は迷路の出口じゃない。自殺を出口のない迷路で例えると、破壊に値する。歩むのをあきらめ、壁を壊そうとする。迷う苦しさから逃げるために。壁が壊された迷路は迷路として機能しなくなり、迷うこともない。だが、それは、ずるさだ。人々は迷い、悩み、苦しみ、やがて死ぬ。それでも歩いていく。


 僕は書いた小説に「生」を表現した。ちなみに、青は僕がかとうりすうとして、ケータイ小説を書いていることを知っている数少ない人物である。




 七月の終わりが近付き、体育館で終業式があった。夏休みの過ごし方について、注意をする校長先生の話が印象に残っている。あと、校歌斉唱は僕の密かな楽しみだ。部活でもそうだったが、声を出すと気持ちが楽になる。学生らしさも感じられる。


 長いようで短い式が終わり、体育館から教室に戻ってくると、ホームルームがあった。式でも聞かされた話が担任によって繰り返される。生徒たちは夏休み中に問題を犯す傾向がある、と念入りに話していた。各教室でも同じような事が話されているのかもしれないが、いくら注意されても生徒たちは素直に聞き入れないだろう。特に一年生は、間違いなく何かあるだろう。高校生という肩書きには、中学生では考えられないような行動に駆り立てる力があって、初体験、不純異性……(長くなったので省略)。


 考え事をしていたら、先生の話は終わり、午前中には放課となった。僕のクラスメイトたちは進学志望がほとんどなので、夏期講習や勉強の話題で盛り上がっている。ほどなくして、教室に居た生徒たちのほとんどは帰った。


「帰らないのか」


 担任も去った教室、僕のほかにクラスメイトが一人残っている。席に着いたまま、丁寧な字でぎっしりと記述された日本史のノートをめくっている。時間が来たら帰る、とだけ言っていた。距離感がある。この子は僕の親しい女子たちのために尽力してくれた。その結果には、僕の望んでいなかった現実も含まれていた。「ごめんなさいね」さりげなく謝られる。会話の後には大抵こうだった。僕たちはそれまでのように親しく接することができなくなっていた。クジョウの長話も、あの子にSDカードを渡された日から、もう聞いていない。僕は彼女の後ろ姿を目に焼き付けるように見つめたら、いよいよ教室を出ていこうと歩き出した。


 開け放された出入り口を抜けて廊下に出ると、戸の陰に小柄な女子が寄り掛かっているのを、視界が捉えた。下方から僕を見上げてくる。この子には例の証拠を渡していた。手に入れたその日のうちに。詳しい経緯は語らなかったが、Vくんは確かに懲らしめられた、とだけ伝えた。その日は何も言わないで僕のもとを去っていった。


 一度だけ立ち止まって、少女と視線を合わせる。やはりなにも言わずに居るから、彼女の横を通り過ぎて階段まで移動する。後ろから足音がかすかに聞こえてくる。階段を降りていると四月末の記憶が蘇り、鼻の奥に苦しい息が込み上げてきた。ふと振り返ったら、ワダチが居た。踊り場で向かい合った僕は立ち尽くす少女の胸ぐらをひっ掴んだ。


「お前とさえ出会わなければ、僕は……」


 壁に追いやられた少女は壊れた機械のように「あはははは」と、けらけら笑っていた。その放心した顔を見ていたら、力が抜けていく。僕にも落ち度はあるんだ。女から手を放し、一階まで降りる。かつて間違いを犯した場所をにらみつけても、過ぎた事実は変えられない。


 また振り向いたら、背後にはだれも居なかった。


 一階の廊下を進んでいくと、靴箱の入り口にだれかが立っている。こだわりのロングスカートでもない、爽やかな笑顔が定着した、前髪のすっきりした少女だった。歩いてくる僕に気が付いて、離れた所からこちらを見ている。


「だれか待っているのか」


 近付いた時に尋ねたら、きらめく瞳をしばたたかせ、目を細め、にこやかに「違うよ」と言った。その軽快な声の響きが違和感の元だ。少女は肩から提げている学校鞄を探ると、ノートを取り出した。そして、手渡してくる。開いてみると、様々な教科の勉強が書かれていたほか、五月にやり取りした内容がそのまま残っていた。


「時間割りの間違い、どうにかならんのか」


 僕がそう指摘すると、少女は髪先を気にしつつ照れ笑いをしている。記述のあるページの後半には、見たことのない内容があった。二人の少女と動物たち(ウマやカラス、クマ)の絵と、空想小説のような文章。興味深いが、文章量が多いから後で読ませてもらいたかった。持ち帰ってもいいか確認すると、少女は頷いた。


 自分の鞄にそのノートを仕舞う。すると、しばらくの間、辺りは静まった。目の前の女子生徒は僕をまっすぐ見つめながら立っている。


「……僕、あの後ワダチとは別れたんだ」


「うん」


 出会ったばかりの頃の、初めてなのに、懐かしい親近感が失われ、僕たちはよそよそしくなった。ある放課後に、体育館の方へ去っていくこの子の後ろ姿……その時に二人の関係性の頂点は過ぎ去った。心引かれた少女の面影は既になく、特別な感情が湧いてこない。それでも僕は様々な繋がりが薄れていく中で、繋ぎ止めたいと感じてしまった。クラスメイトも元恋人も職場の人間関係も消える。恋人じゃなくてもいいから友達としてもう一度、やり直せるなら――。


「また僕と、こんなふうに会って、おしゃべりに付き合ってくれないか」


「いいよ」


 少女はすんなりと受け入れた。では、早速どこで会おうかと話を進めようと思っていた。しばらく学校は休みになるから、校外で待ち合わせをするか。僕が口を開こうとしていたら、唐突に腕を引かれた。


「ミチさん?」


 その子は柔らかな表情から一変して、憂いを帯びたかつての表情に戻っていた。視線の先をたどっていくと、別の少女が立っていた。いつの間に、ここまで来ていたのだろう。気付かなかった。


 突如現れたワダチは僕の方に歩いてくる。接近してくる彼女を阻むように、ミチさんが一歩前に出る。二人が衝突するのを見たのは初めてだ。両者は何も言わず、ただ向かい合っているだけだった。これでは話の続きがとてもできない。


「場所、変えようか」


 僕がミチさんを促すと、ワダチは学校鞄からスマホを取り出した。こちらにその画面が向けられる。映像には少女の姿があった。それを見たミチさんは両ひざを床に着く。そちらをなるべく見ないようにして僕はすぐに靴を履き替え、一人でその場を去った。その間、ワダチは壊れた機械のように笑っていた。


 あの映像は呪いのビデオのように、僕の心を深くえぐった。頭では判っていた。でも、見せられて、知った。僕の好きだった人は、もう居ない。




   3


「先輩(せんぱーい)! こっち来てー、です」


 子供のように、はしゃいでいる水着姿の女の子が僕の方に手を振っている。知り合いだと思われるとやや恥ずかしい心境だが、僕はそちらに歩いていく。


 僕たちは地元からやや離れた、都市部の辺りにあるプールに来ていた。スライダーや流れる川みたいなプールもあり、大勢の人で溢れ返っている。それを見て魚群を連想するのは、何も僕だけではないだろう。


 彼女に近付くと、成長著しい体が眩しく、水滴が陽を反し、光っているようだった。しなやかな筋肉に包まれた腕や脚は見るからに屈強で、ひょろひょろの僕なんかより頼りがいありそう。あと、柔らかそうな二つの膨らみが白い水着に覆われ、その姿をのぞかせている。


 一方、僕はぱっとしない水着で、腰回りが貧相に尽き、好奇の視線が怖い。小学生の時から体脂肪は常にマイナスで、やせすぎ注意の分類に当たっていた。外観は太っていないが、内臓にも脂肪は付くらしいから、どうだか判らない。加えて、泳ぎも下手なので、僕はプールサイドに居た。


 呼んでくる女子はプールから手招きして、着水を促す。渋々、足の先から水に触れ、冷たさに入り込んでいく。背が高いから多少深くても溺れはしない。人間は陸上で生活する生き物なのに、なぜ好んで水辺に集まり、泳ぎたがるのか。そんなことを考えながら、その人のもとにたどり着いた。ここに来たきっかけは、まさに目の前で、水に身を任せている女の子に誘われたからだった。


 「どう、ですか?」


 オオクラさんは両腕を控えめに広げている。突然に投げ掛けられた疑問で僕が言葉に詰まっていると、「み・ず・ぎ!」と威圧的に言ってきた。まじまじと観察してみると、やはり胸に目がいってしまう。胸部と腰周りを覆う、露出度の高いツーピースの水着を「ビキニ」というのはなぜだろう。同級生のあいつなら知ってそうだが、今頃一人で勉強してるんだろうな。


「先輩?」


 クジョウの水着姿、もとい考え事をしていたら、一メートルくらいあったはずのオオクラさんとの距離感が、すぐ隣になっており、あからさまにびっくりした。


「ぼーっとしてたらさすがに危ないよ。ほら、こっち」


 腕を引かれ、近くに居る人々を避けながらプールの外周へ移る。二人はプールサイドに移り、屋根のある所に腰を降ろす。そこも結構な人の集まりだった。彼女は脚を伸ばして、両腕を後方に広げて座る。僕は開いた両ひざを曲げ、両腕をそこに乗せるように座る。オオクラさんの視線は遥か遠くの空に向かう。その開放的な様子を隣から見ていると、こちらに気が付いた彼女が無邪気に口元を緩め、首をわずかに傾ける。


「プール、楽しくなかった、ですか?」


 あの空のように曇りのない、明るい声色でそう尋ねられた。ここでの息抜きに不満はない。女子の水着姿にテンションが上がるのは、大抵の男子なら共感できるだろうし、僕もまたわずかに元気付けられていた。いやらしい意味ではなく、若人(わこうど)の健全な心の趣として、異性の魅力を素直に受け入れている。いつか大人になって、恋人ができたら、また違った見方になるのだろうか。愛しい膨らみは、僕にとって変わらず、癒しの象徴であってほしい。


「やっぱりオオクラさんの胸、大きいね」


 深刻な場の空気を台無しにするつもりで、わざとらしく、また変態っぽく言ってみた。


「だめー! そんなことばっかり言ってると、女の子に嫌われちゃう、です」


 その部位を隠すでもなく、開放的な体勢を維持しつつ、屈託ない微笑が弾ける。この子にはエロい事を言っても大丈夫。なんとなくそう察した。そういうのがダメな女子は決まって、嫌悪感を顔に現す。他人のやり取りを見て、そう知っている。そして、その顔色と向き合う勇気が僕にはないので、これまで滅多に変態発言をしなかった。だが、オオクラさんは特別だ。


「そうか。今、僕は嫌われたんだな」


「おいらは嫌いにならない、ですよ? 普通の子より大きいのは本当だし……」


 本当に特別だと思える、そんな笑顔なのだ。単なる寂しがりが見せる一時のきらめき、ではなさそう。取り留めのない会話の中に垣間見える一種の信頼。温もりを分かち合った夜明け。そこに敵対心や猜疑心はほとんど見られなかった。自分でいうのもばからしいが、この子は僕に気を許している。危険なほどに。


「何カップあるの?」


 なおも空気の読めない言動に徹して確認したところ、「Dですよー」と普通の声で言われた。Eくらいかと思っていたが、頭の中の想像と実際の大きさには差があるのを実感する。


「違う話がしたいのに……。先輩が変態になった」


 いよいよあきれが見え始めてきたので、僕は真剣な話を始めた。




 シャワーを浴び、更衣室で着替え、それらそれぞれ男女別々になっている。施設の入り口でオオクラさんと合流した。建物内の時計を見たら、既にお昼時を回って、午後になっていた。プールに居たのは、ものの数時間だ。油断していると、お腹が鳴る。


「お昼、食べに行きましょうか……」


 紺色のタンクトップとベージュのホットパンツ姿のオオクラさんは一人で先に歩いていく。その後ろ姿を追い、プールを後にした。


 昼ご飯は、そこから近所のファミレスで取った。価格帯はいつもの店と大差ない。二人とも頼んだのはカレーライスだった。注文が一致したのはこれが初めてだ。夏はなぜか、からいものが食べたくなる。しかし、ここのカレーはそこまでからくはなく、口当たりさっぱりしたルーがご飯を黄色く染めながら程よい歯応えに換え、短時間で食べられた。お店に居る間、会話は一切なかった。


 食事を終えると、オオクラさんは、店員が机の伝票立てに入れた伝票を持って、会計に歩き出す。勘定は別々。支払いの後、一人でどんどん行ってしまう。


 彼女を追い掛け、真昼の陽射しが照り付ける外に出た。車の行き交う大通りに、屋根のついている停留所がある。そこまで移動すると、彼女は備え付けのイスに座って息をついた。ここでも会話がなくて、その数分後にバスが走ってきて、オオクラさんから先に開いた扉に向かい、乗り込んでいく。車内では、決して若くないおっさんがオオクラさんの方をじろじろ見ている。僕は彼女の近くに座っていたが、先に居た乗客の座り方がわざわいして隣同士ではなかった。


 次に、バスを降りた終点の駅で、電車に乗り、窓から外の景色を眺めたりケータイを見たり、手持ちぶさたな時間は流れていった。このまま最寄り駅まで戻ったら、朝に来た時のように、バスで自宅付近まで帰るのだろうな。小一時間ほど、普段着姿の人が際立って多い、乗車率まあまあ高めの電車に揺られていた。聞き慣れた駅名の所で降り、車内からホームに歩み出る。買った切符を機械に返却しつつ改札を抜け、駅舎の外に行く。訪れた車が一方通行で回っていくロータリーの中にバス乗り場があり、そこで僕たちは次のバスを待つ。このバス停はワダチと会っていた時にも利用していた。大体の料金は記憶に残っている。僕の通う高校までなら、七〇〇円以内で行けるけど、自宅の近くまでだと一三〇〇円くらいかかる。オオクラさんのアパート近くまでだと、もうちょっと高くなるはずだ。


 数分後にバスがやってきて、僕たちは車内に乗り込み、今度は隣同士に座った。先に乗った僕が窓側に座ると、オオクラさんが隣にやってきた。ものの数分で、彼女は目を閉じて顔をうつむかせ、座席に揺られていた。その様子を観察すると、五月に出会った当初より長くなった後ろ髪が妙にあだっぽい。髪先が指し示す肩や、腕の付け根から日に焼けていない白い素肌がうかがえる。目を奪われるのも無理ないな、と一人で納得していると、バスが交差点を曲がった勢いで、隣の子の重心が僕の方にのしかかってきた。


「先輩……」


 耳元で確かにそう聞こえたが、彼女の目は閉じられたままだった。真横から伝わってくる体温がこもった重心を動かすでもなく、そのままにしていたら、数分後にオオクラさんはゆっくりと体を起こして、車内を見回していた。正確には、窓の外を見ているみたいだった。


 そして、停車ボタンが押された。押したのは、すぐ隣の彼女だった。バスは僕の通う高校近くのバス停に着いた。彼女は座席から立ち、運転席付近まで歩き、料金の支払いをしている。僕も後に続いて支払いを済ませ、降車する。


 クーラーの効いていた車内から、真夏の路上に放り出されると、体はすぐに汗ばんでくる。僕は季節に関わらず、長そでと長ズボンを欠かさないため、汗の不快感はすぐに訪れた(我慢するけど)。露出の多い彼女の格好でも、つやのある肌には、それらしい水滴が浮かび上がっているほどだ。時刻は、バスの中の時計で見た時、午後三時になる少し前だった、と記憶している。改めてケータイを見ると、丁度午後三時だった。ここで解散、となるはずもなく、オオクラさんは僕の腕を引っ張って、学校から少し離れた場所へ向かって歩き出した。


 公園だ。暑さのせいか、人気はない。端にある公衆トイレを見て、なんだか懐かしい気分になる。あの日の事はよく覚えているけれど、もう遠い昔のようだ。僕の手を放したオオクラさんは一人で勝手に、近くの水道で水を飛び散らせながら、服や髪をびしゃびしゃにさせていた。


 昼よりも日が傾き、木陰で涼んでいると、プールに入った後のような髪型の彼女も、こちらに駆けてきた。見るからに活発で、元気が溢れている。ぬれた格好のまま、正面から飛び付いてきた。汗ばんでいた僕の服が新しい水気を受けて、一瞬ひんやりする。


「先輩の大好きなDですよ」


 体が触れ合う事に抵抗はないみたいで、女子らしい膨らみが、男子の無骨なみぞおちに当たっている。しかし、オオクラさんは無邪気な笑みを抑え、「ごめんなさい」と言い、すぐに離れた。僕が乗り気ではなかった。季節特有の過度な暑さと、移動が重なった外出先での疲労に加え、もう一つ気掛かりがあった。


「どうしても会うんですか、その青って人に」


 僕は頷いた。プールでも同じ内容の話をしていた。バイトをやめてからも、彼女の仕事を終える時間に顔を合わせ、近況の報告は続けていた。だから、オオクラさんは、僕がワダチと別れたことを知っているし、ミチさんとの最新の事情にも詳しい。メル友の青について話したのは、この日が初めてだった。すると、あれほど楽しそうだった女の子が、目に見えて落ち込んだ。


「先輩と、離れたくない」


 真剣な眼差しをしていた。


 僕にとってオオクラさんは、がんばり屋で、無茶をするおばかさんで、寂しがりで、少しわがままなところもある、バイト先の愛すべき先輩だと思っていた。面倒くさいけど、かわいらしいし、一緒に居ると楽しい。嫌なことも忘れて、明日も頑張ろう、という気持ちになれる。だけど、気掛かりなんだ。


「おいら、先輩の好きな女の子に頑張ってなるから。他の子の所に行かないで」


 この子は僕を好きなのではなく、「依存」しているみたいだった。


「オオクラさんはオオクラさんだ。僕にこだわらなくても、きっといい人が現れる」


「そんなん、どうだっていいっ! おいらはイオギユウシュンだけ居たら、それでいいの、です。たとえ、おいらを好いてくれなくても、そばに居させてくれるだけで、いい……。お願いします」


 大音声が空気を切り裂き、懇願は悲痛を耐え忍ぶような響きを含み、鼓膜から入ってきた言葉の矢は僕の心に深く刺さった。男子としてこれほどうれしいことは、いまだかつてなかったかもしれない。僕が望めば、この子はどんな悪いことだってするだろうし、身も心も喜んで捧げてくれるだろう。支配欲の権化(ごんげ)は、オオクラさんを心から受け入れ、我が物として放さなかったかもしれない。


 だが、イオギユウシュンは依存にも支配にも、関心がなかった。


 僕が欲しいのは、自分を理解してくれるかもしれないだれか。日頃考えること、書いた文章・小説、軌道修正されていく生き方をそばで見て、感じ取って、共に歩いてくれるようなだれか。当初のミチさんはどこまでも、考える葦(あし)のようだった。彼女との関係性を大事に守り抜けたなら、探していたはずのだれかと、ついに会えたかも知れなかった。ところが、僕は負けた。男性として女性に近付きたい・触れたいという、だれもが抱き、為し得る、凡庸な欲望に、黒く染められた。その結果が災いして、来るはずだった未来は崩れ落ちた。そうした正直な願望と後悔を、ありのまま、ここに居るオオクラさんに伝えた。


「だったら、おいらが、ミチの代わりになる。それでは、だめ、ですか」


「そういうことじゃないんだよ」


 改めて、オオクラさんが持っていないものについて語った。


 かつてミチさんが持っていて、あのワダチでさえも明確に持っていたもの。それは、運命にも似た共通の概念だった。一部では「波長が合う」なんて言うが、そういう安っぽい言葉では表せない。オオクラさんに出会ったのも一つの巡り合わせだった。だが、すべての人との出会いはいつか終わる儚くて尊い繋がりで、その中でも際立って特別な巡り合わせこそ人生で一度あるかないか。


「わかった、です。……先輩にとって、おいらは特別じゃないってことなんだ。そんなの、最初から知ってた、です。それでも、一緒に居たら、だめなの?」


 僕には判っていた。ただなんとなくの男女がうまくいかないだろうことを。実の親がそれを目の前で証明してくれたのだから疑わない。夫婦っていうのは、利害関係が成り立っているうちは、好き同士でなくても腐れ縁みたいにうまくやっていける。それは僕の想像に過ぎないから、本当は仲良しかもしれないし、想像通りの形式的な関係かもしれない。だけど、長く一緒に居ると薄れていくのは、紛れもない事実だと思う。その倦怠期を覆せるのは唯一、劇的な歴史に他ならない。たとえば、二人が結ばれるまでの困難や、障害の数々。それらが絆をより強くしてくれる。


「君の抱いている感情や記憶は永遠じゃないって分かるんだ。僕が居なくても、きっとオオクラさんは強く、かっこよく生きていく。むしろ、僕と居たら弱くなる。それが嫌なんだ」


 時々、僕は予言する。そして、それは自分にとって不都合な出来事であるほど、よく当たる。覆るのであれば、こうした超能力は要らない。無意識に感じ取った何かを判断材料にしているかもしれないし、見聞きしたことも考慮しているのだろう。


「おいら、強くなんかないのにな。……でも、先輩がそう言うなら、お別れしましょうか!」


 オオクラさんは笑顔を作り、組んだ両手を高く上げて伸びをした。




   4


「君がイオギユウシュンくん?」


 人通りが著しい広場の近くにメールで知らされていた格好の女の子が居た。暗色のクロップドパンツに、淡い青系の半そでのブラウスを着ている。髪の長さは丁度、ミチさんと同じような、ギリギリロングだった。落ち着いた雰囲気で、遠目からだと二十代前半にも見える。その穏やかな顔立ちは、やはり同世代の女子高生だった。


 朝方、僕は自宅からバスで最寄り駅まで行き、地元の電車を乗り継いで、一時間くらいで都心まで来た。待ち合わせの時刻は午前十時だったのに、僕が東南口と東口を間違えたせいで、二〇分ほど遅れが生じている。彼女はメールで予告した通り、東南口の広場に居た。迷った僕は通話しながら駅構内をうろつき回り、どうにか到着した。これだけたくさんの人が居るのに、だれ一人として手を差し伸べてくれない。それが東京クオリティ……なんて、自業自得以外の何物でもない。大勢の人に囲まれ、ストレスを感じて、やり場のない不満があったのだ。


 それが顔に現れていたのか、青は苦笑いを浮かべ、簡単な自己紹介をしてくれた。


「私はヨシカワ。ヨシカワ、アオイ」


 ぱっちりした目をしていて、比較的童顔の部類に入る。人懐こそうな印象はあるが、戸惑いがちに視線を送ってくる。遅れた事について僕が謝罪したら、気さくに受け答えする。声を聞いていると、電話で話した女の子なのだと確信した。ちなみに、趣味は散歩したり写真を撮ったりすることらしい。対して、僕はゲームをしたり時々小説を書いたりすることと答えた。


 立ち話が終わって、二人は駅から歩いていく。前を歩くアオイに、どこへ行きたいか尋ねられたが、僕はこの辺りの事情には詳しくないので特に要望は言わなかった。彼女が便宜を図って、目的地を決めてくれた。


 まず、僕が普段利用しないコーヒーショップに訪れた。客数もそこそこ入っていて、注文をした時は多少待った。頼んでいたコーヒーを受け取り、アオイと向かい合って席に着く。共に、アイスコーヒーを頼んでいた。


「ユウシュン。君って、思っていたより地味だね。気を悪くしないでおくれよ、いい意味で言っているんだ」


 コーヒーには口を付けず、話し掛けてきた。僕は自分のグラスを口元に運ぶ。


「メールの文面からだと、異性との関わりが活発だから、もっとイケイケな男子かと思っていた」


「悪かったな、期待を裏切ってしまって」


「いや、思っていた通りだったら、私は君に気おくれしていた。今の君に安心してる」


 この子と話していると、なんかちょっとむかつく。イライラしてくるのではなく、気に障るというか、複雑な心境になる。


 僕は外見で自分を表現するのが得意ではない。長そでのシャツとチノパン、という簡易的な着こなしで済ませている。街をゆく若者がそれぞれ、しゃれた服を着ているが、その意味合いはよく解らない。僕がこだわっている点は、頭が悪そうに見えるから腕や脚を露出しないようにしていることくらいだ。人前で悪目立ちするから明色の服もなるべく着ない。


 外見に対する評論はしばらく続いた。身長が高いことを「三高(※)」の話と絡め、誉めてくれたが、お世辞にしか聞こえなかった。手がきれいだからどうとか、肌が白いからどうとか、不思議な着眼点だ。僕にとっては、手が汚いのは論外だし、日焼けした肌が自分の容姿に合わないのを理解している。無意識に続けている美意識を実感させられた。

※高学歴、高収入、高身長の三つの「高」。かつて、女性が男性に求めた三つの好条件。


「……君は色眼鏡か何かをかけているのか」


「第一印象を語るのが今の我々には重要だと思ってね。今度は君の意見を聞かせてもらいたい」


 アオイとは、打ち解けたみたいだった。そして、これが彼女の持つ彼女らしさなのだと理解させられた。僕が思うアオイの第一印象は、知的というより、じゃじゃ馬だった。


「ちょっ、じゃじゃ馬って。私、これでも君には気を遣っているんだよ。傷付いたな」


 正直な意見を述べたら、ひどくご立腹だ。その前から僕はご立腹だ。この子に主導権を握られるのが鼻持ちならない。他の女子が相手ならば、ここまで気に障らなかっただろうけど、アオイの言動は許しがたい。


 出会って十数分で、もう険悪な空気だ。


「……例の、メールで話してた男性とはどうなった? 僕と同じ名前だっていう」


「ああ、そのことなんだけど」


 眉をひそめながら、まだ迷ってる、と言った。そして、「彼に万一の事があった時、どうしても責任を感じてしまう」と付け加える。


「人一人の死には、様々な要因があると思う。だから、その……。君だけが悪いなんてことには、ならない。責任の一端があるとしても、その割合を勘定してくれるのはだれだい。神か?」


 ふいに彼女は「ふっ」と息を吹き出しつつ、うつむいた。


「なんだよ、それ。おかしい」


「僕は至ってまじめだ」


 その声を聞いた途端、顔を上げたアオイはまっすぐに僕の目を見つめた。


「なら、なおさらだよ。私だけが悪いのではなくても罪悪感は残る。割合の多少に限らずね」


 責任の重さを勘定できなければ気に留めるほどじゃないと考える僕。量に関わらず、責任は責任だと言い張るアオイ。話はどこまでも平行線をたどりそうだった。


 彼女はそこでようやく自身のコーヒーをわずかに口に含み、一息ついた。


「しかし、共犯者が居ると思えば気が楽かもね。私らしくない逃避だけど」


 生真面目で愚直なアオイは話題を切り替え、今後の予定について相談してきた。行きたいところがあるのだという。新宿の隣にある千代田区に、古本屋の街がある、と。


「君はケータイ小説を書いているよね。興味があるなら、出版社を――」


「僕はパスだ。自分に文才がないことは、自分が一番よく知ってる」


 女は言葉を遮られたにも関わらず、にやにやしつつスマホをいじっている。そちらの画面を見ながら話し掛けてくる。


「『出口のない迷路』、読んだよ。君の書く小説には親近感が湧く。共通して言えるのが、登場人物が大体死ぬ。この作品は特に悲惨だ」


「論評(ろんぴょう)は受け付けてない」


 お断りの意志を表明したら、スマホに向けていた視線をこちらに戻し、悪そうな笑みを寄越した。顔がすでに馴れ馴れしい。


「感想なら話してもいいだろう?」


 嫌と言っても、是が非でもしゃべるだろう。そう思った僕はコーヒーを飲んでから「好きにしろ」と、そっぽを向いて投げやりな返事をした。


「この話は人生のどうにもならない様を表していると思う。運次第で持ち上がったり突き落とされたり、嫌いじゃないよ。人間臭くて」


「そいつはどうも」


 アオイもコーヒーを飲み、自身のスマホを持っていたハンドバッグに仕舞った。両者のコーヒーは共に、半分より少なくなっている。唐突に、彼女は真摯な眼差しで僕を見つめた。しゃべり好きな口が性懲りもなく開く。


「君は人の死をどう捉えている? 私たちはいつか必ず死ぬけど、そんなこと忘れて過ごしている人がほとんどだ。私もそうだ」


「じゃあ、それでいいんじゃないか。忘れるなら考えるまでもないだろう」


「まあ、そう言わずに。君の意見を聞かせておくれ」


 単なる好奇心やいたずら半分でもなく、どうしても知りたそうな声の響きだった。僕はおとなしく答えた。人の死とは「僕たちが生まれながらに所有していて、決して手放せない足かせ」なのだと。死さえなければ、人間は永遠の馬鹿に成り下がるのだとも。反対に、死があるから人間はかろうじてマシな馬鹿に留まれているのだと。


「ふふ、君って愛のある皮肉屋だね」


 朗らかな顔付きをして、僕の講釈を楽しそうに聞いていた。僕が皮肉を言った覚えはなく、そう言われて心外だった。


「病気をしたら病院を使うし、人は大半が『死にたくない』って感じるもの。だから医学が発展して、人の寿命を着実に伸ばしている。大体の人は永遠の馬鹿になりたがってるってこと?」


「そうだ。……死にたがっているやつは、生きようとする馬鹿より下。馬鹿ですらない」


 そこまで言って、ようやく自分が皮肉を言っていることに気が付いた。


「ちょっと分かりにくいけど、君なりに私の悩みに対する答えを示してくれてるんだね」


 僕は人の死については述べた。しかし、まだアオイの欲する答えには到達していない。したがって、これを付け加える必要があった。


「この世に全く罪のない人間なんて居ない。それを自覚していないから馬鹿なんだよ。今の君もそうだ」


 だれかが死んだ、その責任を受けても、人はきっと生きていく。どのみち生きている限り罪人である僕ら人間が、死にたくない(=生きていたい)、と考えることはそれ自体が愚かで馬鹿げている。馬鹿にすらなれず、一人で背負い込んで、きれいに死のうとするのは論外だ(生きて苦しめ)。そこまで言うとさすがにくどくなるから言わなかった。


 アオイは目を丸くして固まっていた。僕は構わず、残っていたコーヒーを飲み干した。




 ものの数十分の滞在だったが、昼時が迫り、混雑の兆候があったコーヒーショップを後にし、大きな建物に囲まれた街を歩いていた。


 目的の神田神保町まで、歩きでは少々時間が掛かるのに(しかも暑い)、アオイが徒歩を希望したため、その後を付いていく。車が忙しなく走り抜ける道路沿いの、建物の数々を通り過ぎ、新宿の高校が向こう側に見えて、学校の話題になった。彼女は、教室の生徒たちに対しては話し方を変えているのだという。コーヒーショップでの会話の様子を振り返ってみれば、無難な判断だ。僕に対してもそうしないのはなぜだろう。これがわからない。


 その学校を過ぎたら、大通りを左に曲がって進むと、正面に見えてきたビルの一階にコンビニがあった。店名から、ここは新宿2丁目らしい。僕らはそこに立ち寄り、飲み物を買ってから、また街を歩いた。進んだら右に折れて、靖国通りと呼ばれる道路をまっすぐたどっていく。陽がほとんど真上から差してくるため、暑さは尋常じゃなかった。ビル群がよくも溶けずに建っていられるものだ。


「この暑いのに、なぜ電車やバスを使わないんだ」


 僕が素朴な疑問を投げ掛けると、隣を歩いている女子は先ほど買ったばかりの、凍っている飲料を額に当てながら雲がほとんどない空を仰いでいる。


「車内だと君とゆっくり話せなくなるからね。何より、歩いて向かうことで、今日という日を印象づけたいのさ」


「とんだマゾヒストだ……。着いてからゆっくりしゃべるのではだめなのか」


「私はどちらかと言えばそうかもしれないが、そんな目で見ないでほしい。君と話していると安心するんだ。話していられるなら、ずっと話していたい気分だ」


 この子がマゾヒストかどうかなんてどうでもいい情報だった。正直言うと、アオイは饒舌すぎて、僕の苦手なタイプだ。おしゃべりな人は好ましくない(寡黙な人は好き)。あのクラスメイトでさえ、空気を読んで話を切り上げるというのに、この子と来たら一向に口が減らない。女性は男性と脳の作りが微妙に違うみたいな事を聞いたことがあるが、この子は男性寄りなのか女性寄りなのかさっぱり分からない。口数が際立って多いのが女性の特徴だ。答えを曖昧にしておかないで突き詰める思考は男性に近いような気もする。いずれにしても、僕は厄介な人に気に入られてしまった。


「ずっと気になっていたんだが、君の、その話し方は素なのか? 作ってるのか?」


「女の子の口調を所望かい。あれはどうにも好まない。……他の子の前でこそ作っては居るが、こと君の前では素だよ」


 変なやつ、だと思った。外見からして今時の女子高生なのに、口を開いたら残念な感じがして、初対面の男性からの幻滅は避けられまい。現に、出会うまで僕は青という人物を誤解していた。まさか、こんなマゾヒストで、減らず口の、物好きとは思わなかった。それとはほぼ無関係だが、新宿という街を嫌いになりそうだ。高い建物の威圧感が怖い。


「本当か。意中の相手を前にしたら、化けの皮が剥がれるっていう、あれなんじゃないのか」


「君はそういうのを期待しているの? 私はそんなことない。絶対に」


 ムッとした目をしている。どうやら、僕の思い過ごしだったみたいだ。


 会話は途切れることなく続く。メールで話していたことの続きや夏休みの過ごし方、よく見るテレビ番組など。進路に関しても少しだけ。およそ四〇分は歩いた。


 そうして目的地へ向かう途中、千代田区へ繋がる橋を前に、ファーストフード店へ立ち寄り、昼食を取ることになった。炎天下から冷房の効いた屋内に移ると、背中や首もとの汗が急速に冷えていき、寒暖差で具合が悪くなりそうになる。僕は肌を出していないからまだ増しだが、アオイはわずかに寒そうだった。


「外で、食べるか? 寒くない?」


 会計をした数分後、できあがった商品を受け取り、時間帯のせいか混雑ぎみで、限られた空いている席へ移動しながら問う。


「あっ、そうだね。……でも、なんかもう慣れてきた。ありがとう」


 その瞬間だけ、言葉遣いに女の子っぽさがのぞいた。普段の口調との落差に、熱いものが感じられる。だが、着席してから、次に口を開いたアオイの言い種は元通りで、気の迷いは早々にかき消えた。注文したのは、お互いにハンバーガーではなかった。ここでも、二人とも同じものを頼んでいた。こういうのを「波長が合う」なんて言うのだろうか。むしろ、気まずいのだが。


「こういう店ではハンバーガーが定番じゃないか。君、わざと私に寄せてきてる?」


「こっちのセリフだから。君の方こそ、なんでそれにしたんだよ」


 注文したのは彼女が先だったが、僕はそれを詳細に見聞きしていたわけではない。ハンバーガーでもフライドポテトでもなく、五個入りのチキンナゲット。別売りのソースの種類まで同じだし。


「これ系の店ではこれで決まりだろう? 君もそのつもりで頼んだんじゃないのか。ナゲット」


 アオイの一見して理解不能な主張が感覚でなんとなく解るのが悔しい。


 昼食というより軽食を終えると、彼女は新しい話題を放り込んだ。いい加減、話し飽きないものか、と半ば感心した。「もしも、次に会うとしたら、いつ頃会いたいか」と聞いてくる。


「別に早くても遅くてもいつだっていいよ。まだ、それくらいのお金は持ってる。だけど、次も会ってどうするんだ」


 アオイは苦笑混じりに、顔を下に向け、目線を横に逸らして、口ごもっている。トイレに行きたいのを我慢しているかのようで、僕は目を細め、慎重にその様子をうかがっていた。口を開いたら立て続けにしゃべり通す彼女にしては長い間だった。


 正体不明の緊張に心臓が急かされる。ようやく彼女の重い口が開かれる。


「私にもよく解らない。だけど、聞いておきたかったんだ。また会えるかどうか」


 その言葉をおかしいとは思わなかった。会ったばかりの僕たちでも、こうして同じ場所の空気を吸って、関係を築いた以上、接点はできた。知り合いで終わる出会いもあるが……。少なくとも、アオイは僕の敵ではないだろう。また会ってもいい。


「会えると思う。できれば冬がいいな」


「冬休みか。一日、同じ場所でゆっくりする、なんてどう?」


 ビル群のそびえ立つ街をぶらぶらするよりはその方がいい、と推した。しかし、この子と一緒に居る時間が増えると、いろいろと問題がありそうで心配だ。二人きりのそこであった新しい発見が地雷だったなんてのは勘弁してほしい。本当に、この子とどうにかなりたいわけじゃないのだ。


「ところで、この先の本屋に言って、何を買うつもりなんだ」


「ああ。……君、森博嗣(※)って人を知っているかい」※小説家。代表作は「すべてがFになる」、「スカイ・クロラ」。


 その名前を知らなかった。正確には、忘れていた。詳しい話を聞いてから、地元の本屋に行った折、小説売り場の棚に差し込まれていた名前だと思い出した。アオイは「スカイ・クロラ」シリーズのアニメ映画を話題に挙げつつ、読んでみたらどうかと勧めてきた。テレビアニメには詳しいつもりでいたが、アニメ映画とは盲点だった。


 あと、僕は読書をする人間ではなかった。書くのと読むのは違う。自分の思いを外に出すのはできても、他者の作品を日常的に楽しむほど寛容でもなかった。むろん、国語は得意だから、文章を読み解いて作者の心情や演出を推し量ることはできる。だが、読書という行為に苦手意識がある。退屈で苦痛を伴う、という先入観が抜けきらない。本屋に並んでいる新刊小説をぼんやり眺めても、いざ読もうとはならないし、読んだら自分の無力感にさいなまれるだけだ、と悟る。


「本は、あまり読まないんだ。不出来な人間だからね」


「そうか。なら、いろいろな本を読んだら、物の見方がもっと鋭くなると思う。書き手としても、それは無駄じゃない。ぜひ、読書を勧める」


「…………」


 恐怖症にも近い活字への忌避が、強い心理的な抵抗を生んだ。気は進まない。しかし、アオイなりに僕を気遣ってくれているのだろう。無下にするのも忍びなかった。




 ファーストフード店を出ると、やはり外の気温は高かった。


 橋の上を歩いている。下の方に川みたいなものが見える。アオイはそれを「外濠(そとぼり)」だと話し、かつて江戸城の広大な敷地を囲っていた濠(ほり)だったそうだ。川に間違われてもおかしくないくらい相当大きい濠だったことが想像できる。……どうりで川にしては汚いと思った。


 外濠を渡りきると、市ヶ谷駅がある。


「本当に、歩いていくのか」


「ああ。もう歩けないのかい?」


 昼時を過ぎ、コンビニで買ってきた凍っていたはずの飲み物はすっかり飲める状態になっていた。アオイと同じ商品を持っていた僕は、もはや波長がどうだとか下らないことを考えず、それを飲み干した。


「へいへい、行きますよ。君こそ、熱中症で倒れるなよ」


「倒れても、君が介抱してくれるだろう。ふふ」


 笑い事ではない……。


 千代田区に入り、靖国通りを歩いていくと、緑豊かな靖国神社があった。都内と言えば人工物のイメージが強いが、所々に自然の面影を残している。地球の気象は年々変化の一途をたどり、何百年後かには自然の有り様も変わってしまうのだろうか。人が生きていくっていうのは、それだけで罪深いことなんだと改めて実感する。


「僕たちが生きていく上で、自然はどう変わっていくんだろうか」


「ん、環境問題の話? 切迫するほどに、どうにかしようとはするんじゃないかな。まだそこまで厳しくなったってイメージはないけどさ」


「やっぱり僕たちは度しがたい大馬鹿だ」


 アオイは笑うでも怒るでもなく、「そうだね」と答えた。目的地に近付いてくると、あれだけ長く思えた道のりも短く感じられる。これを油断と呼ぶ。靖国神社を過ぎると、また濠があって、武道館と呼ばれる建物があった。


「何かひとつでも楽しみがあるから、みんな生きようと思えるんだろうね。どんな小さな事でも、生きる理由さえあれば……」


 武道館の方を眺めつつ、何かに納得したような物言いだ。


「ユウシュンに会えて、本当によかったよ」


「お別れの言葉みたいだな」


「はは。また会おうぜ」


 ようやく二人は神田神保町に着いた。